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「あたりまえ」のない世界を、どう生きるか。




「あたりまえ」だと思っていることは、意外と「あたりまえ」じゃない。


この感覚を養ってくれたのは、高校時代から大好きだった「歴史」だった。


先日、新聞を眺めていると、こんな言葉が目に入った。






1カ月前、第46代米大統領に就いたジョー・バイデン氏は「民主主義はもろい」と語る。古代ギリシャ以来、2500年以上の歴史を持つ民主主義は長く衆愚政治に陥ると忌避された。それがこの2世紀ほどで自由や法の支配という価値と結びつき、経済成長に伴って普遍的価値に高まった。

(太字は引用者による)

(2021年2月22日 日本経済新聞朝刊より)







あらためて、ハッとさせられた。


現代では当然のものだと思われている民主主義は、それまで長らく避けられてきたという。


私たちが今感じている「あたりまえ」は、人類の営みの中で見れば極めて特殊であるといえる。








◇◇◇










正直、こんなことは大学生になるまで全く考えたことがなかった。


あたりまえのように学校に通い、あたりまえのように仕事を選べ、あたりまえのようにお金を使う。


こんな日常も、この時代、この国に特有のものであって、絶対に変わらないものではない。










僕は現在25歳で、バブルも知らないし、リーマンショック、スマホの普及といった世界の転換期の際も、まだ何も知らない高校生だった。



よって、「あたりまえ」が変わったような意識はなかった。










そして受験、大学での学びを経て社会人になった今、人生最大の「あたりまえ」の変化を目の当たりにしている。


そう、コロナウイルスの流行だ。










コロナ騒動が起こってから約一年が経った。


一年だ。


一年で、私たちの「あたりまえ」は次々に崩壊した。


「あたりまえ」なんて、かくも脆いものか、と驚いた。










こんなにも、歴史に立ち会っている感覚を覚えるのは生まれて初めてだった。


それと同時に、不安と無力さも感じた。


これまで学んできたことを活かしたいのに、それを活かせる身分もなければ、環境もない。


一寸先は闇で、今後どうなるか全く分からない世界で、自分にはできることが何もない。











そんな「あたりまえ」のない世界で、どう生きていくか。


これから先のことは、本当に誰もわからない。



そんな時代だからこそ、自分が信じられる自分でいたい。



そんな思いで、今日まで奔走してきた。







◇◇◇









「あたりまえ」がいつまでも続くと思ってはいけない。


ことあるごとに、歴史が教えてくれたこの事実を胸に刻んでいる。









そして、歴史の重大な転換期として後の世で認識されるであろう現代。


この時代をどう生きたか、自分の人生の中でどんな意味を持つ時代だったのか。


数十年後、成長した自分が胸を張って語れるような生き方をしたい。


僕を一生守ってくれると思っていた「あたりまえ」の世界は、想像よりもずっと脆弱なものだったのだから。






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