見出し画像

とにかくまずはやってみよう②~ビショナリーカンパニーZEROを読んで自分の人生のビジョンを考えてみた~

おはようございます。


昨日からの続きです。

話は遡ること2005年。当時の私は若くてもっとギラギラしていました。


『世のため、人のため、社会起業家としてビジネスを起こし、困っている人の役に立ちたい』という理想をかかげ、日中は働きつつ、夜間はボランティアを2つ掛け持ちしつつ、海外留学も視野に留学予備校などを調べていました。


日中の仕事後、連日深夜に及ぶボランティア活動。2004年に結婚した夫ともほとんど会わないような日々が続き、そんな生活が半年ほど経過したころからでしょうか。連日に及ぶ無理な生活に、心身ともに疲弊し、人間関係でのトラブルも勃発し、自分が一体何のために、誰のために活動しているのか、皆目見当がつかなくなっていきました。


そんなある日、まるで幼馴染の自死を彷彿とさせるある意味プチ再現のような出来事がなんの前振りもなく起こりました。


1週間、一人で考えざるを得ない時間を強制的に持たされる。

どうしたらよいか途方に暮れ、しかし、この強制終了とも思える出来事が私に何かを気づかせようとしている。そう思うと考えないわけにはいかない。必死に考え続けました。


深く深く自分の中に潜っていったとき、


『世のため、人のため、誰かのため、でも本当は自分のことばかり考えていて、結果として、自分のためにすら1mmもなっていない』


この事実に気づいたとき、私は愕然としました。


私はただ、自分の愛情飢餓や贖罪の気持ちからくるこの世に生きていいのかわからない自分の苦しみから許されるために、頑張り続けていたにすぎなかった。


それから半年迷い続け、亡くなってから7年。一度も怖くて行くことができなかった幼馴染のお墓参りに初めて訪れてました。

幼馴染は私が殺したなんて怒っていない。

そんな思いと同時にその時心の奥底で深く深く感じたこと。


それは、「誰かのためということはない。たとえ、愛する人の喜ぶ顔が見たい、誰かが喜ぶ顔が見たいといっても、最終的にそれが嬉しいのは自分。全部自分のためにやっているのだ」。


だからもう誰かのためにと言うのはやめよう。


ということでした。


その後、15年以上の月日が経過し、娘を授かりました。しかし、幼馴染を殺したという思い込みからは解放されたものの、幼馴染の手を振り払ったことに対して自分を許さない、自分を罰するという気持ちを大事に大事に抱えて生きてきた。それが愛することなのだと。


『自分を罰したい』という私の心の奥底にある願望を具現化するような出来事が目の前に次々と訪れました。


同時に5歳に近づいてきた娘を見るのが日に日に辛く苦しくなっていきました。幼馴染と初めて出会ったのが5歳だったからです。


仕事に逃げました。仕事が忙しくて家に帰ることができないことを言い訳に娘と向き合うことから逃げた。幼馴染と娘が重なり、自分が娘と接することが、娘の命をいつか奪うかもしれないということが怖ったからです。


そんな時期に新型コロナウィルスの世界的な感染拡大によって、強制的に自宅にいる時間が増え、無我夢中でやってきて、考える隙を自分に与えてこなかった私に、また一人で考える時間が増えました。


このままでは娘が「母親から愛されなかった」という思いを抱いたまま大人になるかもしれない。私がかつてそう思い込んでいたように。


そう気づいたとき、今自分が抱えている課題を手放して、娘ときちんと向き合いたい。


あまりにも苦しいからこそ、向き合いたくないからこそ、ずっと避けてきた。心臓にグリグリとメスを入れて、そして、そこに深く深く刺さった棘を抜くような、そんな過程でもありました。


そして、手記を出すということで、自分の課題と向き合った。




にも拘わらず、なぜ迷うのだろうか。


私は2005年、「誰かのためなんてことはありえない。全部自分のため、マザーテレサもガンジーも世界の人が幸せになるのが私の夢というある意味壮大なエゴイスト。だから、比較するべくもないけど、私が誰かを愛するのも、そんな自分が心地よいから、気持ちよいから人を愛するのは自分のため」。


そう決意した。だから、noteの名前にもビジョンとして「より善く生きる」を掲げている。


ビジョンはあるはずなのに。なぜ迷うのか?


