私が正義について語るなら
『私が正義について語るなら』 やなせたかし ポプラ新書(2013/11)
言わずと知れたアンパンマンの作者である、やなせたかしが考える「正義とはなにか?」について語った本。
自分のアンパンマンとの出会いは、未就学児の時だったと思うが、本屋の絵本コーナーで見つけ、読んだことをいまでも覚えている。
その頃はまだ、アニメ化もされておらず、知名度も、それ程なかったアンパンマンであったが、本屋にいくとシリーズの新作が出ていないかを頻繁にチェックしていた。
のちに作者のやなせたかしは自分の好きだった唱歌「てのひらを太陽に」の作詞も手掛けていたことを知り、大いに驚いた。
そして、本書を通じ、自分はやなせたかしの絵そのものより、言葉の方が好きであったことを改めて実感した。
この人の本質は詩人であって、絵も自身の詩を表現するひとつの手段であったのではないのかとの思いもした。
何より、アンパンマンの歌詞が素晴らしく、忘れがたい。この歌詞がなによりもそれを雄弁に物語っているではなかろうか。
今、この詩を読んだだけでも泣けてくる。
ほとばしる生命の歓喜、生命賛歌がここにはある。
この詩は「なんのために 生まれて なにをして 生きるのか」と問いかけながら、「こたえられないなんて そんなのは いやだ!」と瞬時に断言する。
ここで着目したいのは「そんなのはいやだ!」の「!」だ。
ここに詩人やなせたかしの心意気と決意を感じずにはいられない。
生きるとは何か、生きる喜びとはなんであるのか。
それを詩人は語っている。
ただ、語っているのではない。
詩人が最も大切にする言葉さえも放擲して、「!」の一字にその決意と意思を表しているのだ。
生きることに言葉はいらない。
ただ、感動と行動、決意があればよいということを「!」を使い、やなせたかしは表明しているのだ。
今という瞬間に生命を凝縮し、行動すること。
これが今を生きることであり、熱く心が燃え上がること、生命の燃焼であり、感動であると。
やなせは続けて言う。だから、ゆけと。
「だから 君は いくんだ ほほえんで そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ 胸の傷がいたんでも」
たた、これは非常に厳しい一言でもある。
たとえ、傷ついても、自分の生きる道を全うしなければならない、ゆかなければならないという孤高の道を示している。
しかも、なお、ほほえんでゆかなければならないのだ。
ここに自分は臨済録にもある「逢仏殺仏逢祖殺祖」の言(仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す)の厳しさと弥勒菩薩のたたえた微笑みを想起せずにはおられない。
そして、ゆくのは自分のためだけではない。
みんなの夢を守るためにゆくのである。
では、ここでいう夢とはなんであるのか。
これは作者から読む者に問われた大きな問いの一つである。
みんなの夢とはなんなのかと。
現代人の多くはこの夢をおのれの欲、欲望と混同することが甚だしい。
ここでそれを作者は戒めているのではかかろうか。
おのれの欲得ではなく、みんなの夢を大切にしなければならない。
そして、自分自身の夢を手放したときに、真の夢を手に入れることができるのではないか。そんなことを自分は考えた。
「なんのために 生まれて なにをして 生きるのか こたえられないなんて そんなのは いやだ!」
本当にそう思う。しかし、この問いに答えられる者はどれほどいるのだろうか。自分もまだ、胸を張って、この問いに答えることはできないでいる。
だからこそ、ゆかなかければならないのだろう。
愛と勇気をたずさえて。
「時は はやくすぎる 光る星は 消える だから 君は いくんだ ほほえんで」
光陰は矢の如く進み、そして、光る星(生命)はいつか必ず消滅する。
限りある命をどこまで、使い切れるか。誰かのために。
いささか、詩論が長くなってしまったが、本書「私が正義について語るなら」の中で、筆者はついぞ、正義についての明確な定義を語ることはなかった。
しかし、自身の従軍経験も経たその半生を通じた正義について考察が本書には収められており、大いに感銘を受け、共感した。
そして、本書巻末にてやなせたかしはこう語っていた。
「最後にアンパンマンのマーチの全部の歌詞を紹介して正義の話を終わります。ぼくが正義という言葉に込めたい思いは、この詞の中にあります」と。
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