『心が叫びたがってるんだ。』見返した(実写版との比較つき)
・『ここさけ』を久しぶりに見返した感想
2023/10/18(水)
『アリスとテレスのまぼろし工場』公開から岡田麿里関連作品を見返そうキャンペーンを自主的に開催しているので、その流れで観た。
観るのはおそらく3, 4回目。
メインふたり、成瀬順と坂上拓実がやっぱりキャラとしてあんま好きじゃないな・・・と再確認した。どっちもオタク向けっぽいというか、ラノベとか、アニメのザ・主人公感が苦手だ。
拓実は地味に色んなスペックが高くて、それでいてラノベ主人公ばりの難聴ムーブもしっかり抑えている、典型的な「俺なにかやっちゃいました?」系男子主人公で単純にムカつく。
順は……すっごく「萌えキャラ」な挙動を終始していて、うーん自分はこういう露骨なかわいい2次元美少女があんまり得意ではないのだなぁと思った。
・成瀬順の「喋れない」症状について
今回『ここさけ』を観返した理由は岡田麿里キャンペーン以外にも、もっと根本的な理由がある。順の「喋れない」性質に対して吃音(難発)である自分が今見たらいくらか感情移入したり、思うところがあったりするのではないか、というものだ。公開当時や以前観たときは、自分は吃音症ではなかった(あっても今ほど悩んでいなかった)ので、わりかし重症化してきている今観たらまた違った見方が出来るのでは、という思惑があった。
まず明言しておかなければならないことは、おそらく成瀬順は吃音症ではない、ということ。幼少期のトラウマから「玉子」を幻視して自分に呪いをかけて喋れないようにする……というファンタジー設定を脇に置いても、少なくとも吃音症ではないと思われる。
軽くググった限り、順はあえて現実の症状に分類するなら緘黙(かんもく)症に当たるっぽい。さらにいえば、特定の場面で声が出ない場面緘黙症ではなく、学校でも家庭でも日常のあらゆるときに声が出せない全緘黙。吃音(難発)は「声」が出ないというよりも、会話のなかでしばしば、単語の最初の「音」が喉に突っかかって出てこない症状であって、序盤の教室のシーンで順が立ち上がって「実行委員やりたくないです」と言おうとして口をパクパクさせるくだりは少し難発っぽいけれど、全体を通して見るとまったく異なる症状だと思う。
吃音者はいくら重度の難発でも日常的にまったく喋れないことはないはず。ときどき最初の音が喉から出にくくなって苦しい。その「ときどき」の頻度や、出なくなる音の分布、発生条件などに個人差があるだけだと思う。(あくまでいち当事者の意見です。) まず難発で声が出ないときに「お腹が痛くなる」経験が自分はない。難発は文字通り喉に音(空気)が突っかかって出てこなくなる感じなので、息切れして胸の動悸が早まるとかなら分かるけど、直接お腹が痛くなったことはない。それは明らかにストレス性・心因性のものだから。難発はそういう恒常的なストレスが原因ではなくて、神経系がエラーを起こしているイメージ。順のは緘黙症であると判断するのが妥当だろう。緘黙症に似た?症状として失声症(失語症ではない)というものもあるらしいけれど、違いはよくわからない。
・成瀬順の苦手なところと好きなところ
ともかく、「順は吃音症ではなく緘黙症だとはいえ、似た「人前でうまく声が出ない」症状を持つ者として共感して、以前とは違った見方が出来るのではないか」という目論見があったわけだが、結果、「やっぱり吃音とは違うので全然共感できず、むしろ肝心なときに声を上げたり歌ったりできてるじゃん!」と、かえってムカついた……。
教室で拓実と野球部の男子が一触即発になったところで歌い出せたり、ファミレスで野球部の後輩と鉢合わせてピリついたときに「言葉は人を傷付けるんだ!」的な(歌ではない)言葉をしっかりと大声で伝えられたりと、なんやかんやでめっちゃ発言力がある。拓実は順のことを「喋れなくても雄弁で感情がわかりやすい」みたく評するけれど、表情や仕草だけでなく、そもそもバーバルなコミュニケーションにおいても一般人よりも卓越している。それでいて普段は「あたし喋れないので……」的な陰の雰囲気を纏っているところに、典型的なオタクの妄想というか、「普段地味だけど実は凄いんです」的な痛いキャラクター願望を勝手に透かし見てしまって好きになれない……(後藤ひとりが大嫌いなのも似た理由かもしれない)。
だから、基本的に話(そうと)していたり歌っていたりするときの順は好きでなく、上述の通り萌えキャラ的な「かわいい」仕草(リアクション)をしているときの順もあんまり好きじゃない。つまり誰かと一緒にいるときの順が好きでない傾向にあって、逆にいえばひとりでいるときの順はふつうに好き。夜に家のリビングでひとり洗濯物を畳んだあとにソファに寝転がるシーンとか、バスの座席にひとりもたれるシーンとか、屋上でひとり佇むシーンとかの順は王道にアンニュイな2次元美少女で好きです。
拓実と順。好きになれないキャラ同士が絡むシーンは当然にあんまり好きじゃなく、ふたりのヘテロ恋愛カップリングもまったく応援できない。まぁ成就しない、マリーお得意の失恋用の恋愛(一方向)関係なので作品全体としては解釈一致なんですが。
あと、これはこじつけというか深読みだけど、拓実も順も両親が離婚している設定で、じぶんは両親の仲が円満な幸福な家庭でなんの不自由もなく育ったので、そのへんの背景設定によって駆動する個人のドラマにどこか乗れないのかもしれない、と思った。ふたりとも「かわいそう」な被害者だから、自分に刺さるキャラではない……
順のことはあんま好きになれないけど、順のお母さんはけっこう好き。お母さんと順の関係は好き。喋らないだけで積極的な反抗などはせず、家事/雑事の手伝いをちゃんとやるのえらい。まぁ喋らないことが母にとってはいちばんキツイ仕打ちではあるが……それがいい!
