国語教師が考える、なんのために文章を書くのかという話(自己紹介と執筆理由)
はじめまして。
某地方都市の高校で国語を教えている者です。
第一回目の投稿として、なぜ文章を書くのかということを、noteを始める動機と共に書いてみたいと思います。
おそらく自分は、真面目で倫理観の強い、いわゆる「先生」タイプではない。
基本的に自分が最優先だし、大体の人間を小馬鹿にしてるところがある。とにかくおもしろければオールOKという思想でこの歳(40過ぎ)まで生きてきた。
それでも、これまで大きなトラブルもなく、そこそこ生徒にも慕われてきた(つもり)のは、この考え方を綺麗事や正論で包み隠さず、堂々と開示し、説明してきたからだと思う。
少なくとも自分にとってこの生き方や考え方は間違ってないと思うし、ストレスとは無縁に、おもしろおかしくやってきた。
ところが最近、特にコロナ以降のニュースやそれに対するコメント(政治、オリンピック、不倫や不祥事による炎上問題、差別問題等)を見聞きすると、もれなく不快感を覚える。ムカつく。ストレスがたまる。
ストレスの原因は一言で言うと「人間にそんな清廉潔白さを求めるなよ」ということで、一つ一つはまた別に書いてみたいと思うのだが、例えば有名人の不倫。
記事が出るのは昔からよくあることだ。
でも少なくとも10年前くらいまでは、それに対して世間は笑うか呆れるか、中には不快に思う人もいただろうが、あくまで「他人事」「エンタメ」として見ていたように思う。
それがいつからか、不倫された側に勝手に感情移入して、もしくは偏狭な正義感に燃えて、怒りを露わにしてSNSで叩くことが当たり前になった。
それに対してスポンサーやテレビ局なんかはみんなで示し合わせて「アホがなんか言うとるな」くらいの姿勢を貫いて無視しておけばよかったものを、下手にとりあって、降板、活動休止、解雇、みたいな流れを作ってしまった。
それに味をしめたアホが「自分たちの思いが世界を変えた!」みたいなことを思ったのかどうかは知らんけど、この「批判→炎上文化」は加速していった。
もちろんSNSで個人が簡単に情報を垂れ流せるようになったことは大きな原因だが、そもそも人々は、いつの間に他人にここまで清廉潔白を求めるようになったのか。
日本の政治や経済がダメになったのも、テレビがおもしろくなくなったのも、この風潮の責任は大きいように思う。
そもそも「能力」と「人間性」は分けて考えるべきもので、重犯罪を起こして捕まったとかじゃない限り、才能を持った人間が潰れてしまうことは社会にとってマイナスでしかない。
いくら問題発言が多くても、愛人をいっぱい作って家庭生活が破綻してても、国益さえもたらしてくれるなら、それは有能な政治家であって、重用すべきだ。
水泳の瀬戸大也の活動停止処分なんか、もう、バカバカし過ぎて脱力した。
不倫と水泳になんの関係があるというのか。彼は素晴らしい人格だからではなく、泳ぐのが速いから日本代表だったはずなのに。
そんなような話を友人、知人、同僚とすると、男女ともに概ね同意見であることが多い。
もちろん価値観の近しい人間が集まりやすいというのはあるだろうし、もしかしたら本当はそう思ってないけど話を合わせてくれてる場合だってあるかもしれない。
だからこそ、自分の想いをしっかり整理して言語化して、投げかけてみたい。その上で全く関係ない他人がどう思ってるのか知りたい、意見を聞いてみたい。
「モノのわからん奴らを啓蒙してやりたい」なんて傲慢な思いとともに、「きれいに論破されてみたい」と敗北を求める気持ちもある。
これが今回の書く理由、執筆動機である。
だからなぜ文章を書くのか、というと「自分の思考を整理するため」「それを他人に伝えて意見交換するため」「そして他者とわかりあう、もしくは他者か自分かどちらかが変わるため」というところか。
ついでに言えば「褒められたい」「スゴいと思われたい」という自己顕示欲も多少ある。
そんなことを今後noteで垂れ流していきたいと思う。
どこかに共感してくれた人、何ぬかしとんねんこのボケと思う人、よかったらあなたの言葉で何か聞かせて欲しい。
でも金銭も発生しない文章を書くなんて所詮はオナニーなわけで、オナニーする以上気持ちよくなりたいので、基本的には褒め称えて絶賛してほしいm(_ _)m
次回は、この「気持ちいい」ということについて書いてみたい。
読んでいただいてありがとうございました。