風景を写真に撮っても見た時の感動は再現されない事の理由と、そうした写真に対する考え方
以下の文章は、Quoraに寄せられた「景勝地で感動した風景を写真で再現できないのはなぜか?」という質問に対して私が書いたものである。
基本的に本物の景色で得た感動を写真で再現する事は出来ないと思った方が良いです。その理由は技術と言うより原理にあります。
写真からはその場にいる時の音も風も気温も匂いも感じられません。それに加えて、画像を見る事そのものに限って述べても、写真を見る事と現実の風景を見る事の間には違いがあります。
現実の風景を見ている時、広大な景色を同時に見ている感じがします。少なくとも頭を動かさない範囲で見えるものは同時に見えているような感じがします。
でも目がはっきりものを見ることが出来る「中心視野」と呼ばれる角度は狭くて1°~2°程の範囲です。これは、自分の手を目の前に伸ばして親指の爪位の範囲だそうです。それより外側の部分はぼんやりとしか見えていません。そして脳はこの視野を手掛かりに、目や頭を動かして見える画像を頭の中で合成して全体の風景の印象を作っています。
その場にいて見ているその美しい風景は、脳がその場で作ったいわば美しい思い出です。
それに対して写真は写真に写っている全体の風景を一度にシャープに見ることが出来ます。すると何が起きるかと言うと、写真に写っているものの全てをシャープに見ることが出来るので、全てを認識出来るようになります。
つまり、目で見る風景だと脳が現場で処理をして自分が注目しているものや見たい物の印象を強くしているのに対して、写真はすでに目の前で画像になっているので、自分が現場で注目していたもの以外のものも、もう本当にどうでもいいものも見えてしまう事になります。
具体的には、素晴らしい風景だと思って撮影した写真を家で見返すと、端っこに歯科医の看板が写っていて妙に気になったりします。
なので、頭の中で再構成される風景のような写真を撮るというのは、その場で見たそのものを撮るというよりはむしろ見た感じになるように、有ること無いこと色々工夫してわざと絵作りをする作業になってしまいます。脳が無意識に美しくしている風景を、意識的に作り上げると言っても良いかもしれません。
こうして撮られた写真は見る人に感動を与えるかもしれません。しかし、それって風景に感動しているのでしょうか? それとももはや風景というよりその写真そのものに感動しているのかしらん? という哲学的な問に至ってしまいます。こんな写真が果たして良い写真なのでしょうか?
私も写真は好きなのですが、その写真好きが個人的に思うのは、むしろその感動した絶景が再現されていない写真の方が、ただ撮っただけの写真の方がむしろ良い写真なのではないかということです。
そして写真に重要なのは写真そのものが美しいことではなくて、その写真が自分に何を物語っているのかの方だと思います。
自分はこの地に来た、そこで感動した、というのはその場でのその体験だけで得られるもので、その重要性は写真に置き換わるものではありません。写真は写真そのものの美しさより、自分のその思い出を呼び起こす切っ掛けである事の方がより重要なのではないかと考えています。
例を挙げます。
これは自分で撮った写真なのですが、この写真自体は別にどうということのない風景の写真です。
しかし、今は何もないこの場所は明治の初めまで河岸があった場所だそうで、そのためこの地は江戸時代は大変栄えたそうです。私は近所の資料館に行ってこの事を知りました。
風景写真に必要なのは写真の美しさではなく、こうした背景にある物語だと思うんですよね。
そして、ご自身がそこに出かけた、その日その時刻にその場所にいた、という事はこうした写真にまつわる背景の物語になると思います。