一流ということの大変さについて。
2021年6月、テニスの大坂なおみ選手が全仏オープンを棄権しました。
先に行われた一回戦の前、試合後の記者会見に応じない意向を示し、実際に応じなかったことへの批判を受けての決定のようでした。
今回の一連の報道を見ていて、私は、学生時代の教師のある発言を思い出しました。
その教師は、水泳の北島康介選手がアテネオリンピックで金メダルを取った際の有名なコメント――
『超気持ちいい』
に対して、
「一流の人がその程度のことしか言えないのはがっかりした」
という趣旨の発言をしたのです。
シンプルな言葉で喜びを表現したことの、一体何が気に食わないのか、当時の私は(今もですが)理解に苦しみました。
しかしながら、今度の大坂なおみ選手の場合とは状況が異なることを差し引いても、【社会が一流(の人物)に求めるもの】の一端を示す出来事であるという共通点を私は見出します。
それは、スポーツ選手であれ、芸術家であれ、ビジネスマンであれ、おそらく同じでしょう。
自分の好きなことに夢中になり、その技術を磨き上げ、試合に勝ちたいとか、成果を遺したいといった目標の追求が、いつしか「しっかりしたコメント」を求められる立場に自分自身を引き上げてしまう。
当人は影響力など欲していなかったとしても、高い実力は自然と影響力を発し、影響力が備われば、それに相応しい対応を社会に求められてしまう。
大坂なおみ選手のケースでは、「大きな大会であるほどメディアあってのプロスポーツ(=スポーツが金になる)」には違いないから、そこに「求められる対応」が生じるのは致し方ないとは思います。
それでも、何かを極めれば極めるほど、極めたものとは別の要素に悩まされるというのは、他人事ながらもどかしいものを感じます。無論、実際は凡人の私が想像するより遥かに激しい闘いなのでしょう。
そこまで受け止めきって初めて一流、ということならば、一流とは本当に辛い立場に思えます。二流止まりの方が却ってのびのびやりながら飯食えそう、などと思うのは一流を目指す二流の方に失礼でしょうか。
大半の人間は、人生を賭して何かに心血注いだところで、大坂なおみ選手と同じ苦悩を知る次元には到達できません。
それでも、一流への憧れとは、易々捨てられるものではありませんよね。
■追記
似たテーマで書かれた面白い記事を読んだので、勝手ながら紹介させていただきます。