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瀬戸口廉也『CARNIVAL』小説版の感想


瀬戸口廉也さんがライターを務めたエロゲ『CARNIVAL』は、エロゲをやり始めた初期にやって全然面白くありませんでした。なので、他の作品(『SWAN SONG』『キラ☆キラ』など)をやる気も起きず、正直舐めていました。「ドストエフスキーに影響を受けている」とか、どうせ非インテリのエロゲオタク達から絶賛されてる程度の薄っぺらい作家なんだろw と。

しかし、こないだ発売された瀬戸口廉也シナリオの最新作『ヒラヒラヒヒル』(全年齢向けノベルゲーム)がとても面白く、彼の筆力の高さや、エロゲライターらしからぬ社会的なものへの関心と倫理に、「ちょっとこれは瀬戸口廉也という作家を見誤っていたかもしれん……」と反省し、彼の過去作に俄然興味が出てきました。

まずは、いま冬だし、冒頭5時間くらいやって1年以上放置している『SWAN SONG』の続きをやろうかな……と思っているのですが、ちょうど機会があって、ファンからの評価が非常に高い『CARNIVAL』小説版(ゲーム本編の後日談)を一気読みできました。以下、その感想です。



23/12/9(土)

主人公、九条洋一のネクロフィリア設定がなかなか面白い。

性欲はなんだか暴力の衝動に似た薄汚い感じがする。怒りを剥き出しにして人を殴るのが醜いように、性欲を露わにして人間に接するなんて、とても恐ろしい琴のように思えた。それでも体の生理は性欲の解放を要求して、僕をせき立て、ただそこに居るだけで気持ちが鬱屈してたまらない。
p.94

生きている人間に性欲を抱かないわけではない? 抱きはするが、それ以上に、性欲=暴力衝動(性行為=暴力行為)という”倫理”を内面化していることからくる欲望の抑圧が強くて、生きた人間に性欲を感じることを強く抑圧して忌避しているってことか。
それゆえに、もう生きていない(ゆえに倫理的な配慮の対象外だと思える)死んだ人間=死体には、素直に性欲を覚えることができる、と。
すなわち、ストレートにネクロフィリアなのではなくて、倫理的抑圧に基づく消極的なネクロフィリアということ?
これはアセクシャルや単なるインポテンツとは違うよなぁ。いやわかんない。

この設定が出るまでは、洋一とサオリの筋書きはめちゃくちゃ典型的な「娼婦を救う男主人公(ヒーロー)」モノで厳しかった。その延長として「生身の人間に性欲を抱けない」設定を捉えると、ふつうにサイアクではある。オレは性欲に精神を明け渡してなんかいねぇから、と言い訳がましい態度をとりながら、自らに好意を向ける女性を諭してたしなめて救っていく、もっとも醜悪な男主人公の典型だから。

原作ゲーム本編の、木村学と九条理紗の話を、理沙の弟という絶妙な距離感の第三者の立場からやや冷めた目で客観的にまなざすのは良い。

本編から7年後の話。


読み終わった!

これは……ちょっとすごいな……傑作だと認めざるをえない。
最後のチャプター5でようやく木村学に語りが移って、『ヒラヒラヒヒル』を思い出させる、精神疾患や精神病棟の描写のすさまじい迫力に圧倒された。

結局は、虐げられてきた女性に「できれば、誰も憎まないで生きてください」というあまりにも残酷な願い(呪い)を押し付けて、自分だけ先に死んでいく独りよがりで暴力的な男主人公(木村学)ってことじゃん、とは思う。女性差別的な要素は数多く根深く存在している。それでもなお、それを理由に「しょうもない」と一笑に付すことができないほどの迫力がある。それは、木村学の一人称で、誰にも自分の苦しみと努力がわかってもらえない(わかってもらえたとしてもどうしようもない)絶望的な人生の袋小路にしがみつく心境を克明に描き出しているからであろうし、(学の願い通りとはいえ)残された理紗の、幼い頃に性的虐待をしてきた父を告発して全てをやり直そうとする崇高で力強い決意が見れたからでもある。

