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ミシェル・ウエルベック「セロトニン」の感想

ミシェル・ウエルベックの「セロトニン」を読み終えた。

ちょうど会社を辞めるつもりだったので、辞めてから読もうと3ヵ月近く積んでいた。先日やっと読み終わったのだが、やはり無職で読むウエルベックは良い。その点に尽きる。

さて、以下は「セロトニン」「ある島の可能性」のネタバレを含む感想となるので注意してほしい。また「闘争領域の拡大」「プラットフォーム」「地図と領土」「服従」の内容にも部分的に触れるので、その点も注意。


感想を箇条書きにすると下記の二点。

①前半が読むのがつらい。嫌いな女についての描写が長々と続くのがつらい。

②後半が面白すぎる。特に終盤になってくると、どうして苦しい前半が必要だったかが分かってくる。


①について、まず今回は今までのウエルベックの文体と全然違う(よって翻訳も違う)ので、その文体に慣れるのが厳しい。

そして、前半はただひたすらユズという女性がどれだけ嫌いかということがずっと述べられる。今までの作品でウエルベックは嫌いな女性についてここまでページを割いてこなかったんじゃないだろうか。描写があっても1ページとかで。それはだいたい過去の恋愛であったり、ただの同僚であったり。ともかく主人公にとっては取るに足らない存在であり、ほとんど無視される。しかし「セロトニン」のユズは愛し合っていた存在から取るに足らない存在、あるいは忌避すべき存在へと主人公の中で変化する様子を描写しており、それがかなりキツく感じた。自分でも気付いていなかったのだが、僕はウエルベックの作品で、主人公とヒロインがほとんどご都合主義のように真の愛に目覚めたり、気絶するように激しくセックスしたり、そして最終的にその愛が死や老いの前に屈してしまう描写がどうしようもなく好きだったのだろう。たしかにユズと主人公が別れる動機は、ユズが「どうせあなたは先に死ぬでしょ」という態度を暗に示したからだと主人公が感じたという意味で、それは愛が死に屈する一つのパターンではあるが、しかしそれは所謂物質的な死や老いではない。そこは今までの作品とは違う。ともかくこの前半パートが大変につらかった。また、これはユズが日本人であるという点で、日本人である自分にとって二重に難しい問題になる。ユズが日本人であるから、主人公から彼女が邪険に扱われる描写を僕が苦痛と感じる、という点を完全には排除できない、と思う。「プラットフォーム」でも日本人はタイで買春する時に変態セックスばかりやるみたいな描写があった気がするので、ウエルベックの中で割と一貫性があるのかもしれない。あるいはそれはフランスにおける日本人の一般的な(?)セックスイメージなのかもしれない。よく分からない。

②について、エムリックの家を二度目に訪ねるあたりからこの小説は加速してくるように感じる。妻に逃げられたエムリックと主人公が対面するところ。あの辺りの描写から本当にずっとニヤニヤしたり頭を抱えたりしながら読んでしまう。特にエムリックが死んだ後に主人公が別のホテルに宿泊するあたりで、ああ、ここから主人公は人生の最後の局面に入ってくるのだな、という感覚がある。過去の作品で「僕の人生は最後の直線コースに入ったのだ」というような文章があったと思うが、その感覚。ここがジェットコースターの天辺で、ここから先はただ下りがあるだけ。(これは作中の主人公にとってジェットコースターであるというより、フィクションを楽しむ読者にとってジェットコースーターだという感覚ではあるが)

個人的に何とも言えずムズムズしたのが、主人公が徹底的にカミーユと直接会うことを避けることで、「いやいや、会って話せばええやん。悪い方向に転ぶにしても何かあるやろ。そもそもお前はお互いに今も愛し合ってることが分かっているって思ってるやんけ」と思いたくなるのだが、ともかく絶対に会わない。結局、それは主人公が不能だからなのだろうとは思う。(他の元恋人とは会ったりするのだが勃起には至らない)

ウエルベック読者なら知ってる通り、ウエルベックは「真実の愛にはセックスが必ず必要で、言葉はむしろお互いを反目させるものだ」とセロトニンでも他の作品でも主張している。そして今回はそれに加えて子どももいる。今作で主人公が「学校が遠いから下宿する」と言った時に両親がホッとしたというエピソードでも語られるように、子どもは二人の愛にとって邪魔ものとして言及される。そして主人公はその価値観を肯定している。そして何よりカミーユの子どもは男である。

主人公がカミーユの息子を狙撃しようとするシーンは作中では最も限界なシーンで、ウエルベック作品の中でも指折りの壮絶なシーンであると思う。「闘争領域の拡大」で見目麗しい若者二人が浜辺でセックスしているところを、主人公が同僚に殺してくるように言うシーンがあるが、あれの中年バージョンがここで再演される。しかし、それはもっと別の絶望の仕方であり、プライベートで、直接的で内向きな殺意になっている。そしてやはり主人公は撃つことができない。(個人的にはここで子殺しの話を持ってきたところが好きで、あのシーンに進化論的・動物行動学的な意味を入れてくるのが楽しい。そこには論理的な正当性がある)

