ときにはジャンクな連想をしよう
明日は1年前から決まっていた地元の友達との旅行なのだが,あいにくの天気により飛行機が飛ばないかもしれないという連絡が,航空会社からきた。
よりによって,なぜこの日に。不運な…。
noteを書くようになって,日記のようなエッセイのような,そんな感じのことを僕は書きたいんだな,とわかってきた(ただこれも,いまはそう思っているけど,ちょっとしたらまた変わるかもしれない)。
なんだけど,こうやって毎日のように文章を書いていると,自分が連想しやすい領域がみえてくる。
ふだん書く硬い文章とは違う,自分の気持ちや内省をことばにするような感覚で書いているのだけど,それでも,気づけば哲学的な話とか,学術的な話とかが,僕の連想のプールにはたくさんたまっていて,それらがパッと取り出しやすい位置にあるんだろうと思う。
明日のフライトがキャンセルになるかもしれない「不運」というところから,運についての哲学,もっというと自由意志はあるのか,それともすべては決定されてしまっているのか,みたいな話が思い浮かんで。
それはそれでまた書いたらいいのだけど,そこでまた硬いことを考えてるなぁと思って,ちょっと立ち止まって,その連想の仕方をメタに考え始めたんだね。
でもこういう連想の仕方にこそ,その人の個性とか歴史とか吸収してきたもの,関心や好き嫌いが表れるわけだよね。
話が合う,価値観が合う,ウマが合う。
そういう感触は,その人の連想の仕方に対して感じているのかもしれない。
抽象的な話は好きなんだけど,そればかりだと息苦しい。
そういえば,最近あんまり音楽や映画に触れられていないなと思う。
これはひとつのバロメーターだね。
さいきん,三宅香帆さんの新書をどの書店にいっても見かけるけれど,それを敷衍すれば,「働いていると文化に触れられない」ということなんだろう。
そう。
こころの栄養を,もっと幅広く摂っていきたいね。
論理やエビデンスは,なんだか精製されたプロテインみたいだから。
そのアナロジーで考えれば,これらをメインに据えるのはやっぱり難しくて,あくまでサプリメントとして摂取するのがいいのかもしれないね。
ただただ美味しいものや,ときにはジャンクフードも,食べたっていいじゃない。
明日も早いから,今日はここまでにしよう。
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