それでいうと拓実のお祖母ちゃんがかなり好き。妙に存在感のあるおばあちゃんキャラに弱い、というのがまずある。そのうえで、孫が夜に異性の同級生をいきなり家に連れてきて、その子がまったく喋らなくても深くツッコまずに一方的に話しかけるなどの、空気が読めてるんだか読めてないんだか絶妙なところとか良いと思う……クライマックスで順ママを客席に引き留めるというナイスプレーもかますし。
・仁藤菜月について
メイン4人中、特にメインの2人についてこれだけ(苦手だと)語ったので、残りの2人──仁藤菜月と田崎大樹は、(相対的に)かなり好きだということになる。
もともと以前観返したときにも、やっぱ順よりも菜月派だわ~~~と思っていて、今回も変わらなかった。このふたりって実質『true tears』の石動乃絵と湯浅比呂美とほぼパラレルみたいなところがあるので、ttで圧倒的に比呂美派である自分がここさけで菜月派なのは自明である。(ついでにいえば『凪あす』では美海よりまなか派だし、マリー作品以外に無駄に例を広げれば『WHITE ALBUM2』ではかずさより雪菜派、『ちはやふる』では新より太一派なのも自分のなかでは首尾一貫している。)
仁藤菜月さんの何がいいって、男子主人公(拓実)と中学時代に一瞬付き合っていた・・・この設定だけでもう最高。主人公の元カレ/元カノが出てくるアニメが性癖なので……(元夫/元妻でも可)。『であいもん』や『山田くんとLv999の恋をする』、今季の『オーバーテイク!』など。
しかも菜月と拓実は手を握ったこともなければメールアドレスの交換すらしていない(まぁ時代的なものもあるだろうけど)、付き合っていたというよりは、付き合いかけて空中分解/自然消滅したというほうが適切な関係を、現在まで引きずっている。そして菜月はかつて拓実にしたこと(=してあげられなかったこと)への負い目から、このまま疎遠になるのは嫌で、明確に別れてはいないという一点に賭けて「今も付き合っている」ことにする(他の男子に冗談で告白されたときに「ごめん、今付き合っているひといるから」と返す)!! すばらしいですね……。こういう湿っぽくて打算的で狡猾なキャラクターが大好きです。小木曽雪菜……真島太一……。
逆にいえば、成瀬順さんは純粋無垢すぎるきらいはある。終盤のラブホ跡での拓実とのやり取りも、「わたし、今からあなたを傷つけるから」と宣言しておきながら吐かれる言葉が全然いうほど「痛くない」(ⓒアリテレ)し、全ては玉子の呪い(=自分自身による抑圧)からの解放という個人の成長譚/エンパワメント話に収束していく(だから「失恋」はあっさりと済ませられる)のが、もっと恋愛(他者関係)に本気で向き合ってほしいこちらからすると、物足りない。
「いい子」なんだよな。だって、そもそも、どう考えても父親が悪い(そして娘にトラウマを植え付けた母親も悪い)はずの「親の不倫の目撃による家庭崩壊」というショッキングな出来事を、その理不尽さに幼い身では耐えられないがゆえに、防衛機制として「自分のせい」にした、というところから物語(呪い)が始まっているわけだから。親のせいにすることは幼い順にはできなかった。だってお父さんもお母さんも大好きだし、お父さんがお母さんを裏切って悲しませる、なんてことを認めたくはなかったから。それを認めるくらいなら、突然目の前に玉子が現れてお口をチャックされたという幻想を信じ込む(=自分が「おしゃべり」なのが悪いことにする)ほうが遥かにマシ……というか、幼い順に取れる行動はそれしかなかった。……こうして書いてみると非常に気の毒で同情したくなってしまうが、共感はできない。共感できるのは「いい子」じゃない菜月さんのほう。
菜月の拓実への感情ゆえの佇まい・ムーブが好みすぎるので、拓実単体ではいくら気に入らなくても「菜月さんが幸せならOKです」!
