人生邂逅 ・まなび編 ◆仏教読書会から -18
「仏教の大義」(鈴木大拙)の第5講より ”自由について”
本文からの抜粋。
知性的分別が持つ幻想の一つは「自分は自由だ、選択の力は自分にある。」ということです。
学べば学ぶほど、闇に入り込むような感じがしています。
知性では本当の自由は得られない。 ということのようです。
で、ここでも霊性が出現して、解決に導いてくれるのですが、どうしても分かったようでやはり腹落ちしないものが残ります。
それは、霊性とは知性では理解できないもの。知性を越えたものだから。
ただ、知性でなんとかできると信じ、自由を勝ち得ようと必死に努力する。それでもどうしても成し得ないため悩み、もがき苦しみ、ついには力の限りを尽くして斃(たお)れる。
ここで初めて、自由の扉が開かれる。のだそうです。
やはり、これでも納得感はありません。
ここで、講師の方が次のような話をしてくださいました。
このかたは、2年ほど前からご主人の仕事の関係で小樽に住んでおられます
冬の寒さに備えて毛糸の帽子を購入しようと小樽のデパートに行ったそうです。
ところが、品数が少ないこともあり、お気に入りが見つからなかったので、思い切って札幌にまで行きましたが、やはり見つからない。
東京まで行けばもっと選択肢は広がるとは考えたのですが、それでもよく考えてみるといくら数が増えようと、しょせん限定され与えられたものの中から、選ばされているだけではないか。
それなら、自分で気に入ったものを作ればいい。
ということに思い至ったそうです。
このとき、スーーーと一気に心の霧が晴れたそうです。
ほんとうの自由とは何か。
なにか、少し分かったような気がします。
それにしても ”空” や ”霊性” という仏教の本質は実に難解。
頭で考えて(知性で)は理解できないものを頭で理解しようとするのですから。 そもそも無理なことなのですが。