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福音としての漫画『釣りキチ三平』
娯楽として、教養としても漫画を読んできた半生であったが、そのどちらでもあり、どちらでもねえんだよな、というのが正直なところである。強いて言えば、キリスト教圏の人々が聖書を人生の指針として生涯にわたって、紐解くのと同様に、自分にとって漫画とは病める時も健やかなる時にも傍らに在り、よき標(しるべ)となってくれてきた。自分にとってはマタイ、ヨハネの福音書以上に影響を与えてきてくれたいくつかの漫画の数々を記してゆく。
『釣りキチ三平』矢口孝雄
1970年代から1980年代にかけて、週刊少年マガジンで連載していた釣りキチガイの三平三平(みひら さんぺい)が日本中、世界中の海、川、湖をめぐり魚たちを釣り上げていく物語に小学生の時分は夢中になった。
母親の実家が営む床屋にその単行本は置かれていて、誕生日プレゼントに祖父に釣り竿を買ってもらい、それから、毎日のように近所の河原にでかけて釣り竿をふるった。
指がかじかみ、よく動かないような冬の日にも一人で通うくらいだったのだから、相当、夢中になっていたのだろう。
しかし、釣れるのはハヤやウグイ、カジカといって小魚がたまにひっかかるくらいで、一匹も釣りあげられないボウズの日がほとんどでもあった。
本当に面白いくらいに釣れなかった。
漫画と現実は違うということは嫌というほど認識させられたが、不思議と釣りが嫌いになることはなかった。
当時、サッカー漫画の金字塔ともいわれる「キャプテン翼」もはやっており、親にサッカークラブにいれられ、放課後、練習に参加させられていたが、サッカーの練習は嫌いであったが、全く釣れもしない釣りではあったが、嫌いではなかった。
今思うとサッカーが嫌いというよりも、人に決められた練習内容を、決まった時間に、決まった人たちと一緒に行うということが兎にも角にも苦痛であったのだ。
しかし、少年時代の自分にはそれが苦痛であるということに実は気付いていなかったのだ。
それは大人になり、様々な経験を経て、ようやく分かった。
大人になった自分は実は一人でいることが大好きで、好きな時に本を読み、好きな時に釣りに向かうことを何より好んでいるということを。
さらにいえば学校が好きでなかったことも。
高校を出たくらいでようやく気が付いたのだ。
そういえば、釣りキチ三平には学校に通っているシーンの描写はほとんどなかった。
釣りキチ三平に憧れたのはいくつもの大物を釣り上げるその姿にではなく、学校にほとんどいかず、好きなことを心ゆくまで没頭している主人公の姿にあったのかもしれない。
夕方にやっていたアニメ「釣りキチ三平」のエンディングテーマも忘れられない。
なにくそ嵐 ないくそ孤独
地球の魚と戦うぞ
知恵と勇気じゃ負けはせぬ
魚がウインクするような そんな男になりたいよ
宇宙と自然に抱かれて明日の幸せ釣りあげろ 「俺は釣りキチ三平だ」より
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