『劇場版 からかい上手の高木さん』感想
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2023/03/12 鑑賞
TVアニメ3期を観たあとに小豆島へ聖地巡礼に行ってきたので、この劇場版でも描かれる島の各地の風景(神社, ビーチ, オリーブバス…)に、あっ、あそこだ!とテンションが上がった。
ペットを口実にするな
予告編の時点で嫌な予感はしていたが、ペット(野良猫)飼育をふたりの関係の昇華のために配置する作劇はとても苦手だった。色んな面で合わなすぎる。
エンドロール後に「元高木さん」の時系列へと飛んでふたりの子供(ちー)が(『高木さん』アニメシリーズでおそらく初めて)登場することからもわかるように、あからさまにふたりの将来(結婚・生殖…)を予言する疑似子育て体験として描かれており、じっさい、その子猫との別れのショックがきっかけで、恋人としての告白をすっとばして、西片は高木さんにプロポーズをする。筋は通っているのだけれど、他の生命を、自分たちの目的(ずっとふたり一緒に生きていくことの誓い)を達成するための手段として扱うことのグロテスクさに引いてしまうというカント的(?)な観点での苦手意識がひとつ。すなわち、「すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、 つねに同時に目的自体として扱わねばならない」という定言命法にあらゆる面で反しているおはなしだった。
ことの始まりからして、中学最後の夏休み、口実がなくてもふたりで一緒にいてもいいのか?という会話をしているときに子猫が現れるわけで、あの猫の存在自体が、ふたりが夏休みに一緒にいる「口実」でしかない。(そして、結果的には西片が高木さんにプロポーズする「口実」にもなったといえる。)
それは、わたしには、あの猫への最大の侮辱行為であり倫理的加害であるように思われるのだが、まぁ、現代社会においてもペット産業が存続しており、こうしてペット感動系フィクションが作られ続けていることを鑑みれば、こういうのに素朴に共感できる人もたくさんいるのだろう。猫を「愛する」ためには理性的存在者とみなしてはいけないようで、これがわたしには途方もなく困難な営為に思える。
あの猫との突然の別れの原因も興味深い。近所の別の家族・親子が、かつて飼っていた白猫にそっくりだということで、「生まれ変わり」として飼うことに決める。言うまでもなく、これはかつての飼い猫にも、今の子猫(ハナ)にも非常に失礼かつグロテスクな行いだと思うのだが、繰り返し、「ペット文化に賛同できる人間はそもそも対象となる動物を人間と対等な存在者だとは思っておらず、彼らに対して「失礼」といった概念がまず存在しない」のだということを思い起こさねばならない。
前に飼っていた猫の「生まれ変わり」だとして引き取るあの親子も、自分たちの青春の「口実」として猫の世話をする西片たちも、わたしにはおなじように身勝手で残酷なやつらだなぁとしか思われず、だからハナがあの親子に引き取られようが何しようが、自分にとって理解できないキモい人間たちのあいだでの出来事なので、心底どうでもよかった。あの親子の出現であっさりと2人が引いて猫エピソードがすっぱりと終わったのには好感触だったが、それも結局は、ハナが西片のプロポーズおよびふたりの結婚のための使い捨ての道具でしかなかったということなのだろうなぁ。
なお、エンドロール後の元高木さん時空で、ふたりのあいだに娘が出来ていただけでなく、ハナと似た猫を飼っており、ハナにあげる予定だった首輪を使っているのがわかり、ああ、これで本当に、このふたりもあの親子と同じ、ある猫を別の猫の「かわり」として扱う立場になったのだな、と腑に落ちるとともに乾いた笑いが出た。なお、上述から察してもらえると思うが、わたしのペット文化嫌悪と反生殖主義はあきらかに地続きである。ヒトの子供だろうが犬猫だろうが、そういう〈他者〉を、「かわいいから」「ほしいから」といった自分たちの都合で招き入れる行為はおぞましい。
無論、ヒトの子供は自分たちが直接この世に生み出すが、ペットは(少なくとも直接は)自分たちが生み出すのではなく、この映画のハナのように、すでに生まれてしまって可哀そうな境遇にいる者をケアする、という側面もあるため一括りには出来ない。しかし、映画の最後に新しい娘と子猫という二者が登場したことを思うと、やはりこれらふたりは本質的には同じ問題であるし、そのことをこの映画は見事に表現しているなぁとむしろ感心しさえする。
ネコ要素が苦手な他の理由として、そもそも『からかい上手の高木さん』という、このふたりの甘酸っぱい関係・日常を丁寧にじっくりと描いてきた本シリーズにおいて、肝心なところで2人以外の存在があいだに入ること自体が残念に思われる、というのがある。正直、そんな子猫のことなんかどうでもいいからふたり "だけ" のやり取りを見せろ!と思ってしまう。(あの猫も、消しゴムや雨傘のような、ふたりの関係を演出するための単なる道具だとすれば、これまでと何も変わっていないと見做せるが、わたしはそう思うことができない。)
・ほか
神社の社の横に広がる白い花畑をさいしょ見て、『おおかみこどもの雨と雪』の冒頭シーンを連想したけど、子猫の名前としてまず「雪」が提案されて、結局「花」に決まるなど、マジでおおかみこどもオマージュの可能性がある。
