20231209

 田辺聖子『とりかえばや物語』(文春文庫)の読書会だった。最近は日本の古典文学に興味があって、読まなければ……と思っているものの、なかなか手に取るところまでいかないので、こういう機会があるとありがたい。と、思っていた。蓋を開けてみると、忠実な訳というよりは、原典を基により読みやすく、理解しやすいよう翻案したといった趣きが強かった。実際、性が取り換えられる双子の主人公は「春風」と「秋月」、春風と男性として友情を結び、彼を女性と知って妊娠させる「夏雲」、春風と婚姻しながら、夏雲に言い寄られて不倫関係となった後、秋月が春風と入れ替わり再び婚姻生活に戻る「冬日」という四人の名前は彼女の創作である。ともあれ、内容はこの四人に帝を加えた五人の恋愛模様が描かれる宮廷物語だ。とにかく、夏雲の愚かさが凄まじく見るに堪えないくらいだ。春風が彼をあしらう様子が痛快にはなっているものの、けっきょく彼女も帝の寵愛を受けて皇子を産むことが女性として最高の幸福であるという価値観に落ち着いてしまうところに根深いジェンダーロールが通底している。くわえて、この中では一切民衆の生活や様子は窺い知れない。彼らは初めから存在していないように閉じられた完全なる身分社会である。
 『とりかえばや物語』は平安時代だから、そういうものだよなあと思っていた。しかし、ミツカンの裁判の詳細を見ると、現代でもこの根強い家父長制の価値観はしっかりと残り続けていることに驚く。まず、ミツカンの経営体制が「中埜又左衛門(なかのまたさえもん)」を襲名する男子の一子相伝が今日まで続いているということが完全にフィクションの世界観である。報道によると、ミツカンの中埜家に婿養子として迎えられ、男子が誕生した途端に会社からも家からも追い出された中埜大輔氏が、ミツカンを相手取って東京地裁に訴訟。一億円の損害賠償を求めたが「原告の請求はすべて棄却」された。しかし、よく考えれば、歌舞伎役者はまさにこの伝統にのっとっているし、相撲という国技にも男尊女卑の思想は色濃く残っている。わたしたちは日頃からそうしたものを娯楽として享受しながら、現代の価値観とのギャップに悩んでいるであろう当事者たちの人生について考え及びもしていないのではないか。

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