書評「ズッコケ三人組の大運動会/那須正幹」 運動ギライたちの運動会 

児童文学作家の那須正幹先生が亡くなられて、もう2年が過ぎた。先生の代表作「ズッコケ三人組」シリーズの大ファンだったぼくは、先生が亡くなられたことを機に、シリーズの中でも特に好きな作品をもう一度読み返すことにした。「ズッコケ三人組」シリーズは、行動力と体力はあるがおっちょこちょいなハチベエ、読書家で物知りなハカセ、ポチャリで気弱だけど優しいモーちゃん、3人の小学六年生を主人公に、1978年から25年近く続いた大人気シリーズだ。

ズッコケシリーズの中で、僕が初めて読んだのがこの「ズッコケ三人組の大運動会」だった。また、「松葉づえ」という言葉を知ったのもこの本が初めてだ。

 ズッコケシリーズの中には殺人事件に巻き込まれたりタイムスリップしたり宇宙人にあったりと、現実離れしたお話が多い中で、今回のテーマは「運動会」。ズッコケ三人組の中でも「日常系」に位置するお話なのだ。

 三人組の通う花山第二小学校は10月に運動会が行われる。学校一の俊足を誇るハチベエにとっては年に一度の晴れ舞台なのだが、そこに宮下努という強力なライバルが転校してくる。そして、リレー選手の選考会でハチベエは努相手に、生まれて初めての敗北を喫してしまう。

 こうして、努に勝つためにハチベエの特訓が始まった。運動会で一着をとるのは、はたしてハチベエか努か……。

 というお話になると思いきや、練習中の事故で努はケガを負い、入院してしまう。この努というのがなかなか厄介な性格でトラブルメーカー。運動会に出られなくなってしまった努がさらなるトラブルを巻き起こし、三人組をかき乱す。

 一方で、努が出れなくなることで、運動会でハチベエを脅かす敵はいなくなる。そして、運動会の練習は「ハチベエと努の勝負」から「運動ギライなハカセとモーちゃんが、ちょっとでもいい成績を収められるように」にシフトしていくのだ。

 そう、この物語は、運動会で一位を争うお話ではない。運動会に出れなくなった少年が巻き起こす騒動のお話であり、運動ギライなハカセとモーちゃんの頑張りを描くお話なのだ。

 あとがきにて那須先生は、かけっこではいつもびりで、運動会にいい思い出がなかったから、これまで運動会のお話を書くことを避けてきた、と明かしている。運動ギライのハカセのモデルが那須先生自身であることは、ファンの間では有名な話。

運動が苦手な那須先生だからこそ、運動会のトップ争いではなく、運動が苦手な子や、運動会に出れない子を描くお話となったのだ。

 思えば、スポーツを題材とした作品はたいてい、作者がそのスポーツの経験者であることが多い。主人公もたいてい、そのスポーツにおいてすごい才能を秘めていて、ほかにもいろんなスゴイ選手が出てきて、と言うのが定番。仮に「スラダン方式」とでも呼ぼうか。

 いや、スラダンも面白いのよ。全巻持ってるさ。

 ただ、最近思うのが、「世のスポーツマンガは、あまりのもこのスラダン方式を継承しすぎてないか?」ということ。

 プロスポーツの世界ならまだしも、学校の部活すら、一握りの才能あるヤツじゃないと主人公になれないのか? 「キセキの世代」じゃないといけないのか? 世の中には秀でた才能がなくてもそのスポーツを愛し、楽しんでいる人はたくさんいる。それじゃ物語にはならないのか?

そろそろ、「才能がないんだけど頑張る物語」が出てきてもいいんじゃないか?

 そこで本書である。もう一度言う。この物語は、「運動会に出れない子」と、「運動が苦手な子」のお話なのだ。

 実はこの本、スラムダンクとほぼ同時期に書かれている。「スラダン方式」に反旗を翻す物語は、実はスラダンと同じ時期に書かれていたのである。

 そうして「運動に才能がない子」が頑張るお話なのだが、さらにこの物語は、「根性論」を排除しているのだ。

 はじめはハカセとモーちゃんは普通に我流の筋トレをガシガシとやっていた。しかし、その結果モーちゃんは足を怪我してしまい、ハカセは予行練習の時には全く成果を残せないで終わってしまう。

 しかし、その予行練習で思わぬ情報を得る。ケガで見学していたモーちゃんによると、ハカセはスタートの時点ですでに遅れていたというのだ。

 自分の足が遅いのは単に筋力がないからだと思っていたハカセにとって、「スタートの仕方が悪い」というのは目からウロコの情報だった。

 そこでハカセは、足の速いハチベエにも練習に付き合ってもらうことにする。ハチベエの走りと自分の走りを比較して、何が悪いかをあぶりだそうという作戦なのだ。

 その練習の中でハチベエは「おまえら、ドンの声を耳で聞いてから走り出してるんじゃないのか」と指摘する。

「いいか、ドンを耳で聞いてちゃあおそいんだよ。"ヨーイ"の声がきこえたら、つぎの"ドン"までは、自分で見当をつけて、とびだしゃあいいのさ」

その後、中学で陸上をしている努の兄にも指導を請うようになるのだが、ここで描かれているのは、単にがむしゃらに練習する根性論ではなく、分析で問題点をあぶりだし、指導によって改善し、適切な練習を行うという、まさにスポーツ科学の領域なのだ。さらば大リーグボール養成ギプス。

 人にはそれぞれ、教らわなくてもできることと、教えてもらわないとできないことがある。「速く走ること」は、ハチベエにとっては教わらなくてもできることであり、ハカセとモーちゃんにとっては教えてもらわないとできないことである。教わらなくてもできる天性の才能を持つハチベエが、教えてもらわないとできないハカセとモーちゃんを指導する。ハカセとモーちゃんはちょっと足が速くなれるし、ハチベエは特技を生かして仲間の力になれる。みんなうれしい。これこそ、あるべき「体育の時間」の姿なのではないか。

 そしてこの物語は、クライマックスの運動会をこんな風に締めくくっている。

勝ったもの、負けたもの、一等になったもの、ビリになったもの、競技に参加したもの、できなかったもの、それぞれの胸に、さまざまな思い出をのこして、運動会は幕を閉じようとしていた。

 単に一等賞をとるだけが運動会ではない。かといって、みんなで手をつないでゴールというのもまた違う。スポーツが得意な子も苦手な子も、「勝ち負けをちゃんと楽しめる運動会」を那須先生は描きたかったんじゃないだろうか。

(シミルボンより転載)

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