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信州大学繊維学部近くにある空海ゆかりの「帰り石」

信州大学繊維学部正門前近くにある「帰り石」

長野県上田市の信州大学繊維学部正門前にある小路は、およそ千二百年以上も前からある古道です。実はこの古道を空海が若いころ歩いていたのを皆さんはご存じでしょうか。そんなことがなぜわかるかというと、この正門前の道を少し北のほうにたどっていくと「帰り石」という地名の小字(こあざ)が、今のスーパー西友に出る直前にあります。西友横の大きな祢津街道に出る直前の小路右側の脇に、大きな岩が2つ並んであります。それは、現在はある人の家のお庭の中にあります。この家の人は、この2つの岩の横に小さな板に「帰り石」と墨書して表示しています。小さいので見落としがちなのですが、ここは大昔に空海が旅の途中に休んだところと言い伝えられています。2つの並んだ大きな岩は、一つは高くもう一つは低くてちょうど腰掛くらいの高さです。両方とも頂上が平らかになっており、浅間山が大昔に噴火したときここまで流れてきた火山岩のようです。

3-06a 帰り石の看板

空海の大学出奔と卒業論文

空海は、奈良時代の末期、四国の讃岐、現在の香川県から選ばれて全国の秀才の集まる奈良の都の大学へ進学しました。大学に進学して2~3年した頃、空海は、なにゆえか大学から出奔して、2年ほど全国を旅しました。司馬遼太郎によると、人生の迷いを解決するための悟りの旅だったようです。この旅の後奈良の大学にもどり、有名な卒業論文を書いて卒業しました。その卒業論文は今に伝わっていて「三教指帰(さんごうしいき)」といい、そのころの三大哲学である儒教、道教、仏教の本質を戯曲にまとめて優劣を議論しており、中国語で書かれています。なぜ中国語かというと、当時は平仮名も片仮名も発明される前ですから、大学での勉学は中国語かサンスクリット語(梵語)が、読み書きできなければどうにもならなかったからです。現在でも、発展途上国や小国では教科書は外国語のものしかないところが多数あります。自国語に、高等概念を表す言葉がないので、外国語でしか大学教育ができないのです。当時の日本はそのようなレベルの国だったと言えます。したがって、古代の日本で白鳳、奈良、平安時代は、公式文書はすべて中国語つまり漢文であり、中国に留学して中国語ができる人のみ立身出世しました。選ばれて奈良の都の大学に行けるのは、その国(=現在の県)の大秀才の若者にしかできないことだったのです。今でいえば18歳の高卒の若者で、英語の実力がTOEIC900点以上のものを選んで集めたようなものだったのでしょう。古代の律令制の大学を卒業した者は、有能な官吏として登用され、国家のために働くのが、選ばれた若者に期待される人間像だったのです。しかし、空海はこのような定められた人間像に深い疑問を抱いたようです。

空海と信州上田

空海が大学を出奔して全国を旅した時、信州の上田あたりにも来たらしく、当地には空海にまつわる言い伝えがたくさん残っています。そのひとつに、塩田(しおだ)地区の弘法山(別名:独鈷山)があります。この弘法山には谷の数が百に一つ足りなかったので、修業の場として候補から落ち、後に弘法大師空海は、高野山に仏教寺院群を建て高野山を修業の場としたと言い伝えられています。また、その弘法山のふもとにある前山寺は空海が開山したといわれています。しかし、その後荒廃してしまいました。二百年後、それを知ったやはり讃岐の出身の僧が、このお寺を再興しました。今も名刹として崇敬を集めている大寺院です。
また、信州大学繊維学部正門近くの「帰り石」も、空海にまつわる言い伝えの一つです。ここ「帰り石」の地には、二つの黒々とした火山岩があります。空海は、この低い方の岩に腰をかけ、持っていたお経が少し湿っていたので、乾かすために高い方の岩の頂上にお経を置いて、旅の途中休みました。しばらく休憩した後、この古道をまた歩いて旅を再開しましたが、さっき高い方の岩の上に置いておいたお経を忘れたのに気がつき、引き返してきました。それで、この空海のいわれのある2つの岩にちなんで、ここの小字名を「帰り石」というのだそうです。

3-06c 帰り石真ん中から写す

信州大学繊維学部正門前の小路に空海が

信州大学繊維学部正門前に、千二百年前からいまもある小路を、空海が歩いていたと知り、同じ讃岐の出身で現在信州上田に住んでいる私は、言い尽くせない不思議な縁を感じて深い感動を覚えました。

2011年1月15-16日随筆
2021年6月4日加筆
信州上田之住人

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