仲良し女子3人組の「夏休みに3人でやりたいことリスト」スケッチブックのページに「散歩で島一周」と書かれていて、完了済みの赤線が引かれていたが、マジで!?すごっ!!となった。小豆島って歩いて回れるほど小さい島じゃないだろ。中学生はタフだなあ。
夜の山に出るという「カボソ」は、調べたら小豆島特有の妖怪なんだ。人間に化ける性質をもつ者、ということで、これはハナらペットの象徴としても読めるのか? 「人ならざる、人に近い、人に近づく存在」としてのペット。「生まれ変わり」として、「口実」としてのペット。子供。カボス。
この映画でも、西片と高木さんのあいだには(恋愛・恋人関係のための)「告白」は描かれずに、すっとばして(実質的な)プロポーズが描かれた。青春ヘテロ恋愛両想い心理戦モノで「告白」を回避する手法は、奇しくも同時期にアニメ3期が放映していた『かぐや様は告らせたい』と同じである。両作品は「からかい」「恋愛頭脳戦」といった2人の関係・コミュニケーションを名指すモチーフが近いのもあって、かなり似た構造を採っていると思われる。詳細な比較検討が待たれる。
ただ、『高木さん』が『かぐや様』と最も異なる点は、『からかい上手の元高木さん』という結婚後を描いた派生作品が本編と併行して連載されているところだろう。これが日常系作品としての『高木さん』をほかの作品とは違う次元においていると思う。この劇場版でも、『元高木さん』時空があるからこそ、エンドロール後の虫送り・蛍のシーンから逆算して、本編の虫送りエピソードおよびハナの飼育エピソードまでをも構成できている節がある。
おなじ男女カップルの学生時代と夫婦時代の話を同時連載している、というのは本当に異様で、考えさせられる。本編が完結したあとに、結婚後の外伝をやるならまだ理解できる。でも、完結していないにも関わらず未来の話が並行して平然と物語られているというのには、(勿論、カップルが両想いで「幸せになる」ことが約束されていないと安心できない弱いオタクへの介護ここに極まれり……的な方向も思わないではないのだが)とくに大きな出来事が起こるわけでもない日常系作品である『高木さん』の真の〈日常系〉たる佇まいを感じてしまう。
一般に、「日常」とは〈時間〉(かつて「大きな物語」とか「歴史」とか言われていたもの)を排除することで成立する空間である。多くの日常系作品は、登場人物たちが日々を変わらずに牧歌的に過ごすさまと、彼女らが次第に成長して変化していく(学園モノであれば卒業に近づいていく)さまの矛盾をどう扱うのかに苦心しながらもそれぞれに向き合ってきた。
『高木さん』では、彼らの中学校生活が終わっていないうちに彼らの結婚・生殖後の時系列を同時連載することで、いわば「成長」を描いてしまうことで〈成長〉を決定的に拒否し、真の〈日常〉を実現したのだ。もはや、「学生時代」のあとで(成長して)「大人(夫婦)時代」がある、という単線的・一方向的な見取り図では『高木さん』はとらえられない。中学時代のふたりと ”同時に” 、結婚して娘をもって家庭を築いたふたりも存在する。娘もまた「高木さん」の「生まれ変わり」のような似姿をしていることもあって、彼らの〈日常〉は、〈からかい〉は、再生産・輪廻転生をくりかえして永遠に続くことになる──。
追記
まつきりんさんの記事読んだ。あいかーらずすげぇ鋭い分析&良い文章を書くなぁ。「からかい」が終わるが「親しみ」は残る。「恋」から「愛」へ。という雑理解をしたけど、そうするとわたしの↑での解釈はだいぶ違っている。(とらえようによっては、実は同じようなことを別の表現でいっているだけとも言える)
決定的に異なっているのは、わたしは「告白(恋愛関係の成立)→プロポーズ(婚姻関係の成立)」という所謂ロマンティック・ラヴ・イデオロギー?を前提としたうえで、あの夕暮れの海岸沿いシーンで告白を "すっ飛ばして" プロポーズしたのだと理解していたが、この記事では、西片のあの行動は「告白」をすっ飛ばしたのではなく(つまり告白の延長上の行為ではなく)、高木さんに自分たち2人の関係が変わら(せ)ないことを誓う行為であった、と分析している。つまり、そもそもプロポーズですらない。結婚に直接結びつかずに、「変わってしまうもの / 変わらないもの」という青春期の問題系における、西片の1つの勇気ある回答であったと。(それを実現しようとすると結果的に結婚することになる、というだけ。)
からかいの本質を「宙吊りにすること(=モラトリアム性)」にあると看破したり、西片(および北条さん)の「恋愛=子供っぽくて恥ずかしいこと」という意識を紐ほどいて、大人になりたい西片と子供のままでいたい高木さんの図式を整理したり、ハナの命名シーケンス(ハナが「ハナ」になったワケ)の分析など、読みどころが満載だった。
「親しみ」という概念・ワードはちょっとせこくない?とは思うけど、総じて必読の記事でした。やはり、この作品は高木さんを(「世界」そのものと対比するくらいまで)一心に見つめて感情移入して好きにならなければ楽しむことができないように精緻に設計されているのだなぁとも思った。わたしのように猫の扱いに引っかかってグダグダ文句を垂れ流しているような視聴者なんてハナからお呼びではないんだよね。
本noteは、Filmarksやアニスケに投稿した文章のコピペです。
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