ヤマシタトモコ『違国日記』, 『ひばりの朝』感想
年末に帰省して、実家に揃っていた『違国日記』全11巻をようやく読み終えて、ついでに『ひばりの朝』も読んだので感想を並べます。
もともと『違国日記』は8巻までの感想メモをnoteに投稿していました。
このあと9巻は刊行されたときに読んでいましたが、ラスト2巻(10, 11)は未読だったので、この機に6巻辺りから読み返して遂に読了しました。
各キャラクターやシーンなどの詳しい感想は ↑ の記事に書いてあるので、今回はなにぶん簡素な、総まとめコメント的な感想になっています。
『違国日記』全11巻を読み終えて
2023/12/31
歴史的傑作
完結した今年中に読めて本当に良かった。
立ち会えてよかった。
最後は詩で、「わたしたち」という一人称複数形への帰着。だから(この)あとは、言葉を持たない者たちへのまなざしを追究してほしい。つまり、人間中心主義と言語中心主義(併せてヒューマニズム)の問い直し。
『日記』と銘打たれた本作が、根本的に、言葉を持つ者のなかで閉じてしまっているのは仕方ない。むしろ、その範疇でこれ以上ないほどに誠実で網羅的で倫理的な物語を紡いでくれたとは思う。
出生主義・生殖主義に関してはかなりいい具合に回避出来ているほうだと思うが、当然に完全ではない。「きょうだいの事故死によって15歳の姪を引き取ることになる独身成人」の話ということで、出生の罪や、大変な幼児期の子育て労働だけ都合よく免れて、大人になりつつあるひとりのかわいくて聡明な子供の〈親〉、保護者になることのおいしい部分だけをすする、フリーライド的フィクションではないか、という気持ちも沸き起こってくる。これまでもこういう設定の物語はあったし、今後ますます増えることだろう。というのも、すべての人が親になって子供を持ちたいと思うわけではないが、長く生きれば生きるほど、自分よりも若いひとに対して、何か少しでも役に立ちたい、教えたい、尊敬されたい……というような欲望と完全に無縁になることはきわめて困難であろうから。むろん槙生が朝を引き取ったのは偉大なことだと思うし、朝と暮らしていくなかでたくさん苦悩して、大人としての、保護者としての責任と倫理と、距離感を探っては遂行していく過程が『違国日記』という物語であるから、本作自体に「フリーライド」感はほとんど無いのだけど。
「都合の良い設定」から出発していかに現実的な困難さを抉り出して描き出していくか、そういう線で殊に優れた作品だった。親になることの難しさは、その尊さと加害性、責任感と無責任感が分かちがたく絡まっている点にもあるのかもしれない。槙生以外にも、笠町くんや弁護士の塔野さん(最終巻ではやけに存在感があった)、作家仲間のジュノさんといった、槙生よりも朝に対して距離があって「無責任」な大人たちの接し方についても注目するべきだろう。
あとは、なんやかんや言って、東京近郊の、都会に住むという点で恵まれた人たちの話だから、次作ではちゃんとそこの出身・居住地の特権性そのものも告発してほしい。もちろん、都会の人間だからこそリベラルな思想を内面化し易いというリアリティはあるので、この作品内部での整合性は高いのだけれど。だからこそ、田舎から都会へ上京してきた『呪術廻戦』の釘崎野薔薇さんのような表象が重要なんだろうな(彼女自身の個人主義、マクロで政治的な視点の欠如という限界も含めて非常に見事な造形である。)
朝の父親の話についてあのように決着させるんだ、という意外性。(いや、もちろん”決着”するような問題ではないし、決着させているつもりもないだろうけれど。)
クライマックスが「詩」であるというのは、一見、本作が漫画であることの否定とも捉えられかねないが、全くそのようなレベルにない。ともすると物語の内容や登場人物たちの造形・関係・”思想”などばかりが取り沙汰されて賞賛されるかもしれないこの物語は、しかし”漫画”としても極めて優れていたと言わざるをえない。『違国日記』の漫画表現について、”わたしたち”はもっと積極的に語るべきだ。その思想や物語面と同じくらいに。
・note投稿時の追記
最後の数巻、読んでいるあいだずっと泣いていた。わたしは涙腺が非常に弱いのでこれは誇張ではなく、「自分への刺さり度」がある一定基準を超える作品ではよくこういう状態になる。
