イリヤ・フルジャノフスキー&アレクセイ・スリュサルチュク『DAU. Brave People』物理学者も一人の人間に過ぎない
1953年、研究所に暗い影が差し始める。スターリンが亡くなり、誰にも未来が見えない時代が到来したのだ。真夜中にやって来ては同僚を逮捕して連れて行く秘密警察に対して"明日は我が身"と怯えながら、"昼夜曜日問わず議論を続ける"普段通りの研究生活を営み続ける研究員たち。逮捕者が出れば集会でその人を一応批判して形だけの共産党礼賛を試み、それが儀式のように流れ去っていく。そんな中、本作品で中心となるのはD1と呼ばれる宿舎に暮らす三組のカップルである。一組目は『Natasha』でも言及されていたご存知実験部門長ブリノフとイリナの夫妻。二組目はナターシャ逮捕後に食堂を引き継いだオリガと副所長カレージンのカップル。そして三組目は、主人公となる理論部門長ローセフとダーリャの夫妻である。
そして遂に、ローセフが当局に連行される。彼はKGB職員によって精神的拷問に掛けられ、密告者になるよう促されるが、勇敢にも拒否し続ける。それに対してユダヤ人であることや妻ダーリャが学位なしに研究員採用されていることについて触れてローセフを追い詰めようとする。ボロボロになって帰ってきた彼を見たダーリャは、"代わりに彼を守らねば"という思いからヒステリー気味になってしまい、ローセフを思いやるブリノフやカレージンと衝突する。大きすぎる闇を前に冷静さが失われていき、過剰とも言える自己防衛本能が働くことでやたらと刺々しくなり、終いには目の前にある小さな問題に固執するようになる。ダーリャは疲れ果てたローセフに話しかけるブリノフに対して"閉めてたのに入ってくるなよ!"と疑心暗鬼になっていき、ひたすらローセフに"ブリノフこの野郎失せやがれ!"と言わせようと躍起になるのだ。心底どうでもいい内容の怒鳴り合いが30分ほど続くのだが、問題が中心から外れていき、最終的に"ダーリャがどうして失礼な態度をとるのか"に落ち着く当たり、もはや馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。当事者しか分からない苦悩の対比だ。
ダーリャが周りに当たり散らすのはそれとは別の問題だが、彼女がローセフのことを"大きな子供"と呼んだのは正しい形容だろう。物理学者として無邪気に数式と戯れて、酒を飲んで一日の成果を労う。ローセフは日常生活を表面的にでも取り戻したかのように思えるが、それはある種の現実逃避に他ならない。彼は理論物理を開拓することで世界を理解することを信条としているが、その理想は無実の罪で死ぬかもしれない現実とはあまりにもかけ離れすぎている。自分のしたいことがそのまま国家機密に繋がる研究所において、子供のように無邪気でいることは今まで以上に危険であり、物理学者も国家に暮らす一人の人間に過ぎないのだ。勿論、ローセフはそのことについて理解しているが、ローセフを失うことを危惧するダーリャには届かず、彼女は見えない恐怖に対して静かに崩壊していく。まるでカレル・カヒーニャ『耳』を観ているかのような緊迫した精神崩壊ドラマにすり替わっていく。
外を彷徨く秘密警察を映したシーンが数秒、次の標的となったネクラソフ(彼が研究所を出た直後だったため未遂に終わる)を探しに来たシーンで秘密警察が実際に登場してしまうのは余計っちゃ余計だが、全体的に詰めの甘いDAU運営のすることなので目を瞑ることにした。
本作品が不可思議なのは152分の上映時間のうち、最初の60分は完全なる無駄であることだろう。撮影隊が研究所に入り、KGB職員から研究所の有用性を叩き込まれ、ブリノフの実験施設(『Natasha』で登場したオルゴンのピラミッド型チャンバーも登場)やローセフの理論研究室などを訪れる。彼らは同時にオリガがマスターとなった食堂や、DAUユニバースの監督エカテリーナ・エルテルが営む美容室などを訪れるのだが、本筋からは全く逸脱している。ただのメタ展開として面白がって撮ったから載せとこうかというレベルの内輪感。しかも時代としてはクルピツァが所長だった頃で、ローセフにアインシュタインぽい髭まで生えてるので確実に1952年以前という謎さ。彼らは本当に途中から全く登場しなくなるので余計に意味が分からない。もしかしたらスターリン前後を比較したかったのかもしれないが、経年が明かされないのでそれも弱い気がする。
研究所における夫婦最後の共同作業がマウスの処刑なのは気味も気分も悪くなるが、映画がマウス実験を行うダーリャの姿から始まったことを考えると"決別"として象徴的でもある。ローセフ夫妻のその後は誰も知らない。
※雑記
これまで登場しなかった研究者たちが垣間見えるのも楽しみの一つなのだろう。1953年当時、ネクラソフは単身赴任者として滞在しており、図書館司書エカテリーナ・ウスピナと親密なようだ(彼女は次の『Katya Tanya』の主人公)。また、未だ言及されないブリノフの親友で音響研究室長のフョードル・ソフロノフも終盤の飲み会に参加している。彼は『Degeneration』にも登場していたらしいが流石に覚えてない(し、二回目観る気にもなれない)。彼は後々に登場する『Confornmists』に主人公として登場する。
また、クレジットではオリガとカレージンは夫婦になっているが、ローセフ夫妻が研究所を去った一年後に結婚しているのでこれは間違いである。掲載された経歴が間違っているのか年代の認識が間違っているのかはよく分からんが、詰められてるようで意外と適当なのがは個人的にはイライラする。
・作品データ
原題:DAU. Brave People
上映時間:152分
監督:Ilya Khrzhanovsky, Alexey Slyusarchuk
製作:2020年(ロシア)
・評価:90点
・『DAU.』ユニバース その他の作品
★ 『DAU.』主要登場人物経歴一覧
1. 『DAU. Natasha』壮大なる企画への入り口
2. 『DAU. Degeneration』自由への別れと緩やかな衰退
3. 『DAU. Nora Mother』幸せになってほしいの、少なくとも私より
4. 『DAU. Three Days』遠い過去に失われ、戻るのない恋について
5. 『DAU. Brave People』物理学者も一人の人間に過ぎない
6. 『DAU. Katya Tanya』二度失われた二つの初恋について
7. 『DAU. New Man』俺は嫌いなんだ、あの堕落した研究者どもが
8. 『DAU. String Theory』ひも理論のクズ理論への応用
9. 『DAU. Nikita Tanya』多元愛人論は妻に通用するのか?