「より善く生きる」という言葉が意味することは私にとって、善人でいたいとか親切でいたいとかそういう意味合いではありません。


その時その場で自分が最善だと思った選択肢を考えてそこに向かって躊躇なく行動できる人生を目指したい。そういう意味での「より善く生きる」ではある。だけど、まだ重大なピースが埋まっていない。


そんなときにミイコさんの記事にきっかけをいただき出会った本。それが『ビショナリーカンパニーZERO』だったのです。


まず、第1章は、著者であるジム・コリンズとそのメンターであるビル・ラジアーの人生の物語でした。


惜しみなくギブの精神を行動によって具現化して生きたビル・ラジアー。彼は生涯を通じて多くの人に多大な影響を与えました。その生き方は、私が大学を卒業して入った会社で出会った人生の師を彷彿とさせました。


その方に出会っていなければ、今の私はいない、それくらい深く深く影響を受けた方です。


その方は、これまでに人生でたくさんの出会いによって学んできたことを、次世代に種蒔きしたい。そんな思いでコツコツと蒔き続けることをライフワークとしているような方です。(70歳を超えた今でも地域ボランティア等でこどもたちをサポートされ続けています)。


その方の当時の年齢に近い年齢になったのに、今の私はこれまで私が受けた恩恵を果たして誰かに還元できているのだろうか。


『ビジョナリーカンパニーZERO』に登場するビル・ラジアーはそれほどまでに魅力的な人物でした。


第1章に導かれるままに第4章『ビジョン』を読みました。


「あらゆる偉大な企業、長きにわたって存続する企業を見ると、そのレジリエンスは魅力ある理念に支えられていることがわかる。(中略)組織の成功を左右するのは資金力、組織、イノベーション、タイミングではなく、基本理念、精神、意欲だ」(『ビショナリーカンパニーZERO』P157より引用

「より善く生きる」だけだと欠けている私の人生のビジョンは一体なんなのだろう。

9月に立て続けに破る結果になった2つの約束のことを思い返しました。 

2つの約束は、形は違えど、私にとって目の前にいる人を大切にしたいという思いを結果的に壊す可能性がある約束でした。


今私が一番大切にしたいのは家族です。


17年前。全部自分のためだと。誰かのためなんてない。極端にふりきりすぎた。


しかし、どこかの誰かではなく、今一番大切にしたいのは目の前にいる家族であり、親兄弟であり、職場の仲間であり、友人である。

より善く生きるに欠けていたのは、今目の前にいる人一人ひとりを大切にするというビジョンでした。

そしてもう一つ。どうしてもはずせないのが今ここというキーワードです。


今、仕事を通して今後半年間に起こるであろう出来事に対して、今のままの自分では、心がぼっきり折れてしまうかもしれないという危機感を覚えています。


自分が目の前で大切な仲間が苦しんでいるのに何もできないこと。次々メンタル不調者が何人も出ていくこと。そして、万が一最悪の事態に陥ったときに、自分が何もできなかったことに対して自分を許せるかどうか自信がもてません。


今できる最善を、悲壮になりすぎず、かといって、距離を取りすぎず、淡々と行動していくために、今どうしても自分なりの生きていくビジョンを作る必要がありました。



まだ倒れるわけにはいかない。私にはたとえ心臓にメスを入れて命を落とすことになっても愛しきりたい命をかけても守りたい存在がいる。


だから、たとえ折れても、倒れても、再び立ちあがってこられるように、自分を点検する足掛かりを得よう。そう思っています。


では、なぜビジョンに『自殺する人を減らす』という文言を入れなかったか。それこそが今ここにつながることになるので、少し詳しく書いておこうと思います。


私の人生を180度変えてしまったのは愛する幼馴染の自死でした。


なぜ見捨ててしまったのか。なぜ自分は何もしなかったのか。


取り返しのつかないことを何度も何度も後悔して、生きてきました。でも、あの出来事がなければ、私は今頃、愛情飢餓のまま突っ走って、どこかでぼっきり折れてしんでいたかもしれない。