主人公はひたすら不能に徹する。作中、主人公は双眼鏡で世界をのぞき見る。そして(おそらく不能になった陰茎の代替物となるよう作者が意図して)主人公は銃を手にするが、結局スコープから標的を見るだけで、それを動物に向かって使うことはない。海沿いのコテージからガラス越しに海を見るが、それも陰鬱で、カーテンを閉ざしてしまう。終盤ではバーのガラス越しにカミーユを見る。しかし見るだけだ。また、テレビは彼の心を少しは和らげるが、結局それも画面の向こうの出来事に過ぎず、彼が直接干渉するものではない。

あとがきでも書かれているように、本作の主人公は「プラットフォーム」のあり得たかもしれない可能性の一つのようにも思う。(「ある島の可能性」や「地図と領土」の主人公はある程度独特の個性を付与されていると思うが、「プラットフォーム」「服従」あたりはどちらかといえばモブ寄りの主人公だろう)「プラットフォーム」ではタイの買春が一つの生きる理由・希望となっているし、そこから繋がる出会いで主人公は確実に幸せに至っている。主人公は公務員で定時で上がった後に風俗店に行き、食事を終えて帰宅し、あとはテレビ三昧だ。主人公はその生き方にある程度は充足している。そして何より彼は不能ではない。本作の主人公は不能であるがゆえに、買春ツアーや風俗店は生きる糧にはならないし、テレビもその点では十分とはいえない状態になっている。「ある島の可能性」では性を越えた未来人類が白い干潟の中に消えていく結末が描かれるが、本作の主人公がコテージからの風景を締め出したように、そういった世界全体への融合ということもここでは救いとして機能しない。また「地図と領土」のような、世界への独特な征服欲を発揮することもない。今作で強く感じたのは、主人公(あるいはウエルベックの主張)は社会への直接的な参加自体、ペニスなしでは行えない、という点である。今までの作品でもセックスなしの真実の愛なんてものはないと言っているし、生きる意味はその愛を求める以外にないという主張は明らかではあったと思うが、そうした生きる意味を失った場合に、主人公は社会に関わる方法すら見失ってしまう。終盤で若い女性たちのいるバーの片隅で、主人公は自分と世界はまったく無関係になってしまったというようなことを言う。(それでもホテルの受付係にささやかな希望を持ってしまったりするのだが)

彼はただ内側で、ガラスのこちら側に座って、今までの美しい思い出に浸っているだけである。そういう意味で、主人公は「ある島の可能性」や「地図と領土」の別バージョンとも言えるラストに入っていく。彼は自分の思い出である写真で部屋の壁を覆い、その中に閉じこもる。これは「ある島の可能性」で未来人が最後に溶けていった世界の、また別の在り方なのだろうと思う。あとがきではウエルベック自身が開いた個展について触れられているが、個人的には「ある島の可能性」の中盤で芸術家が地下の空間で作っている白い光のインスタレーションに近いものを感じた。それは幸福の原形とでも呼べるようなものなのだと思う。本作の終盤で「口唇期」という表現が使われるが、それは性欲を除いた後に残った欲望でもあるが、時間的な退行も意味するのだろう。彼は外側の世界とは無関係になり、ただ内側の、美しかった過去の記憶の中に溶けていく。

「服従」「プラットフォーム」あたりの訳者解説だったと思うが、ウエルベックが書く小説はどんどん性欲が無くなっている、このままいけば性欲がなくなってしまうのでは、ということが書いてあったが、本作はまさにそういう小説だった。「ある島の可能性」は性を超越した人間の在り方について描写しようとしているし、「地図と領土」はあまり性を必要としない特殊な(しかしある意味では傲慢な)人間について描いている。だから一概にウエルベックの小説は性がすべて!というわけではないのだろう。しかしウエルベックにとって、性がかなり大きなものであるからこそ、それを取り除いた時にどうなるか、ということについて描写しようとしているのだと思う。

さて、ユズの話に戻る。

この辺りまでくるとユズという女性が嫌いであるという描写がなぜあんなに必要だったかが腑に落ちてくる。不能になり、社会への接点を失ったまま退行していく主人公を描くうえで、どこかで徹底的に女性というものを嫌う必要があったのではないか、そしてその代表がユズだったのではないかということだ。カミーユやその他主人公が最後まで好意を持ち続ける女性がむしろ世界においては例外であり、その反対側の極にはユズが立っているのかもしれない。そしてカミーユとユズの間には有象無象の、主人公が関心を寄せることのない省略されるべき女性が並んでいる。

主人公の陰茎が不能になり、何者(人間や鳥)に対しても発射できないのに対し、ユズは(乱交や獣姦という意味で)万物に対して女性器を解放している。ユズはそういう象徴に近い存在だったのではないだろうか。これは知人が指摘していたことだが、主人公は犬に寝取られる形になっており、本作では犬ですら主人公を裏切り、ユズの側に立つ。(ウエルベック読者なら犬が人間を愛するように作られた存在だという描写を他の作品で何度か見かけたと思う)

結局、ウエルベックが女性を否定・拒絶するにはそれだけの文量を要したのだろう。ウエルベックにとって女性という存在はあまりにも大きい。そういうことを考えれば、前半を読むのがつらいという点も少しは納得できる。ウエルベックが女性を嫌悪するには、それだけの負荷が必要だったのだろう、と。

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