エピローグでも、拓実が告白しかけるのを「待って、今だと田崎に便乗したみたいで何かイヤ」とすげなく拒絶する振る舞いがすばらしい。最後まで完璧。このふたり、またくっ付いては離れてくっ付いて……を死ぬまで繰り返しててほしい。
・幼馴染キャラがなぜ好きか
菜月とか比呂美とかまなかとか太一とかの系譜がなぜ好きかって、要するに「幼馴染」キャラだからです。幼馴染の本質はストーリー性/ドラマ性の欠如(空白)にあると思っている。物語開始時点で、すでにふたりは出会ってからの歴史をある程度積み重ねていて、視聴者にはその歴史にアクセスできない。視聴者が「仲間外れ」として疎外される(メタ-三角)関係がフィクションの幼馴染関係である。
いっぽう、順とか乃絵とか美海とかかずさとか新は、主人公との「運命的な出会い」が作中で描かれる──その出会いから物語が始まるようなキャラ。もちろん厳密には美海は違うし、『ここさけ』でも順と拓実の「出会い」は描かれない。もともとクラスメイトだったから。(これはWA2のかずさもそう。)でも、ふたりが初めてちゃんと話して仲を深める過程は描写される。
たほう菜月と拓実が「仲を深める」過程は描かれない。われわれの知らないところで既に成されている。われわれは、その不可視の歴史のうえに成り立った現在のふたりの関係を眺めている。それが "幼馴染" である。幼馴染に「運命」とか「ドラマ」はない。明確なスタートとゴールのある《物語》はない。だから、自分の好きな作品たちの幼馴染キャラが最終的に恋を実らせたとしても、その「成就」は大々的に寿ぐべきものとして描かれはしない。いつの間にか、なんやかんやで、そういうことになっている。それが好きだ。その歴史の(存在しない)始点と同じように、(存在しない)終点においても〈わたし〉は幼馴染関係から疎外されるからだ。
・仁藤菜月と田崎大樹について
順が典型的なオタクの妄想イキリ陰キャ萌えキャラ主人公なのに対して、菜月はチアリーディング部の部長というスクールカーストトップなのも良いですね。自分はいわゆる「(2次元)オタク」になったのが18歳頃と比較的遅く、それまではむしろオタク文化を食わず嫌いで軽蔑/差別していた節がある。そういうオタクフォビアが、オタクを謳歌している今でも根っこのところにあって、オタク的なものを蔑視している──その反動としてスクールカースト上位・「陽キャ」的な表象/属性に惹かれると(パフォーマティヴに)"語って" しまう──のかもしれない。しらんけど。
で、これまたスクールカーストトップの野球部エースピッチャー田崎大樹くんですが、菜月が絶対的に好みなキャラだと言えるのに対して、こちらは拓実と比べて相対的に好き、と言えるくらいかな。いや好きだよ? 序盤のくっそ嫌な不良ムーブから一転、ガチ体育会系ゆえの生真面目さを発揮して手当たり次第に坊主頭を下げて制服の片袖を垂らして謝り倒していくさま。フィクションのキャラが謝る姿も性癖なんだよね……。
しかし実際、野球部の元エースがいくら怪我中だからとはいえ、地域ふれあい交流会とかいうクソイベントの実行委員としてかなりの時間を割こうと決意するのはすごい立派だと思う。その選択の是非の問題ではなくて、自分で決断して実行したということが。交流会終わった後はちゃんと部活に復帰してマジで甲子園目指すつもりらしいのも凄いわ。ケジメをつけてどちらかを切り捨てて、例えば野球部は引退してふれ交(学校行事)に集中する……とかも考えられるなかで、どっちも捨てないうえで「まずは目の前のことから」やる姿勢。こりゃあエースですわ……。
というわけで、拓実と順という好きじゃないキャラ同士の絡みが好きじゃなかったように、菜月と大樹という好きなキャラ同士の絡みは観てて面白かった。スクールカーストトップのペア。でもけっしてこの2人のヘテロカップリングが望ましいわけではない。菜月は拓実を(ダラダラ)好きでいてこそなので。
ラストで大樹が順に告白する(ことをあらかじめ拓実と菜月に告白する)くだりは本作でも最も物議を醸すポイントだが、自分はまぁぜんぜんいいと思う。絶対にそれしかない!という強い想いではなく、まぁあの4人のなかでの幼馴染関係以外の余ったふたりで組むのはそうなるか……という気持ち。だからあのあと順が大樹を振っても、付き合ってしばらくして別れても、何も思わない。拓実といるときの順がもっとも嫌いなので、大樹と付き合って順さんを良い感じに変えてもらったら好きになれるかもしれない。大樹と付き合い始めた順、想像するとかなり可愛いかもしれない。拓実とかいうラノベ主人公野郎のことは忘れちまえ!!