小説版のオリジナル(メイン)ヒロインのサオリの存在意義が終盤まで分からなかった。洋一は理紗の弟だから主人公として設定されるのはわかるけど、サオリだけ浮きすぎている。(その余波として、彼女をあっさり受け入れる九条母のコミカルな異様さも浮き彫りになっている。まぁ原作ゲームからそうだけど。。)
しかし、ラストシーンで、九条洋一の死姦欲求を肯定する存在としてこの物語に必要だったんだな、といちおう腑に落ちた。無論この解釈は、彼女が形骸的な役割を与えられたミソジニーに基づく伝統的な娼婦=聖女ヒロインであることを決定づけるため、フェミニズム批評的には到底評価できるものではないが。

全体的に、男性の不始末(暴力)を「赦す」役割が女性キャラのほぼ全員に押し付けられていて、俯瞰してみるとかなり酷い。んだけど、実際に読んでいると、かなり食らってしまうエネルギーが、鋭さがあるという意味で傑作だろう。

原作ゲームでレイプされた志村詠美先輩とその妹のシーンも良かった。お焼香を上げに来る。ここは、詠美が最初に木村学を虐めていたので双方向の加害-被害関係にあり、それをすべて精算するというか、これからも背負っていく覚悟として詠美が学の通夜に現れたのだと思うとなかなかに来るものがある。

洋一の死姦性欲設定はどういう意味があったか。

まさしく、生と死の倫理を主題としている。

洋一が、渡会さんからかつての木村学の学校での殺人の詳細を聞いているときに、殺されたいじめ首謀者の男子生徒の死体のくだりでも興奮した、と言っているのが地味に重要な気がする。男の死体にも欲情するんだ!

死姦性欲の解決策が、「生きているうちに本人が許可を出しておけば後ろめたくない」なのはうーむ……それでいいんか……とは思う。死体になったら、そうして許可していた本人がその肉体とは何の関係も無くなってしまうと思えてしまうことにこそ、洋一は悩んでいるのでは? でも、木村学の葬式で死体を見て、「正常」に少し近付いたらしいし、いいのかな。


「いいですか、死んだ人間は永遠に許してくれない。でも、生きている人間同士なら、許し合うことが出来るんだ。それは素晴らしいことだと思いませんか。」 p.214

木村学が、会社の上司=父に言った台詞。
これ自体は、それが「どんなに酷いことをされても、いつか許さなければならない」というような、弱者への抑圧として機能する可能性があって危うい言葉だが、物語の文脈のなかでこの台詞が置かれる状況がうまい。(引用していない、この直後の文のほうが大事だと思った。)
ところでマジで何の仕事をしてたの??

生殖、出生主義や家族主義に対してはかなり強い「否」が読み取れる。
ヒラヒラヒヒルでも患者は生殖能力を失くしていたし。。 反生殖主義(≠反出生主義)やヴィーガンの観点は、後述する瀬戸口作品における「倫理」を考える上でもきわめて重要だろう。


「生と死の倫理」に強い関心がある作家として瀬戸口廉也を読んだときに、じゃあ「性」の要素はどう位置づけられるのか(そもそも必要なのか?)、という問いが浮かぶ。実際、本作の通夜のシーンは『ヒラヒラヒヒル』の冒頭も想起させ、「通夜/葬式」という、生者と死者が向き合う境界的かつ儀式-祝祭(carnival)的な場へのフェティシズムは一貫して見いだせる一方で、『ヒラヒラヒヒル』が18禁要素のないノベルゲームだったように、実は生(死)にだけ執着していて性はそんなに本質的な要素ではないのか?という気もする。

本小説の男主人公:九条洋一は、お通夜で棺の中の遺体に性的興奮を覚えてしまうこと(の異常性)に苦悩している。"遺体へのフェティシズム" という要素自体は、『ヒラヒラヒヒル』でも「遺体が再び動き出す」さまを鮮烈に描いていることから垣間見える。やはりここは性別が大事で、洋一が「男の死体」にも性的興奮を覚えるのか、という点と、『ヒラヒラヒヒル』で「男のひひる」が如何に描かれているのか、という点が対応しているだろう。すなわち、死体性愛とヘテロセクシズムの関係が問題だ。

