かわいそうの暴力
「お母さんがな、“これで遊んどき”って2000円くらいくれるねん」
クラスメートのその一言を聞いたとき、私は彼女のことを心の底から羨ましいと思った。
まだ小学校2年か3年の頃、お手伝い一回の単価が数十円で、500円が大金だった頃の話だ。
クラスメートの母親はシングルマザーだった。その子は母親のパートが終わるまで、母親の勤務するファミレスと同じ敷地にあるゲームセンターで時間を潰すのだという。
「ゲームセンターで母親のシフトが終わるのを待つ」。専業主婦の母を持つ自分にとって、それはまるで別世界の出来事だった。その上母親から2000円を渡されることなど、お小遣い稼ぎに四苦八苦していた当時の自分にとっては絶対にあり得ないシチュエーションだった。
それを聞いた当時の自分は、彼女のことを羨ましく思った。実際に「いいな〜」と口にしたかどうかは定かではない。きっと「へえ〜」とか何とか返事をしたのだと思う。覚えているのは、出っ歯のせいで少しとぼけたように見えるクラスメイトの表情だ。
給食の前に石鹸で手を洗うことや、金曜日に上履きを家へ持って帰ることと同じように、それが彼女にとっては日常の一部なのだということを、いつも通りのとぼけた表情が物語っていた。
彼女が同じ黄色いフーディーを週に何度も繰り返し着ていることや、“お母さんと二人暮らし”ということから、彼女が大人が言うところの“複雑な家庭環境”の中に置かれているのだということは、子どもながらに感じ取ることができた。素直に「いいな〜」と口にできなかったのも、自分でも知らず知らずのうちに学習していた“大人”の視点から、ゲームセンターで1人母親のシフト上がりを待つ彼女のことを「かわいそうだ」と思う気持ちが、心のどこかにあったからかもしれない。
この「かわいそう」という感情と、自分はいったいどう向き合えばいいのだろうかとよく考える。
他人のことを「かわいそう」だと思うのはどんな時だろう。その人が恋人にフラれたとき、財布を無くしたとき、不当な理由で会社を解雇されたとき、重い病気や怪我をしたとき……。
誰かのことを「かわいそう」に思うことは、その人のこと、またその人が置かれた状況に対して「気の毒だ」と感じ、同情すること、そして人のことを「かわいそう」だと思う気持ちは、その人が置かれている状況と、「あるべき姿」との乖離から生まれるものである。
病気や怪我、身内の不幸など、誰かが望まずしてよくない状況に陥ったときに、「お気の毒に」という言葉が口をついて出てくるのは、自然なことだろう。また「世界には栄養が足りずに幼くして命を落とす子どもがいる」と聞いてそれを気の毒なことだと感じるのは、人権を保障され長生きするという「あるべき姿」と、その子どもの境遇に乖離を認めた結果である。
しかしクラスメイトの場合はどうだろう。「シングルマザーの母親が、シフト終わりの時間まで1人でゲームセンターで遊んでいなさい、と2000円をくれる。」この状況に対して少なからず「お気の毒に」という気持ちが芽生える原因は、彼女の置かれた状況と、父・母・子が揃った“理想の家庭”像との乖離にある。すなわち、彼女のことを「かわいそう」だと思うことは、彼女が置かれた状況、家庭環境ついて“理想的でない”とジャッジすることを意味する。これはいささか暴力的な行為ではないかと思うのだ。
自身の置かれた境遇に苦しんでいる人にとっては、「お気の毒に」という言葉が、慰めや力になるかもしれない。だが当人が自分のことを「気の毒」だとは認識してないかった場合、またはそれが病気や怪我などの一過性の不幸ではなく、その人の出自や属性、身体的特徴に対して向けられるものであった場合はどうだろう。「お気の毒に」と声をかけることで、「あなたはあるべき状態から外れていますね」という烙印を押すことになりはしないだろうか。
「お気の毒に」という言葉、果ては「かわいそう」という感情そのものが、相手に心に寄り添うためのものではなく、自分の価値観を押し付ける暴力的な行為になり得る可能性を、我々は念頭に置いておくべきではないだろうか。
クラスメイトが母親のパートが終わるのを待つ間、1人で何を考えていたのかなど、わたしには知る由もない。「いいな〜」と「お気の毒に」のどちらが正解だったのかと悩んだところで、答えは私の中には存在しない。
肝心なのは、相手のことを「かわいそう」だと思うとき、特にそれが出自や属性に対するものであるときに、それが本当に「かわいそう」なのか? と立ち止まることだ。
「あそこは片親でかわいそう」、「あの子は不細工に生まれてかわいそう」、「田舎の出でかわいそう」、「年収が少なくてかわいそう」、「結婚相手がいなくてかわいそう」……。
「かわいそう」は、価値観を映す鏡だ。
その鏡にどんなものが映っているかで、その人が決まる。
他者の多様な姿・形・あり方を認めたうえで、本当に助けが必要な人には手を差し伸べることができる人。「かわいそう」とは一番縁遠い人間とは、そういう人のことではないだろうか。