「田成」っていうらしいです。カップリング名。
・真の「奇跡」──「2人になっちゃう」ことについて
ウザい担任教師がしつこく言っていた「ミュージカルの最後には奇跡が起こるものだ」という「奇跡」とは、けっして、失踪していた主演が最後になんとか本番に間に合うことでも、体育館の入口(=舞台の下≒現実)から客席の真ん中を通って舞台に上がってくることでもなく、主役の少女の演者が順と菜月の2人になることではないか。一人二役ならぬ「二人一役」の状況が発生することが奇跡なのだ。
同一人物がふたりになること。同じステージに並び立つこと。それは『空青』の慎之介≒しんの、『まぼろし工場』のまぼろし世界の正宗/睦実と現実世界の正宗/睦実のことでもある。
あるいは、『あの花』における「奇跡」──死んだはずのめんまが時間経過相応に成長した姿で現れること──もまた、見方によっては、もういないはずの人物が目の前にいる、ということだから、同じキャラクターの自己(=時間)がズレて二重化しているといえるかもしれない。苦しいが。。
順の役どころは「少女」の「心の声」だった。つまり心と身体(?)が分裂している? それを、別々の曲の合唱というかたちで表現している? 心と身体といえば、恋愛と性愛の違い(生殖イデオロギーの内外)なんかも連想される。睦実と五実とか。『荒乙』とか。菜月は「身体」=生殖の対象としての異性幼馴染……。
『まぼろし工場』を見て以来、ヘテロ恋愛と性愛/セクシュアリティと生殖(イデオロギー)の関係についてずっと考えています……
そのほか
・「ミュージカル映画」ではなく「ミュージカルを作る映画」
わたしはミュージカル映画はそんなに苦手でもないと思う(『バンドワゴン』大好き!)んだけど、ミュージカルや演劇などの "舞台" を作る系のはなしは苦手な傾向にある。なぜなら劇中劇がベタなストーリーとほぼ確実にリンクして、本筋の物語が薄っぺらくなるから。重層的にしたいのだろうけれど、むしろ「おはなし」と綺麗に対応付いてしまう程度の厚みしかないんですね……と冷めてしまう。『リズと青い鳥』とか……(作中作と作中現実の対応関係が物語の途中で「反転」することは薄っぺらさを退けるどころか強調していると思う)。
「心の声」である順がステージの下(現実)から歩いて観客(≒われわれ)の横を通過してステージの上(虚構)に至ったことを、この点からも深掘りしたい。
・音楽
クラムボン/ミトの挿入歌「Hamonia」が名曲。逆にいえばそれ以外の劇伴や、劇中劇で使われる曲はまぁ「劇中歌としてやや好き」以上のものではない。皮肉なことに。
・教師とふれ交実行委員
担任教師が終始意味わからなすぎる。実行委員にあの4人を選んだのが「青春チョイス」とか言われてたけど、マジで内在的に説明付かなくない? 都合が良すぎる。教師を制作者の暗喩としてみなければならなくなり、それは嫌だから教師のことも嫌いだ。
そうして選ばれた実行委員がはじめはイヤイヤながら、なんやかんやでミュージカルを積極的(強制的)にクラスに提案…押し付けていくわけだが、ここで実行委員の拓実も菜月も順も、まじでごく個人的な私情で動いているのがとてもいい。順は「歌なら気持ちを言葉で伝えられるかも」だし、菜月は拓実との恋愛関係の再始動のことしか考えてないし、拓実もそう。大樹は前日に順に不良絡みを仕掛けて酷い言葉を浴びせてしまった落とし前という、これまたごく私的な清算のためにミュージカル案に同意しているので、けっきょく実行委員全員が自分のことしか考えていない。すばらしい。クラスの団結とかいうお題目はまじでお題目であって、みんなそれぞれが自分の私情のために突っ走っていたらいつの間にかクラスが結束していた……という塩梅がうまく描かれていると思う。
・ラブホ跡
製鉄工場跡とか、造船所跡(凪あす)とか、廃墟・跡地というロケーションが好きなんだなぁマリーは。考えたい。
・プロローグ、王子様の白馬→車
「車」と家族/親子関係のモチーフ(空青)。バス(順ひとり)。自転車(終盤、順を探しに行く拓実)
・けいおんっぽさ
渡り廊下アニメ。
あと、ミュージカル中に誰もいない学校・校舎の風景をスライドショーするのも『けいおん』、山田尚子の下位互換ってかんじだった。
せっかく久しぶりに見たので、どうせなら比較のために実写版のほうも初めて見てみよう!と思い、見ました。
実写版の感想というより、アニメ版から変わっているところを徹底的に調べて比較することで、『心が叫びたがってるんだ。』への理解を深めようとしています。つまり実質的にはアニメ版の感想の続きです。
・実写版『心が叫びたがってるんだ。』
2017年7月公開
2023/10/21(土) Primeレンタルで観た。
「好きな作品の実写映画化」として順当に解釈違いを起こした。
なかでも最もこれじゃない感を抱いたのは仁藤菜月さんのキャスト。石井杏奈さん、E-girlsのひとか……チア面での抜擢ということか。
いちばん配役が合ってたのは後輩の山路くん。
成瀬順は、もともと非常にアニメアニメしい記号的なキャラクターなので、実写で見るのはきついですね。キャストが合っているか云々ではなく。坂上拓実はアニメの時点であんま好きじゃないので逆に実写だからこそのイヤさは感じなかった。
荒川良々さん演じる先生はさらにムカつく感じに仕上がってたなぁ。正しい采配ではある。
序盤の登校シーンで水瀬いのりさんがカメオ出演してた。オタクでなきゃ見逃しちゃうね。
あの花の実写ドラマ(原作ここさけ公開直前に放送)のときも宣伝のためかウェイトレス役でゲスト出演してたのを覚えている。
