20221125
ひさびさに陽の出る一日。東京工業大学で二〇二〇年に立ち上がった「未来の人類研究センター」による利他学会議の動画をたいへん興味深く観た。タイトル通り、利己、利他とはなにかということについて探求する学会で、なかでも國分功一郎氏が心中社会で求められる「自己責任」という言葉に対して、責任というものはResponsivelityで、本来応じて返すものであって、ここで言及されている「責任」は意志でやっているものだから、その責任が押し付けられている。英語でImputablity、帰責性という言葉があって、長い間日本ではこの帰責性と責任をない交ぜにしてきたのではないかという問いに感銘を受けた。その上で、自己責任というのはこのどちらの意味も内包していないのではないか、すべてを突き放し、押し付けた都合の良い論理が心中主義でまかり通っている危険性を指摘していた。言葉というのは、本来慎重に扱わなければならない。このことについては後期ハイデッガーが特にこだわっていて、かれはドイツ語での意味を解体し、それが由来するラテン語にまで遡りその意味を問うことを繰り返している。わたしも日本語についてまだまだきちんと意味を捉えきれていないことは多々ある。学びは死ぬまで続く。死んでからも残る言葉について、その意味について向き合わなければならない。
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