時空
自分が過去に訪れた建物の跡地を通ると、強い郷愁の念に駆られる。
かつて自分はあの何もない空間に存在していたんだな、という考えが頭を巡り、自分が自分ではなくなるかのような感覚を覚える。
◇
その昔、足しげく通っていたボウリング場が取り壊された。
ボウリング場は、たしか5階くらいに入っていた気がする。
数年の歳月が経過し、更地になった空間の5階ほどと思われる高度に目をやる。
すると、幼い自分が球を放っている様子が脳裏に浮かんでくるのである。
かつて自分は、あの空間を歩くことができた。
だが、今はもはや、あの空間を歩くことはできない。
あの空間を歩行できる人間は、存在しない。
新たに足場が築かれるまで、あの空間は人間の力の及ばぬ空間になる。
自分にとって、あんなにも身近な空間だったのに。
そんなことに思いを馳せていると、果たして、存在とは何か、自分とは何か、自然とは何か、という問いを考えずにはいられなくなる。
今日の自分は、なぜ数年前と同じ自分といえるのか。
なぜ自分は、今は存在しない過去の自分を存在するかのようにイメージできるのか。
問いは頭を巡るばかりだ。
僕が頻繁に抱いてしまうこのような問いは、先人たちが悠久の時を超えて考え抜き、私たちに偉大な手がかりを遺してくれた。
僕も、もっと時間をかけて、このような深遠な問いに向き合いたい。
そして、何か一つでも、自らで手がかりを遺したい。
その想いは過去も現在も、そして未来も、自分の心に宿っているのだろう。
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