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「一億総クリエイター※ただし映えるものに限る」時代
このnoteもそう。自己顕示欲と承認欲求を埋めるのにちょうどいいスペース。いつでも逃げ道がちゃんとあって、気軽にはじめられる発表の場。観客とのちょうどいい距離感。
それがクリエイティブかクリエイティブじゃないかと言われたら、クリエイティブなことなんだろう、でも自分の範疇を超えてもはや虚像と言えるようなモンスター的な何かに支配されてませんか。
まったく、大いに勘違いさせてくれるツールだなあと思う。
そしてnoteに限らず、こういうものが特にネットにおいてはあふれていて、人々はそれに相当踊らされているなあと思うのです。
たとえば「映える」なんて言葉、そうそう実生活で使うものじゃなかったのに、今やそれがモノの基準となって価値が判断される場合もあるじゃないですか。フォトジェニックか否か。映えない人生を必死に着飾ってどうにか映えてる人と見られたい欲求が透けて見えるんだけど、今の若い子って、生きづらくないのかなあ。
そう思うのは私が老いたという証拠なのでしょう。私が若者と呼ばれていたころは、ネット自体が生きづらさの象徴でしたものね。そして、こんな風に時代を語りたくなるのも、年を取ったってことなんだろうなあ。
関係ないけどこの間、「ドラえもんの声は大山のぶ代さん以外認めません」って言ったら、「老害仲間入り」って言われて衝撃だったんです。
老害。そう遠くはない話なのかもしれませんね。