もし女性の死体にしか興奮しない(ような人物しか中心的に描かれない)としたら、それは普遍的な「生と死の倫理」ではなく、そこに根深くヘテロセクシュアル(でミソジニー)な性欲の問題系が関わっていることになる。(その偏向を、あたかも偏向していないかのように描いていたとしたら殊更に問題含みである。)

そうではなく、死体でありさえすれば、男だろうが女だろうが等しく性的に興奮するのであれば、表面的には誠実…というか「政治的に正しい」が、本作におけるサオリの存在意義および「エロゲ」としての本質が失われてしまうようにも思える。上に書いた「性欲=暴力衝動(性行為=暴力行為)」というテーゼはこの点でかなり大事だと思うので、やはり本作の性愛要素(エロゲ要素/ミソジニー要素)を誤魔化さずに分析していくべきなのだろう。

これはもちろん、「やっぱ「ポリコレ」とかクソだわ!そういうのを全無視した「自由」な作品こそがおもしろい!!正義!」的な、現代インターネットにみられる典型的な差別思想に加担するものではなく、正反対である。そもそもこういう言説を本作に適用することは単に差別(助長)的なだけでなく、瀬戸口廉也に、その作品に対してきわめて失礼である。彼の作品を読めば、いかに「倫理」を志向しているかがわかるからだ。狂気のなかに正気を、反倫理のなかに倫理を必死に追い求める、そのもがきの過程こそが瀬戸口作品に綴られているのだから。

凌辱・レイプという、言うまでもなく「倫理的/政治的に正しくない」ことを描くフィクションにおいて、その作品の全体的かつ個別的な佇まいとして「倫理的/政治的に正しく在る」ことは如何にして可能なのか。これは(私が勝手に透かし見ている)瀬戸口作品に通底する問題系であり、そして私がエロゲをやる理由でもある。じぶんが、エロゲ──必然的に差別的な要素を多分に含んでいる──を心から "楽しむ" ための切実な理路である。(エロゲをフェミニズムの観点から「楽しむ」ことができるんだと示したい。) そしてこれはまた、日本に住むシステヘロ男性という圧倒的なマジョリティ(加害者)として自分がこれからも生きていくうえで向き合わざるをえない大切な課題である。現代社会に生き続けることは原理的に、直接・間接問わず他者への加害行為や差別構造に加担し続けることである。この意味で反倫理的な私たちの生/性を、実存を、その反倫理性に絶望してニヒリズムとして開き直るのではなく、歯を食いしばって踏みとどまって、少しでも倫理の方向へと近づける希望を模索すること。たとえ生者は反倫理的で、死者こそが倫理的であるとしても、それでもなお、「諦めない」こと。それが、本書に「生きている人間同士なら、許し合うことが出来るんだ。それは素晴らしいことだと思いませんか」という言葉が書かれている意味だと私は信じる。

思うに、「許し合うこと」(だけ)が、「素晴らしいこと」なのではない。許し合えたらそれはたしかに奇跡のように(物語のように)素晴らしいことかもしれない。しかし、生きている人間には、許すことだけでなく、許さないこと、憎み続けることもまた可能である。憎み続けることの倫理だってあるはずだ。死んでしまったらそれもできない。死者は許すことも憎むことも反倫理的であることも倫理的であることもできない。生者にはそれらすべての可能性が与えられている。だから、瀬戸口廉也が固執する「生と死の倫理」とは必然的に「(反/)倫理」のかたちをとるのだと思う。「反倫理」ではない。生きることの反倫理性を引き受けて、そのなかで倫理のほうへと向かう、生への強烈な批判であり賛歌。だから、私が本書の件の台詞を恣意的に読み替えるとしたら、こうなる。

生きている人間だけが、許すことも、憎み続けることも、その偽の二項対立に回収されない次元であがくことだって出来るんだ。それは素晴らしいことだと思いませんか。


・ ・ ・

読んでよかったです。たしかに傑作小説でした。これを受けて、またゲーム本編を読み返してみようと思いました。


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