最近の出来事
頭の中を整理するために書き留めておこうと思う。
本当の意味でのしあわせ。
それは人それぞれであっていいはずなのに、誰かや何かの基準に当てはまらなければ、間違ってるのかも、と感じてしまうことがある。
誰かの言葉で信じる気持ちが揺らいでしまったり、何かの出来事で疑問に思ってしまったり。
そもそも原点に立ち返ってみれば、しあわせの基準なんてものは存在しない。
切り取られた一部分だけを見て、合っているとか違っているという判断や他者の批判をするのは少し危険な気もする。
そして、誰だって自分の“好き”を否定されるのは悲しい。
ただ、どうしても人は色々言いたがる。
つい自分の気持ちを押しつけてしまいがちになる。
それがその人なりの“優しさ”なんだと分かっていても、それでも傷つくことがある。
会話の最後には、悲しいという感情だけが残る。
少し話は逸れるが、
白人警察官に黒人男性が拘束され窒息死した事件。
亡くなった黒人男性の弟テレンスさんのデモ参加者への想いがとても印象的で今でも心に残っている。
大半は平和的なデモだったと言われているが、各地で抗議が起きたり、中には暴徒化して警察官と衝突するケースもあったり、店を襲って略奪したり、建物や自動車に火をつけたりする集団もいたそう。
だけどテレンスさん家族はそれを望んでいた訳ではない。
むしろその事に傷ついていた。
暴徒化した集団の多くは、自分たちのやり場のない“怒り”を物や人に向ける事でフラストレーションを発散していたが、その事がかえって事件の被害者家族であるテレンスさんや皆のコミュニティや街を破壊して、結果的にはその事にも悲しみ心を痛めていたのだ。
間違った正義感は時に人を傷つけることがあるということ。
“優しさ”と“怒り”の違いはあるが、少し似ているような気もする。
当たり前だけど、人は人と関わり合いながら生きている。
思慮深い人もいれば、そうでない人もいて、
しあわせについてなんて考えるまでもない、という人もいるかもしれない。
いろんな人がいて、いろんな役割があって、上手くバランスの取れている、私たちの生きる地球。
「違いを受け入れる」という言葉が時々使われているけれど、まずは「違いを認める」というところから始めてみるのがいいのではないかと思う。
認める事ができれば、段階を踏んで受け入れられるようになっていくかもしれない。
みんな違ってみんないい。
みんな唯一無二の存在だという事を忘れないで欲しい。
ましてや“好き”や“しあわせ”の中身は全てが楽しい事ばかりではないはず。
物事は対局の何かがある事で理解が深まる。朝と夜、陰と陽、+と-のように。
真っ暗闇で太陽の有り難みが分かるように、対局する何かはその物事の理解をより深いものにしてくれる。
“好き”や“しあわせ”も同じこと。
いいことも、そうでないことも、嬉しいことも、悲しいことも、そういう対局の感情も全部ひっくるめて、しあわせなんだと思う。
そう思えることで見えてくることがたくさんあるように思う。
大切なものは本来全て自分の中にあって、
生まれた時にみんな持っている。
星の王子様に出てくるように「大切なものは目に見えない」のだ。
みんなに思い出して欲しいな。
なーんて思った最近の出来事でした。