特に刺さるというか、登場するだけで、いや他の人物から遠まわしにでも言及されるだけで泣いてしまうのは、医学部志望の秀才、森本千世さん。彼女のことを思い浮かべるだけで……あぁ…… こうして、具体的で現実的な、未解決の社会問題(医学部入試の女性受験者差別事件)を直接に物語に取り上げていることは言うまでもなく素晴らしいし、この作品側にはこの点で何の落ち度もないとは思うんだけれど、しかし同時に、森本千世さんの存在が深く心に残っている自分を省みて、「現実の社会構造の問題を、このように物語上のひとりの女子高生のキャラクターに反映して "感動" してしまうというのは、実際の問題を矮小化していたり、もっと根深くて恐ろしい人間意識の存在が浮き彫りになっていたりしないだろうか」と立ち止まってしまいもする。「もっと根深くて恐ろしい人間意識の存在」とはどういうことかというと、うまく言えないけれど、要するにわたしが森本千世さんというキャラクターに心を揺さぶられるのは、もちろん理不尽な社会に対して正当に傷つきながらも諦めずに力強く生きていこうとする彼女の崇高さ、気高さに打ちひしがれているからなんだけれど、これは端的にいえば「酷い目に遭いながらも心が折れない少女」に "萌えて" いる、ということなんじゃないか、それは変身少女モノとか凌辱モノのエロゲのヒロイン達に萌えながら欲情しているのと本質的には同じではないのか??という疑念がある。……ごめんなさい、「根深くて恐ろしい人間意識」というよりも、シスヘテロ男性の加害欲に基づく性欲、でした。それをあたかも人間存在の普遍的な問題であるかのように本質化するのは差別的でした。しかし、こういう自分の心情は考えるほどに厄介でしょうもなくてイヤになる。だって、表向きは「医学部の女性差別反対!医学部志望の森本さん頑張れ!」と、さも彼女を "応援" しているようなくせして、その「推し」行為の欲望を掘り下げていくと、まさに森本さんが絶望して憤っている女性差別的な社会構造を作り上げてきた男性中心主義のミソジニー(女性蔑視)に行きついてしまう。"応援者" こそが最大の敵だった、という構図を自らが反復してしまうグロテスクさ。どうすればいいのだろうな。
漫画の話をしていたはずが、自分語りというか、「自分ってこんなにどうしようもないんです」パフォーマンスになってしまうの本当にキモいな。
『ひばりの朝』上下巻を読んで
2024/1/1
これは…… なるほど……
きのう、まだ2023年だった頃に作者の最新作『違国日記』を最後まで読み終えて、その翌日に、10年前、2011-2013年に連載・発行されたこの全2巻の作品を読んだのだけれど、そのあまりのギャップに驚くとともに、最終的には、なるほど確かにこの『ひばりの朝』の延長上に(『さんかく窓の外側は夜』や『花井沢町公民館便り』などを挟んで)、『違国日記』が位置するのだと、そのひとりの作家の経歴の連続性に納得させられた。
Wiiリモコンとかガラケーとか、2010年前後の時代特有のものが色々と登場して、その ”古さ” に慄いた。富子がひばりに対して内心でしようとした、windows OS(XPかVista辺り)での「ゴミ箱へ削除」演出とかも、あの時代でないとまず書かれないだろう。
上巻を読んだ時点で、(ひばり以外の)登場人物のあまりの露悪的な造形、性悪説っぷりにゲンナリしていて、おいおいどうするんだこれ、ここからよくあんなにキャラ全員が善性を持って、少なくとも倫理を追い求める善人であろうとしている『違国日記』を書くようになったなぁ信じられへん……と思っていた。
それが下巻に入ると、本当にギリギリのところで露悪からなんとか善性のほうへと切り返して踏み留まれるかに思われる展開を見せ、期待が高まったが、最終的には、むろん単なる露悪でもなければ、安易な「救われ」展開でも「改心」展開でもない、また別の方向へと突っ走って着地/逃避していた。私の語彙でいえばG=マルケスの『エレンディラ』展開と表現される、ある種とても王道な結末ではある。”夜明け”のほうへとひとり行ってしまったひばりがその後、幸せに暮らせたのかどうかは宙吊りにされている。
「詩」で物語を締めるやり方は当然に『違国日記』を思わせるが、既存の古典を引いた本作に対して、あちらはオリジナルで勝負していて成長を窺わせる。
また、ひばりを死なせもせず、しかしひとりぼっちで逃げ出させた(=”社会”に放り出させた)『ひばりの朝』の結末は、ある意味でとても誠実であると同時に、無責任でもある。だからこそ、そんなひばりの逃避先として『違国日記』での槙生と”朝”との共同生活を描いたのではないかと思った。