・原作(アニメ版)との違い
玉子が喋りかけてくる順の妄想ファンタジー要素がない(「呪い」とだけ説明される)
夏祭り要素がある。神社の出店の玉子のお守り。父親が「あんまりお喋りすぎると、玉子の神様に言葉を取られちゃうぞ~」と脅すところから始まる。原作ではラブホのくだりから。
そもそも順たちの学年が2年から3年になってたのがいちばん大きい変更点かもしれない。田崎大樹くんは3年なのに今からまた甲子園間に合うのか? てか作中の季節が秋から春に変わっているのか。
野球部の後輩の山路くんが出し物の大道具をわざと壊してしまうという結構でかめのオリジナル要素もあった。田崎の設定としては、そもそも「俺が絶対にお前らを甲子園に連れていく」という言葉/約束を守れなくて後悔している側面がより強調されていた。また、原作ではファミレス事件後にすぐ山路に頭を下げていたが、実写ではそのくだりがカットされた結果、山路がいたずらしてしまったのだと思われる。
「青春の向こう脛」というミュージカルタイトルを考えたのが、田崎になっている! 原作ではむしろ「なにそれダッサ」と反対する側だったのに……。
ほぼ唯一の、実写版で(原作よりも)良かった要素は、ふれ交準備期間中に教室の後ろの黒板に貼ってあるスケジュール共有用のカレンダーの描写。順がクラスのみんなに「頑張ってくれてありがとう 順」のような手描きのメッセージ付箋をたくさん貼り付けていて、みんなもそれに応えるかたちで順にメッセージを貼り付けていた。うまく喋れない順にとって、ケータイだけでなく、また一方的に見せつけるMYメモ帳だけでなく、このように「書かれたもの」での相互コミュニケーションができるなんて感動的で幸福なことだろう。この描写で、原作以上に順とクラスのみんなとの絆の深まりを見ることができてとてもよかった。
ふれ交の前日の放課後、順が菜月と拓実の会話を目撃するシーンでの話す内容が異なる。原作では拓実が「俺はべつに、順のこと好きとか、そんなんじゃない!」と言って順がショックを受ける(失恋する)が、こちらでは拓実が菜月に「好きだ」と告白するところを目撃する。(間接的な失恋)
そもそも、前に菜月が自暴自棄気味の田崎大樹から「俺と付き合わね?」と言われ、「ごめん、今私付き合ってる人いるから」と〈嘘〉をつくくだり(そして大樹がそれを拓実にも教えるくだり)がカットされている!! 原作ではこの〈嘘〉が上記シーンで重要な働きをしている。クラスの別の付き合ってる男女のキスを目撃した拓実が菜月に「仁藤も付き合ってるやついるんだよな…」と水を向けるところからシリアスな会話が始まるからだ。あろうことか「付き合ってる人」張本人である拓実からこう言われたことで菜月は(もう拓実は自分を好きではないのだと思い)ショックを受けて涙を流し、「好きなんでしょ!成瀬さんのこと!」と恋バナの話題を自分から成瀬-拓実へと切り替える。そこで拓実が「俺はべつに、順のこと好きとか、そんなんじゃない!」と叫び、それを成瀬が聞き…… という、めちゃくちゃ美しい流れがある。のに、実写ではそれがない!!
ここでショックを受けて逃げ出した順が、原作ではそのまま帰り路で転んで玉子の「スクランブルエッグだ」のくだりになるが、実写では校門を出てすぐのところで転んで座り込み、そのままカメラが俯瞰で引いていく長回しカットで終わる。ここの演出明らかに違和感があった。
・ラブホ跡シーンの位置関係の違い
そして次の日、ふれ交本番当日のラブホのくだりもいろいろと異なる。それこそ舞台めいた、相対した順と拓実の位置関係からしてかなり異なる。ラブホの一部屋のベッドにもたれて座り込んでいる順を見つけて拓実は歩み寄り、原作では部屋の "入口を塞ぐ" ようなかたちで立つ。
順は「わたしが舞台もめちゃくちゃにした!」と激昂するとともに立ち上がり、「私のお喋りのせいじゃなかったら……なんのせいにすればいいの!」と言いながらベッドに座る。ここまでのふたりの位置関係は基本的に、順が拓実を見上げる上下の関係になっている。その後、拓実が一転攻勢「お前……可愛い声してるよな」「お前の本当の言葉、もっと聞きたいんだ」と語りかけるとともに地面に座り、ベッドに座る順が拓実を見下ろす構図に変化する。順は立ち上がって拓実を押し倒し、この見下ろす構図はさらに強調される。
実写版でもはじめは同じ構図(入口に立つ拓実\ベッド横に座り込む順)だが、拓実は順に近づいて部屋のなかへ入っていき、「呪いなんか無いって」「無いと困るの!!」のくだりで順は立ち上がり拓実の横を通って入口に立つ(逆光)。ここでふたりの立ち位置が入れ替わる。原作では順が部屋の奥(内側)にいて、そんな順を拓実がなんとか言葉で説得して手を引いて外に連れ出す構図が徹底されているが、実写では順自ら拓実を通り過ぎて部屋の外に出ており、一連のシーンから受ける印象がかなり異なる。
ここの部屋の奥の壁はステンドグラスになっており、原作ではステンドグラスを背にした順に対して、拓実が跪いて罵倒を受ける……という構図が教会における懺悔・告解を示唆していると思われる。ラブホを教会に喩える、なんともこれ自体が罰当たりな演出だが、ラブホは「お城」であってステンドグラスなど西洋建築の意匠をしていがちなのは事実だから、見事だなぁと思う。また告解といっても、ここでは跪いた拓実が語るのではなく、「聖職者」側にいる順が感情的に吐露するので倒錯している。