私が本当に本当に悲しかったのは、自分が見捨ててしまったということよりも、そんなひどい私なのに、幼馴染の私に対する深い深い愛情を、感じた。それが苦しくてたまりませんでした。


手記や絵本を通して、幼馴染だけでなく、2018年に亡くなった元同期の友人の死と向き合ったとき、少なくとも私は自分が生きている限り、二人は私の中でずっと生き続ける。やっとそう思えることができたように思います。


今でも時々、トラウマが蘇って苦しくなることやものすごく悲しくなることがあります。


特に、自殺を誘因する可能性をはらむ過重労働やメンタル不調などを見聞きすると、自分でもびっくりするくらい不安定になります。


悲しみや後悔で嘆き続けるよりも、二人は私の中で生きていると思い出を大切に抱きしめて、「今ここ」にフォーカスしていきていこう。


激しくずっこけても、何度でも何度でも立ち上がってくるために。


こうして作り上げたのがビジョン、パーパス、ミッションです。


◆ビジョン
・より善く生きる
・今ここを生きる
・目の前にいる人一人ひとりに敬意を払い、大切に生きる

◆パーパス
・今よりさらに一人ひとりが生き生きと自分らしく生きやすい世界にするために、自分のできることをできる範囲で諦めずに自分らしく継続していく。

◆ミッション
①メンタルヘルス
・カウンセラーとしての傾聴スキルの向上
・認知行動療法など、メンタルヘルスに良い心理学を学ぶ、発信する

②安心して帰ることのできる場づくり
・これまで継続してきたコミュニティを仲間とともにコツコツ継続していく
(プラス年4回くらいラジオ対談の場をつくりたい。)


③自己表現の敷居を下げ、もっと自己表現が当たり前の社会にする
・note
・絵本
・物語等
電子書籍等を通じ、愛すること、知ること、命のかけがえのなさを発信し続ける。



これは、まだ下書きにすぎません。これから生きていくうえで何度も修正不可能なものです。


こうしてnoteに発信し、また見返して、変化していくものだと思っています。




このビジョン。本当はもっと前につくりあげていました。


なぜ敢えてnoteに書くのか。


それは、過去に引きずられることなく、未来を悲観することではなく、今ここにフォーカスして、今目の前に迫り来る課題を自分なりにベストを尽くして、かつ倒れてしまわないよう乗り切るためです。

この世の中には不条理があふれています。

努力は報われないことのほうが多い。頑張る人が一番辛い目にあい、報われないことだって多々ある。

だからといって、それは、私にはやらない言い訳にはならないのです。


自分が一番知っているから。出来ると気づいたことをやらなかったということを。

だから、やらないで後悔するならまずはやってみよう。


この祈りにも似た気持ちを大切に抱きしめて、コツコツ自分なりに毎日小さな声で発信を続けていこう。


私なりの決意表明を、自分がさぼってしまわないように外に公約として掲げておきます。


以上がビジョナリーカンパニーZEROを読んで考えた私なりのビジョンです。

素敵な記事で本を教えてくださったミイコさん。ミイコさんに本を教えてくださったそい先生、ありがとうございました。


長々と書きながら考えて、まだ固まりきっていない私の内省による下書きのビジョンをここまでお読みいただいた方は本当にありがとうございました。


追記 2022年12月24日

ビジョンを一部修正しました。

◆ビジョン
より善く生きる
・今ここを自分らしく生きる
・目の前にいる人一人ひとりに敬意を払い、大切に生きる



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?