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子どもをしつけることとと『ファイト・クラブ』

今日も今日とて書いていこう。
この記事はリビングで書いている。
一人になって部屋で書いているのと、家族がいるリビングで書くのでは、書き味が変わってくるね。

一日の中でリビングでこんな作業ができる時間は、2歳児と0歳児を育てている私たちにとっては、非常に限られている。
下の子が寝ていて、上の子がアニメを見ていて、妻は化粧をしていて、僕はこうしてnoteを書いている。
こういう年齢構成であると話すと、年長者からはたいてい「今が一番大変だよ」と言われる。
確かに、なかなか手も目も離せない―。

などと思い出している間にも、下の子がぐずり出す。
いかなくては。

ふぅ、なんとかことなきを得た。
今回は、本格的に泣き叫ぶまでには至らなかった。



それから小一時間くらいして,今朝の僕の任務はおわった。
上の子を一時預かりに送り届けるまでの,準備。
その間,「ほいくえん,いく,いや」と何度も言っていた。
親として心に迫るものがあるが,しかしここで引くわけにもいかず。

「パパが帰ってきたらまた遊ぼうね」
「ママがごほうびを用意してくれるって」
そうやって,苦難を乗り越えたらよいことがあると言い聞かせ,それが実際にそうなるようにセッティングする。

おおげさな言い方かもしれないが,これらは子どもが世界を信じられるようになるために積み重ねなければならない,膨大な経験の積み重ねのひとつになるだろう。

でも。
ここにはどうしても,親の裁量で子どもをコントロールしているという事実が入り込む。

子どもの権利や子どもの自発性・主体性が重要であり,大人が子どもを自分の思い通りにしてはいけない。
その価値観は少しずつ,やっと,認められてきた。
虐待,ハラスメント,ブラック校則から「ずるい言葉」に至るまで,大人が一方的に子どもの行動を制限し,その主体性を奪う強引あるいは巧妙な方法を認識し,指摘し,戦うための概念が,いまもこの世界には新しく生まれ,定着していく。
その過程で,これまでグレーだった家庭内の暴力についても,たとえば親のしつけと称した体罰であっても,法律で禁じられるようになった。

これらはとても大事な進歩であり,人文学の果たすべき貢献である。


こうしたことに僕は関心があり,ふだん硬い文章を書くときには,陰に陽にこれらの知識や思想が影響している。
それを明示的に書いていなかったとしても,その問題意識はつねにある。

なんだけど,今日の冒頭にあったような日常の一コマの中でも,僕は同じテーマを考えている。

つまり,上の子は,新しい環境に対して恐怖や不安を感じている。
これは,成長して物事がわかってきて,だからこそ感じることができるようになった,という成長でもある。
だって,以前は泣くこともなかったり,今日みたいに言葉にして「いやだ」と言えなかったりしていたわけだから。
そういうふうに言語化できる,認識できるようになったことを嬉しく思う。

確かに,我が子が直接的に表現している「嫌だ」という気持ちはダイレクトに僕にも伝わり,ともに気持ちが揺れているのを自覚する。
しかしそれでも,今後のこの子の「成長」のためには,ここは親もふんばって,なんとかして保育園に連れていき,新しい環境に慣れさせ,いずれくる幼稚園生活に備えるだけの力をつけさせねば。

そんなふうに考える。

一方で,こうも考える。

上の子の立場にたてば,僕らが感じている「成長」は,何ら実感できる言葉にはならないだろう。
だからそんなことを口にしないように努力しているけれど,仮に僕らから「今日がんばったら成長できるよ」なんて言われたら,端的に言って「おれは/わたしはそんなことを言ってんじゃねぇ」と思うだろう。
「自分の不安に気づいて言葉にできるようになったんだね」と言われたら,「はぁ?」と思うだろう。
いや,実際にそんな言葉が頭に浮かぶかということではなく,そういう気分になるだろうってことなんだけどね。

それでも僕は,君が納得できる方法かはわからないけれど,「帰ってきたら遊ぼう」と言ってみたり,「ママがごほうびをくれるって」と言ってみたり,ぎゅっと抱きしめてみたり,最後まで手をふって見届けたり,するわけです。

そうやって,君の自由を僕らはある程度制限している。
それは大人の責務であろうから。
「大人になったらわかるよ」とは言わない。
それはいま親が感じている葛藤をなかったことにして,そのことに現時点では気づけない(ことになっている)子どもに責任を負わせるずるい表現だから。

将来,幼稚園に行くであろうこと。
そのために,2歳のうちから一時預かりで慣れておくこと。
それは確かに未来の君のためだと思っている。
でも,それで親が助かる。それはあるよ。
そのどちらかが本当なのではなくて,どちらも大事だから,すまないけれど,僕らの思うようにさせてもらうね。

僕はこんなことを考えている。


いや,そんなに難しく考えなくても,親なんだからそれくらいやって,あたりまえでしょ。
単にそう考える人は多いかもしれない。
現に,こんな感じのことを妻に話すのはためらわれる。
ややこしい,抽象的な,あるいは哲学的な話は夕食のテーブルにはそぐわない(だから,今日もここで話してみているわけですね)。

でも,教育の本質は暴力だ※1。
武力を伴わないとしても,そこには権力があり,他者の権利や主体性をコントロールする側面をどうしても持ってしまう。
だからこそ,それが当然であるとは思わないでいられるように,意識する努力を続けないといけないんだろう。
どういう場合なら,「教育」してもいいのか。許されうるのか。

この問いは,これからも忘れずにいたいな。



※1 哲学者である戸田山先生の本「論文の教室(2002)」から学んだこと。ちなみにそのときの例示で出てくる『ファイト・クラブ』は名作中の名作だよね。

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