この構造が実写版だとさらに反転して、奥に跪いている拓実に、手前に立った順が吐露する、というなんともチグハグな構図になっているので、やっぱり失敗してるんじゃないかなぁ。実写版でも部屋の奥にはステンドグラスがあるのに、入口の通路側からも光が漏れていて、そこに順が移動することで逆光の構図になっており、うーん……要素が渋滞していて洗練されてない……。
・異臭と美醜
あと実写版では「お前なんてときどき脇臭いくせに!」という超重要セリフがカットされている…… 中島健人に向かってそんなことを言うのは許されないから……というよりも、実写の生身の人間に「におい」のことを持ち出すのは生々しくなりすぎてしまうからだろうか。
『さよ朝』でも『まぼろし工場』でも、岡田麿里作品において〈匂い〉は重要なテーマのひとつだ。生の実感の象徴、生々しさの表象として、特に『まぼろし工場』では「生きていない」まぼろし=虚構の人物からは匂いがしない、という設定を置いている。ここで虚構≒2次元(アニメ)という図式を採れば、『ここさけ』のアニメ版で存在した「脇臭い」という罵倒が実写版では削除されていることは興味深い。原理的に匂いがしないアニメキャラクターに対してだからこそ「脇臭い」という罵倒が成立する。逆に生身の俳優の演じる人物に対してその罵倒は成立しなくなる。なぜなら3次元の人間が「臭い」のは当たり前だから。匂いのない世界に匂いを持ち込む効果があるからこそ「脇臭い」と言える。五実がそうだったように。
カットされているのはそれだけでなく、続く「顔だってそんなに良くない!」もそう。……これはさすがに天下の中島健人だからか? たとえ映画のなかでもこんなこと言っちゃったらファンが黙ってない…というか、視聴者が「え?顔は良いやろw」と引っかかってしまうからか。これもアニメならではの罵倒ってことだよな。アニメキャラで可愛いとか美人とかイケメンとかブサイクとかの作中での基準が、現実から見ているわれわれ視聴者の基準とは異なっているのだろうと推測/譲歩する余地がある。そもそもアニメキャラの顔は記号の集積なので現実の人間の顔とは違う。(無論、現実でも美人とかブサイクとかの基準は文化や時代によって社会的に構築/決定されるある種の記号ではあるが。)
アニメの坂上拓実、まぁふつうにかっこいいとは思うけれど、よくいるラノベ主人公みたいなデザインではあり、こういうキャラが作中で冴えないルックスであるとされる例は大量に見てきているので「そんなに良くない」としてもギリ受け入れられる。(まぁ前提として、順はここで好きな拓実の顔が本当にそんなに良くないと思って言っているとは限らない、という話もあるんだけど、いまはいったん脇に置いている。)
・罵倒と告白の(不)可能性
いろんなセリフが省かれていることを確認した。実写版の順の罵倒、火力不足が過ぎるんだよな……。すぐ終わっちゃう。途中で矛先が仁藤菜月に向けられるくだりも無いし。
まぁ原作からして、ここでの「じゃあ、今から私、傷付けるから」と宣言して始まる「本心」の罵倒はそう宣言したわりには/宣言してしまったからこそ空転して本当に人を傷付けるものには(必然的に)なりえていない。そういう、ある種のアイロニカルな「舞台/演技」としてのシーン(クラスメイト達が舞台の本番を必死にこなしているシーンと交互に映されるのもその証拠)だから、いっそもっと大幅に削ってしまおう、という意図で改変されたのかもしれない。が、消化不良で不満は残るなぁ。
ちなみに罵倒のくだりは演劇的なアイロニーだと書いたが、そのあと「私、言いたいこと、もうひとつあった」から始まる順の告白-失恋シーンは「舞台」ではなく、まぎれもなく彼女のリアルである。ここでは「告白の不可能性」は排除されている。もしかすると、直前にアイロニカルな「舞台(虚構)」としての罵倒を置いたからこそ、その後の告白-失恋が(舞台から降りて)リアルになりえているのかもしれない。そうして失恋した順は拓実の手を取ってみんなの待つ「舞台」へと急ぐのだ。
実写版では、順の母親への想いにも焦点が当たるようになっている。「ママ…」と、本番の舞台中も泣きながらつぶやく!
順が「坂上拓実」と名前を何度も呼ぶくだりもカットされているというか、最後の告白パートに結合されている。「坂上くん……坂上、拓実くん……。私、坂上拓実くんが好き」と。原作での告白は「私、坂上くんが好き」とサラッと言っている。
本名を連呼するシーンがない代わりに、実写オリジナル要素である縁日パートで例の玉子のお守り?に順が「坂上拓実」とだけ書いた紙を大切に入れるシーンがあるのだろう。ただし、それによって、「坂上拓実」と自分の名を強く呼ばれて拓実が涙を流すシーンが無くなってしまっている。
ここは、坂上拓実というキャラクターの物語のクライマックス、両親に大切にされなかった彼が順に救われるきわめて大事なシーンだと思うのに。これが無いせいで、実写版では拓実は涙を流すことなく、一方的に順を諭して連れて帰る役割に留まっており、端的にいえば拓実の「正しい」存在としての嫌らしさ・鼻持ちならない感じが増しているし、このラブホのシーンの重層性が失われている。原作ではただ単に拓実が順を救い出すのではなく、拓実も順によって救われるという双方向の美しい救済と失恋が描かれているのに。
・拓実のふり方の差異
