たしかな轍と想像できない明日について-2023年振り返り雑記-
こんにちは。いわたです。
大変な年始でしたね、で片付けるのは簡単すぎて浅はかすぎるから、書き出しを迷っていました。
この文章は年末から書いていたけれど、いつ公開されるのかはわかりません。でも書き続けることで、これは世の中に置いておいても良いと思えるようになる気がして、わからないままに書き連ねています。
最近、いろんなことを知って、経験して、逆にわからないことが増えました。同時に、「わからないね」とことばにすることも増えました。
ただそれは無責任な思考放棄ではなくて、考えに考え抜いたうえでのことばとしてこぼれ落ちたものだと思ってます。
そんな状態を、自分を、世界を、好奇心をもって生きていくなかで、この"文章をかく"ということは必要な儀式なのだと思うようになりました。
それはリフレクションでもあり、自分が10年以上前に出会って今でも持ち続けている価値観"過去最高を更新し続ける人生を送る"ために必要なリフレーミングでもありました。
過去最高を目指すなら、まずはその過去を見つめ直さなくてはいけない。その過去を自分のなかでどう昇華するか。抽象化をして、自分の意思決定の理由として捉えなおす。そんな作業が自分には必要でした。
前置きから言い訳じみたことをつらつらと並べてしまいましたが、僕が生きてきた軌跡と、これから生きなくてはいけない明日について、少しの思考の旅にお付き合いいただければ幸いです。
そして欲を言えば読んでくれたあなたにとって、少しでも何かに触れるものがあれば、嬉しいです。
2023年、1年の軌跡
2023-24は宮古島で年越しを過ごしてきました。
去年は湘南で過ごしていたから、やはり海のそばは離れられない性なのだな、などと思いつつ、激動の2023年を洗い出していました。
大きなトピックとしては、暮らしが変わったこと、場づくりが始まったことがありました。
そして例年通り、たくさんの場所に行きました。
(眺めてみると本当によく旅をしている。貯金ができない理由を毎年ここで実感する)
軌跡から見えた大切にしたいこと〜無駄やよくわからないものを愛するということ
ここで少し、自分の軌跡をながめて感じたことを。
最近読み進めている本、「暇と退屈の倫理学」の一節には"人類は本来遊牧する生物であったため、定住はある種の’能力の過剰’であり、刺激を求めることは本能的に備わっている"といったことなどが書かれています。
上述した通り多動な自分には納得感が高いものでした。
"同じ散歩コースは思慮に良い"、"ジョブスは黒タートルで服選びという余計な選択を減らしている"という話は多くの方が聞いたことのあるライフハックではないでしょうか。
ただ、この「無駄の排除」は突き進めてしまうと正常性バイアスがはたらく状態に近づいていってしまうのではと考えます。
異常時・緊急時に、当たり前に日常が戻ると考えそのまま動けずにいるか、今までの日常が奇跡によってなりなっていたと考え、次に向けて行動に移せるか。
日常の暮らしや生活のなかで、自分が興味のあるもの、自分に必要なものだけが情報として入ってくる生活は快適で便利かもしれない。しかしその刺激を排除していくことは、本来認知していなかった「なにか」すらも刮ぎとってなくしてしまうのではないか。そんなことを読み進めながら思いました。
そしてその「なにか」を求めて、自分たちで刮ぎ落としたものを再度探し始めるという滑稽な状況が、暇や退屈の背景にあるのではと感じました。
気づいていなかった認知領域があることを認め、一見無駄だと思うこと、なにかわからないものを愛し、興味をもつこと
暮らしをかたちづくっていくことを生業としようとしている自分は、その些細な違和感に気づける人でなければいけないなと思いました。
なぜか良い、なんとなく心地が良い
そこにはたくさんの「なにか」が溢れているはず
言語化できない部分も含めて、2024年はそれをことばや場、自分自身という存在で表現していきたいなと思いました
2023年、はじめてしたこと
行った場所以外に、たくさんのはじめてを経験しました。
20代最後になってもこれだけのことができると思うと、少し生き急いでた自分を落ち着かせてあげたいと共に、何歳になっても人生においてはじめてを確認しながら生ければよいのではと思うようになりました。
なにかをはじめるには同じくらいやめることが大事だなと思い、去年一昨年は「取捨選択」というテーマを持っていました。
ただ"捨てる"という表現はあまり自分のなかではしっくりきていなくて、そもそもグラデーションだよねという前提のもと、"卒業"や"継承"など、昇華させていくものもあれば後継に引き継いでいくものもある。そんなテーマに変容していきました。
このとき大事だと感じたのは、しっかりと手放すこと。そして、見守ること。
ちゃんと離れる、そのうえで見守る。
今後自分が誰かに託すときは、そんな継承ができるといいな、と思います。
2023年、考えたこと
今年は今まで以上にたくさんのことを考えました。
よい場づくりってなんだろう?
