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装いの力

日本史、好きなんですよね。理系の大学に入った以降はあまり触れる時間がなかったけど、高校の頃は理系科目の3倍日本史のほうが成績良かったしちゃんと勉強してた。

渋谷区立松濤美術館の特別展『装いの力―異性装の日本史』に行った。行ったのが最終日で、全4会期あるうちの後期D期間。これは古代から現代まで、日本史上の異性装(男装とか女装とか)の辿ってきた歴史を美術資料を通して振り返り、性別の二項対立を超越するための糸口をその異性装に見出すという企画。

展示は概ね年代順に並んでいて、江戸時代以前は浮世絵や錦絵、絵巻物が多く、明治以降は写真や手塚治虫とかの漫画、メディア資料も展示されていた。最初は古事記と日本書紀の異性装にまつわる巻が置いてあって、これは展示のテーマと関係ない感動なんだけど、(江戸時代の写本とはいえ)本物の古事記と日本書紀を見れて高まった。物語系でいうと、室町時代の『新蔵人物語』が気になる。四人兄妹の三女が、お兄ちゃんと同じように男として働きたい!と男装してしばらく宮仕えするものの帝にバレちゃって…?!というドタバタラブコメディーなんだけど、兄妹の親の「親子とはいえ親が子を縛ることはできないから、心のままに生きれば良い」という当時としては珍しい考えがベースになっている話らしく、現代語版があったら読んでみたい。

男女に区別され抑圧されている内面の性を解放するために、古来からの異性装がおこなわれていたのか。西洋やキリスト教の考え方が日本に入ってきた以降については、今の感覚と地続きで考えられることが多いとは思う。でも、それ以前はものの捉え方の根本から今とは違ったんだろうし、なかなか難しいんじゃないかなあとも考えている。当時の人たちが実際のところはどういう意図で、どういう感覚で、どういう世間的な流れの中で、異性装をしたのかを、どうしても今生きている私たちは「今」の社会的な感覚と知識で解釈することしかできない。本当は今の社会の論調とは別の感覚で女装や男装をしていたのかもしれなくても、今の理想論を「正」としてそれから外れていると数百年経った今更あーだこーだ言われたり、室町時代からこの性癖あって〜wなどとオタクに良いように言われたりして、難儀だなあと思う。

だから今はまだ異性装の本質がよく分からないのが正直なところで、昨今の風潮的に中途半端な主張をネットに書くとはちゃめちゃにやられてしまうから、何か納得のいく言語化ができるまでは主張っぽいことは言わないように気をつけようと思う。もしかしたら「男装(女装)ってのは〜」と一括りにするのは主語がデカすぎることなのかもしれないし。デカすぎる主語はよくない。

この特別展を一通り見て確かに思ったのは、性別による服装やデザインの縛りというか固定観念は緩くなってほしいなということ。元々男性用軍服だったセーラー服が、デザイン性と機能性の高さから世界的に女性にも広がり定着した事例が語られていた。そういうデザインでまだ認知されていないものはこの世に沢山あるんだと思うし、表現の幅と発想の余地を狭めるのはもったいないから無意味な固定観念は減ってほしい。(やろうと思えば)なんか色々できるほうが鮮やかで楽しい気がする。



松濤美術館は白井晟一という人が設計して、同時期に建てられた静岡市立芹沢銈介美術館とデザイン的に姉妹らしい。展示品は撮影禁止だったので、美術館の内装を載せたい。建物自体もよかった。

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