あと、順の告白に対して原作の拓実は「ありがとう……でも、俺、好きなやつがいるんだ」とだけ言っているが、実写版では「ありがとう……でも俺、仁藤が好きだ」と、菜月の名前を出している。これも地味に重大な改変かもしれない。告白してくれたひとを振るときに、「好きなやつ」の実名を出すのは順に対するひとつの礼儀だという見方もできるし、またそもそも「好きな人の名前を呼ぶ」ことがここでは大事なテーマなので、というのもあるだろう。たほう、原作で好きな人の名前をぼかしたのには、当の菜月が「私今付き合ってるひといるから」という〈嘘〉を大樹についたことに対応しているだろう。好きな人はいるが、その名前は第三者に教えない、という一種の「技巧」であり「本心」。むろんここで菜月の名前を出さなくとも順は分かるだろう。だからこそ、敢えてわざわざ言っていないのかも。他の女の名前を出すのは無粋だから。
原作と実写、どちらの拓実の振り方のほうが好きか、良いと思えるか(一般的な振り方の話ではなく、あくまでこのシーンでの適切さ)は難しいな……。原作びいきなのでぼかしたほうが好きだと言いたくなるが、理由はなんとなく、としか言えない。
というか、この拓実の台詞のあと、どちらの映画でも順が「うん……知ってたよ(知ってる)」と泣きながら笑って答える。この返答の意味合いも、振り方に応じてやや変わってくるか。
原作「でも、俺、好きなやつがいるんだ」だと、順は拓実が別のひとのことが好きで、自分に恋愛感情は抱いていない」ことを「知ってた」のだと言っているようにとれるが、実写版の「でも俺、仁藤が好きだ」に対してだと順は「拓実が仁藤菜月のことが好き」だと「知ってる」という風に感じる。もちろん実写でも、拓実は仁藤のことが好きだから自分には恋愛感情は抱いていない、というロジックで順は拒絶を受け止めているのだが、重心の置きどころとして、「仁藤」という固有名が出ているぶん、「仁藤さんのことが好きだと知ってたよ」と、自身の失恋よりも拓実の恋愛の答え合わせのニュアンスがやや強い気がする……。本当に「気がする」レベルの話だが。なので、やっぱりちゃんと失恋しているように見える原作のほうが好きかな~。
・ラブホ跡シーンのラストカットの違い
てか、ここのコンテをより詳細に見ると、実写版では順が「知ってる」といったアップショットの次に拓実のリバースショットを映して、場面はふれ交本番のほうに切り替わっている! 原作ではフラれた順が拓実の言葉を受け止めて泣きながら微笑む(すばらしい)カットのあとに、拓実の手を順が取るラストカットがきて、そこに「知ってたよ」という台詞が(音声だけ)乗っている。冷静に考えて、このラブホのシーンのラストカットが無言の拓実のリバースショットである実写版、おかしくないか? 原作のように順が手を取るカットか、もしくは順のアップショットで終わらせたほうがいいだろう。自分がふった少女を見つめるイケメンの面を謎に数秒間見せられるのはなぜ? このシーン全体として実写では拓実の心情にあまりフォーカスしてないのに、最後だけこいつに持っていかれても……。
また、原作で「知ってたよ」と順が言うところは映されていない、というのも地味に驚きだ。完全に頭のなかではイメージが出来上がっているのに。ここを映さないのも長井監督の美学だな~~
・ミュージカル会場の変更に伴う差異
ふれ交の会場が学校の体育館から市民会館に変わっている。それに伴って、順が入口から舞台まで歩くルートが、客席の中央の花道を通るのではなく(真ん中に通路がないので)曲ながら客席のあいだを練り歩くようなかたちになっている。
また、舞台の下から上へ、という高低の移動に着目したときには、市民ホールは映画館のように客席にも勾配があり、順が入ってくる入口(客席のいちばん後ろ側)は舞台よりもむしろ高くなってしまっている。これは地味に痛い変更点かもしれない。下(客席)から(舞台)上へ、という単純な運動ではなく、高いところからいったん下がってまた上がるというV字運動になってしまっている。
これも市民会館に変わった影響なのか、ふれ交の他のグループの出し物として、他学年のものだけでなく、一般市民の秩父音頭やフラダンスも移されており、「地域ふれあい交流会」らしさは増していた。
・実写映画で「奇跡」は起こらない
また、本番のミュージカルでのもっとも重要な改変点だと思うのは、主役の少女が途中でふたりに増えるか増えないか、である。
原作では、順が途中から加わることで、代役をしていた菜月とともに二人一役になり、同一人物がふたり舞台上に並んで「悲愴」と「Over The Rainbow」のクロス歌唱をする。
しかし実写版では、菜月から順に途中で交代する(代役から正規の役に戻る)ため、少女役はふたりに増えず、クロス歌唱をするのも順と王子役の拓実になっている。仁藤菜月は別の妖精役?に替わって最後は登壇していた。
ミュージカルとしての見せ場であるクロス歌唱の歌い手が少女ふたりから少女と王子に変わっている点も非常に重大である。ただそれ以上に重要なのが上述の差異なのだ。わたしは担任教師のいう「ミュージカルの最後には奇跡が起こる」の「奇跡」とは、同一人物がふたりになって並び立つことだと考えているので、この実写版では奇跡が起こっていない、と解釈することもできてしまうのだから。
なぜ「同一人物がふたりに増えて邂逅する」ことが奇跡だと見なすかというと、他の岡田麿里作品においても──『空青』や『まぼろし工場』や『峰不二子という女』などで──こうした展開が見られ、それがアニメというフィクションのなかで起こせるひとつの奇跡ではないかと考えるからだ。とすれば、アニメではないこの実写版で奇跡が起こらないのは納得できる。自論を補強する結果となって都合がいい。アニメと実写というメディアの差異に自覚的に作られた映画であると肯定的に評価することもできる。
・祝!さとうささら出演
