私とは何か
非常に大きな問いである。生涯を費やしても答えにたどり着けるかはわからない。いや、むしろ人生をかけて知っていくものである。
フランスの哲学者、ルネ・デカルトは言った。
「我思う、故に我あり」
あらゆる存在を疑っても疑う自我があることは否定できない。ゆえに考え続ける限り、「自分の存在自体」を疑ったとしても、「疑っている自分」が存在していることになる。つまり「疑うという意識そのもの」が自分の存在を証明している、と彼はいった。
自分自身について語る。それは非常に難しい。自分とは何か、最近私の頭の中もかなりの割合をこの問いが占めている。ここではとりあえず、あまり深く考えずに自分について記してみようと思う。
私は人間である。先月、誕生日を迎え、ハタチになった。小さい頃から活発で、何かと行事では前に立って喋っていた。中学生から籠球を始め、駅伝や合唱とも掛け持ち。文化とスポーツ、はたまた勉強、また恋愛までをも両立していたあの時期は自分史の中で黄金期と言わざるを得ない。
高校時代は自分との闘いでもあった。苦しい環境の中で、常に何かに悩み、葛藤していたような気がする。あまりにも辛かったのか、高校時代のことが記憶から飛んでいることに気付いたのは卒業して二年経った最近のことだ。人間は辛いことを忘れるようにできているのは知っていたが、まさかそれが自分の身にも起こるとは思っていなかった。ただ、辛さから学び、経験から教訓を得たことは覚えている。
大学に進学し、小学生から抱いていた夢を思い出した。本当にやりたいことなのか、実際に経験を積むというかたちを選び、改めて夢を目指すことに決めた。学問の道も、自分と向き合い、やりたいことを追求して、今年から新しい道に進めることになった。
私には全く執筆経験が無い。感じたこと、考えたこと、共有したいことを、思ったままに綴っている。物事について考える時、時々とんでもない回り道をするかもしれない。迷った先で知らずに暗いトンネルの中に入り込んでしまうかもしれない。それでも、自分自身だけは見失わずに、人生の問いから逃げずに生きていきたいという意志がある。
読んでくださる読者の方にはそれを見守っていただきたい。時には一緒に歩きたい。共に感じたい。私も寄り添いたい。あらゆる現象に想いを馳せながら、私自身の言葉で心でここに残していきたいと思う。きっとこの執筆が積み重なり、振り返ったときに問いに対しても一歩、近づくことができるだろう。
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