理想のパートナーシップとは?
対話という手段に頼りすぎていないか?
目の前の人を大切にし続けるとは?
豊かな暮らしを自ら探して実現する人たちを増やすには?
それぞれに本気で悩みきり、たまに「わからないけど進むしかない」という葛藤も抱えながら、やってみる。そして時には自他共に傷つき、また悩みが増え、問いが深まる。
答えがなく、考え続けていくものが問いだとしたら、問いが持つ真摯さとひたむきさは時には自分の器をゆうに超えて容赦なく弱さを突きつけてきます。
1年の中で、一人で、二人で、みんなで、いろんなことに関して問い、対話しました。
当事者以外の人たちから見たら、少し後退していたり、全くちがう課題が出てきているかもしれない。
ただひとつ言えるのは、確かに考え抜いたそのプロセスは無駄ではないということ。
別のまなざし、ものさしを知り、自分の世界や問いを再構築することは、別の問いを生み出し、それはこの"わからない"未来を生きていくうえで常に必要とされるプロセスなのだと思いました。
さいごに、発信するということ
ながながと続けてしまいました。
発信することについて、最後に話します。
今年は人前で話させてもらう機会が増えて、自分の意見や経験を話すことも増えました。
SNSで趣味も含めて、「わたしはこんな人です」「こんなことをやっています」を発信していくことは、新たなつながりや紹介を生んでくれました。
これは発信してきたからこそお誘いがあり、繋がりができたものだと自覚しているし、その根拠となる行動をやり続けているからこそではあると思っています。
ただこれからは、少し違う側面での発信を心がけていきたいと思っています。
必要としている、届けたいと思う、特定多数にしっかりと届けていくこと。
今、自分が日々悩み続けている、答えのない問いに向き合うこと。
これはきっと誰しもができることではなくて、それは能力とかではなく、与えられた特権性なのだということを改めて自覚しました。
今自分がずっと興味のあった「コミュニティ」というものを仕事にしていること、
大企業の社員が副業で会社を創業し、経営者としてもパラレルキャリアを歩んでいること、
二拠点という暮らし、複雑な嗜好を楽しみ、対話してくれるパートナー、バディ、メンターがいること。
この特権を、自分だけのものに留めておくのではなく、なにか少しでも誰かに届けられる形にして届けていきたい。
きっとその場合は、マス向けの表現でもなく、自分の自己満足の表現でもなく、その人のためだけにことばを紡いだり、行動で伝えたり、また違った表現になるのだと思います。
ただそのn数が増えていくことで、自分の届けたいものをしっかりとその人に伝えきれる表現を身につけたい、というのが今年の抱負です。
自分にしかできない血の通ったコンテンツをつくりたい、
と尊敬している編集を生業とする人が言っていました。
血の通っている、自分にしかできない表現をしていくこと。届け方はことばだけじゃないと思ってます。
生き様で、その人との時間で、自分という人間を表現していきたいと思います。
今年もたくさんお世話になるかと思いますが、たくさん関わらせてください。お話しさせてください。
2024のいわたもよろしくお願いします。
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