DTM研のボカロ(正確には合成音声ソフトのなかでもCeVIOであってVOCALOIDではない)の声がさとうささらなのは同じなんだけど、原作では「さとうささら」として登場してはおらず、別の架空のキャラ(MINT)だった。
しかし実写では、がっつりさとうささらのパネルが置かれていてテンション上がった。ようやく権利関係で許可が取れるようになった……とかではなく、たぶんアニメのなかに実在の合成音声ソフトのキャラを描いてしまうのは浮くので架空の商標にした(アニメのマクドナルドを「ワクドナルド」にするのと同じだ)けど、実写作品のなかになら実在の固有名詞を入れても浮かないと判断したのだろう。
このあたりの話題は面白い。そもそもボカロキャラの時点で「架空のキャラ」ではあり、また映画だってフィクション(虚構)である。だから、さとうささらは言わば「実在の架空のキャラ」であるがゆえに「現実の虚構」である実写映画に出演できる。たほうアニメ映画は「虚構の虚構」だからこそささらさんではなくMINTさんとかいう「架空の架空のキャラ」に変える必要があったのだ。
(ちなみにさとうささらの声のもとは成瀬順役の水瀬いのり。つまり『ここさけ』では同一人物が合成音声とアニメキャラという二重の「中の人」になっている。)
・ロケーションの変更について
原作では夕方~夜のかなり暗い時間帯だった野外シーンの幾つかが、実写ではまだかなり明るい空の下で撮られていたのも気になった。やっぱり夜の野外撮影は照明とかが難しいんだろうか。
具体的には、菜月が帰りの電車に乗り遅れてプラットホームで大樹と少し話すシーンや、ファミレスで叫んで腹痛くなって病院に搬送されたシーンと、そのあと菜月と拓実が中学時代のことなどを話しながら帰るシーン。これらは暗いイメージが強かったので、え、こんなに明るい時間帯に変えるんだ……と驚いた。
ふれ交前日の例の「成瀬順は見た」シーンも、原作では視聴覚室に荷物を置きに行く途中の渡り廊下で拓実と菜月は話している(のを順は玄関?から見ている)が、実写では視聴覚室でやり取りが交わされる。
夜の暗いシーンであるのは両方とも変わらないが、渡り廊下という「室外」から校舎内という「室内」にシチュエーションが変更されており、これも実写の撮影の都合なのかもしれない。
『ここさけ』はかなり "渡り廊下アニメ" だと思っているので、その要素が実写版で後景化したことも興味深い考察対象となろう。なぜなら渡り廊下とは校舎内であって校舎外である場所、校舎と校舎をつなぐ架け橋にして境界領域、上靴で歩くけど「室外」でもあるような特殊な空間だから。それはミュージカル本番の舞台(フィクション)と客席(リアル)をその歩みと歌によって渡る行為にも深く関わってくると思う。
・エピローグの屋上シーンについて
あと、原作ではミュージカルが終わって後片付けのシーンで本編が終わりエンドロールに入るが、実写版ではミュージカルのシーンから即エンドロールに入る。エンドロールの終盤から入るエピローグパートは後片付けシーンではなく、メイン4人が校舎屋上に並んでいる、おそらく原作映画のキービジュアルを踏襲したシーンとなっている。ここで大樹が「成瀬順好きだ~~」と叫ぶことで告白要素も回収しているが、かなり印象は異なる。
原作ではまず拓実と菜月に「おれ、ちょっと成瀬に告白してくるわ」と告げてから、順に告白する様子が(拓実と順の締めのモノローグが流れているもとで)映される。つまり大樹の告白の台詞などはぼかされている。この原作の大樹の、まず拓実と菜月に「告白の告白」をしてから順とふたりきりのときに告白するムーブがかなり好きなので、実写版ラストの、4人でいるときにしれっと「本心」を叫ぶことで告白する大樹にはモヤる。というか、「今度こそ絶対甲子園行くぞ~!!」と叫んだあとに二つ目の叫びとして告白するのもうーん……って感じだし、あとしれっと告白された順の反応が薄い(なんか微笑んでる)のも納得いかない。
そして最悪なのは原作から持ってきた最後のモノローグ! 棒読み&テンポが性急すぎて余韻が台無し。原作では拓実と順のふたりだけだが、これを4人で分担して順番に言うことでグダグダになっている。
このモノローグを被せられて、4人が実際に何と叫んだのかはぼかされている。大樹はもう一度「成瀬順好きだ~」と叫んでそう。あとの3人は何と言ったのか、表層的な(どうでもいい)考察要素を残して終わった……。
まとめ
実写版を見ることで、原作のアニメ版『ここさけ』をより好きになることができた。岡田麿里は脚本が上手いし、長井龍雪は画コンテ演出がすごいし、田中将賀のキャラデザと作画がすばらしいと改めて思った。(それはそう) やっぱりじぶんは実写よりアニメが好きなんだなぁ、とも。(それもそう)
次は『あの花』の実写ドラマ版を見返すか、岡田麿里の自伝の実写ドラマ化(なにそれ)を見てみたいですね。
これ書いたあとに3回目見に行きましたが、さらに書きたいことは特にありません。今のところは。
『空青』も見返したんですが、そんなに感想を書いてない…… 再見して以前よりは評価が下がったかも。それでも『ここさけ』よりも『まぼろし工場』よりも好きだけど。
いま数年ぶりに『凪のあすから』を見返している(10周年おめでとうございます!)ので、もしかしたらその感想も投稿するかも…… でもなぜかノートに手書きしてるんだよな……自分にとって本当に大切な作品の感想は手書きで残したい、というアレ。それを活字起こしタイピングするのは面倒なので直撮りの写真を上げるかもです。(自分の汚い字を公開することにためらいはないひと)
それではまた。
よい岡田麿里ライフを……