上巻の時点で、ま〜たエロゲとかによくある、「ミステリアスな魔性のヒロイン」を中心に配置して、彼女を取り巻く人々の群像劇によって次第に多面的に真相が明らかになっていく(=撹乱されていく)系の物語か……と嫌気が差していたが、しかし上巻の最後の「talk.7」で早くもひばり視点のエピソードを入れてきてくれたので、やっぱヤマシタトモコ信頼できるわ〜〜〜となった。まったく入れないとか、最後に満を持して持ってくるパターンとかが全然有り得てしまうなかで、半分いかないうちにちゃんと彼女が「魔性の女」なんかではないことを、本人の内側から宣言してくれたことのうれしさ。
その通り。これは「ひばり」というひとりの少女の問題ではない。彼女を取り巻くこの現代社会の構造の問題である。だから、例えばひばりに想い(性欲と分離はできない)を寄せているクラスメイトの男子が「助ける」ことなどできない。彼が本当はそんなの「できないってわかってて言ってる」事実以上に、そもそも「彼女ひとりを助ける」ことで解決する問題ではないのだ。
だから、誰かの善意がひばりを助ける展開にしなかったことは誠実だと思う。同時に、彼女を取り巻く人々が、まったく善意を持ち合わせていないのではなく、あと一歩で、1クリックで、なんらかの実行的なアクションに繋がっていたところまで丹念に描いていることもまた、素晴らしい。クラスメイトの相川勇くんの勇気ある行動・発言だって、確かに「忘れない」ものを彼女のなかに残しはしたのだ。それはひばりを救いこそしないものの、彼女が「死なない」ための助けには、ほんの少しは貢献していただろう。
この物語の、この”問題”の核心にもっとも迫りながらも、同時に「きっと誰にも救えない」と諦めてニヒリズムに陥ってしまっているのはひばりの担任教師・辻先生である。ひばりのはとこ?であり、彼女が一時的な逃避先として選ぼうとしていた「完ちゃん」と並んで、もっとも彼女の抱える問題に気付いて手を差し伸べるべきなのに、それをしなかった罪深い大人だが、辻先生自身が複雑に絡み合う女性差別の中で精神的に摩耗している様子が描かれるので、やりきれない。
辻先生のこの言葉を、生徒である未知花は屋上のシーンですでに見通しているのが良かった。
だからこそ、誰も安直に死ぬ展開にはしない。極端なバッドエンドでもハッピーエンドでもなく、この物語は終わっても、ひばりの、未知花の、彼女ら彼らの人生は続くのだと。そう思わせてくれる物語で良かった。「息を止めていたので平気でした」……まったく「平気」ではないそれを、このようにひばりに言わせてしまっているそれを私たちは深く痛感して恥じなければいけないが、同時に、それでも彼女は生き残ってくれたのだと、この言葉をまじない(呪い/祈り)のようにしてか、耐え抜いてくれたのだと、絶望と希望で両面を固められたそれそのものを呑み込まなければいけない。この漫画を読むとは、私にとってそういう体験だった。
子供に接する大人こそが、教師こそが、そして本当は親こそが、「そこから逃れる方法」を教えてやるべきだ。逃してやるべきだし自身が逃避先になってあげるべきだ。それは正論だが、同時に社会を構成するひとりひとりの大人という”個人”に責任を鋭く委ねるのではなく、個人の善意と勇気に賭けるのではなくて、あくまで社会構造の問題であると、きわめて政治的な次元の問題であると認識して向き合うべきだ、私たちひとりひとりが。無論、漫画という物語作品のメディアで、どこまで政治・社会を具体的に扱うことが出来るか、というのはまた個別的に難しい課題である。少なくとも、この『ひばりの朝』という漫画では、自身が広げたその範囲で出来ることをかなり誠実に描き切っているとは思う。が、同時に、これだけでは限界がある。それを作者も読者も認識しているから、『違国日記』という作品が書かれ、広く読まれるようになったのだろう。私は、この列島(極左フェミニスト高島鈴さんからの受け売りの言い方)の大衆の政治的状況に深く絶望すると同時に、それでも『違国日記』のような作品が広く読まれているのは本当に素晴らしいことだと思う。
昨日と今日で連続して読んだために、膨大なヤマシタトモコ作品の中でどうしてもこれら2作品のみをナイーブに結びつけてしまう思考になっていて申し訳ない。もっと、ヤマシタトモコ作品の全体像のなかでの位置付けや、そして他の作家の作品との関連も見通してこれからも読んでいきたい。