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樋口一葉「にごりえ・たけくらべ」

 「おい木村さん信(しん)さん寄ってお出よ、お寄りといつたら寄っても宜(よ)いではないか、又(また)素通りで二葉(ふたば)やへ行く氣だらう、押かけて行って引ずって來(く)るからさう思ひな、ほんとにお湯(ぶう)なら歸(かえ)りに屹度(きっと)よってお呉(く)れよ、嘘吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立って馴染(なじみ)らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言譯(いいわけ)しながら後刻(のち)に後刻にと行過るあとを、一寸舌打しながら見送って後にも無いもんだ來る氣もない癖に、本當(ほんとう)に女房もちに成っては仕方がないねと店に向って閾(しきゐ)をまたぎながら一人言をいへば、高ちゃん大分御述懷(ごじっかい)だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい燒棒杭(やけぼっくい)と何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで呪(まじなひ)でもして待つが宜いさと慰めるやうな朋輩(ほうばい)の口振、力ちゃんと違って私には技倆(うで)が無いからね、一人でも逃しては殘念さ、私のやうな運の惡るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か何たら事だ面白くもないと肝癪(かんしゃく)まぎれに店前(みせさき)へ腰をかけて駒下駄のうしろでとんとんと土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛(ひきまゆげ)に作り生際(はえぎわ)、白粉(おしろい)べったりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり」

ある人がこの樋口一葉の『にごりえ』の冒頭を読み出し、それを聞いた時の衝撃は今でも忘れません。

恥ずかしながら、それまで樋口一葉の文章に触れたことはなく、漫画「ガラスの仮面」でマヤが『たけくらべ』の美登里を演じていたなあ、程度の認識でした。

それがいまでは、先ほどの『にごりえ』の冒頭をはじめ、日に何度も音読するに至るほど、一葉の文章に魅せられてしまいました。

一葉の文章を音読するたびに、「また、読んでるよ」と家内や娘に白い眼をむけられるので、最近はやや控えているのですが、いや、しかし、この文章、凄いですよ。

目で追っても良いのですが、これが声に出して読むと、もうその描かれている情景がそのまま、感じ取れて、はじめて自分で声を出し、読んだときには、涙が滲んでくるのを止められませんでした。

なんなのでしょうかね、この体験は。

多くの人にこの文章を味わってもらい、感想をききたくもあり、このレビューを記した次第です。

樋口一葉、5千円札に記された明治期の作家として多くの人に膾炙されておりますが、その文章を読んだことのある人はどれ程でしょうか。

はっきりいって、彼女、天才です。作品の数こそ多くはありませんが、24歳で夭折するまで、あまたの傑作を書き上げ、その作家として生きた僅かな期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれるほどでした。

その「奇跡の14ヶ月」のさなかに生み落とされたのが、『にごりえ』であり、『たけくらべ』なのです。

紫式部も凄いですが、自分にとって女流作家NO1は断然、樋口一葉ですね。

いや、もう兎に角、この文章を声に出して、読んでみてくださいよ。

一葉の凄さ、美しさ、そして、悲しみがひしひしと伝わりますから。

『にごりえ』も『たけくらべ』も舞台は明治期の色街周辺が舞台なのですが、これは一葉自身もその地で暮らし、そこでの実体験が作品の背景としてきっとあるのでしょう。

『にごりえ』の主人公はおりきと呼ばれる遊女、『たけくらべ』は遊女として働く姉を持ち、美少女として評判の美登利、です。そして、その周囲でくらす市井の人々がいきいきと描かれているのです。

冒頭に記した『にごりえ』の文章ですが、廓(くるわ)の前で、年増の遊女が以前、馴染みであった客を呼び止めるも、逃げられ、それを主人公のおりきが慰めるシーンからスタートします。

現代には使われなくなり、馴染みのない言葉も出てきますが、すべて文章の意味が分からなくても全く問題ないのです。

それよりも、まるで、明治の遊郭の一角に立っているかのように、いきいきとした言葉が聞こえてこないでしょうか。

また、二人の遊女たちの言葉を通じて、人の持つかなしさやたくましさ、やさしさを感じずにはいられないのでした。

それは、『たけくらべ』でも同様で、男勝りで、お転婆で、いつも溌剌としていた主人公、美登里の少女時代の終わりを、なんともまあ、せつなく、描いているんですよ。

この『たけくらべ』出版社別で何冊か読んだのですが、ある巻末の解説には美登里が初潮を迎えたことにより、彼女の少女時代が終わりを告げたのだと記さておりました。

私は色街を舞台にした所からいっても、単に初潮を迎えたというよりも、性に関わる重大な出来事が起きたのであろうと推察されたのですが、一葉は美登里が変貌した経緯を一切、描写しておりません。

読者にただ、ゆだねているのです。

そこがまた、彼女の凄みの一つでもあります。

しかし、まあ、本当に美しいものは総じて、悲しいです。

哀しみに彩られています。

一葉の作品、そして、一葉の生涯もまた、そうです。

貧しいながらも学問にはげみ、父親がなくなってからは、許嫁とも別れ、一家の大黒柱として働きに出るようになり、家族を支え、小説家を志すも24歳で結核で死去。

彼女の透徹したまなざしは五千円札からも見る事ができますが、その透き通った目が見たもの、見つめたものが彼女の作品には記されております。

機会があれば、ぜひ、その美しさを味わってみてください。声に出し、読み上げてみると、さらに深く感じ取れる筈です。おすすめです。

「あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、死ぬことよりも悲しい。若くして死ぬことよりも」ジャンヌ・ダルク












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