『劇場版ポケットモンスター 水の都の護神 ラティアスとラティオス』(2002)感想
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B08QC9MH9W/ref=atv_hm_hom_1_c_E6DOit_14_1
ポケモンのアニメを見るのは15年ぶりくらいだと思う。
劇場版のなかでも人気らしい本作をなんとなく観た。
ヴェネツィア風の「水の都」が舞台で、最初から最後までとにかくこの町の路地(水路も陸路も)を走りまくり映しまくる。女児アニメならぬ路地アニメだった。
その路地を進むさまを1人称視点でCGを用いて描くパートが何度かあったが、『ONE PIECE THE MOVIE デッドエンドの冒険』(2003)を思い出した。公開が1年違いだし、やっぱりこの頃ってこういう初代プレステみたいなCG表現をアニメ映画でこのように使うのが流行ってたのだろうか。今観るとほほえましい。(もちろん本作では「ゆめうつし」というギミックと繋がるため必然性があるのだが。)
終盤で街の路地や窓などのあちこちが封鎖され、間一髪サトシは2階のベランダから川へ飛び込んで脱出するシーンがなんか良かった。ここがいちばん「水の都」感を得られたというか……。「路地の封鎖」と「水路への脱出」が対になって物語が開放的な方向へとドライブしていくのが好きだったのかな。
それと、ラティオスが最期に地球を離れて宇宙空間へと漂っていくときの視界をゆめうつししているときに、地球を「青い水の星」と表現するのはシンプルにグッと来た。タイトルの「水の都」が指す対象/意味が、アルトマーレといういち都市から、物語の最後にはスケールをぐっと広げて、この星じたいへとスライドすることへの感動。
見ている光景をラティオスが送信してラティアスが受信することで、近くの者にも映像を共有する「ゆめうつし」は、あからさまに「映画」(の撮影者と鑑賞者)の隠喩だろう。
この映画じたいが、ラティオスが今もどこかで見ている夢を移した/映したものなのかもしれない──とか、そういう凡庸なことをつい言いたくなってしまいますね。
ラティアスちゃんがサトシ(とピカチュウ)を絵に描いて、別れる前に手渡すことになるけど、この絵画要素と、上記のゆめうつし=映画要素をどう絡めて解釈したら面白くなるかなあ。絵画と映画って、静と動という観点では対照的だけど、視覚芸術という意味では似てもいる。ラティオスが世界を眼差す(=インプットする)者なのに対して、ラティアスは世界を模倣/創造する(=アウトプットする)者として対比で理解することもできるだろうし・・・。
それにしても、ラティアスちゃん(人間態)、かわいすぎるでしょ。(もちろん元のポケモンの姿もかわいいですけど。)
「喋らない」(けどグイグイくる)ヒロインの破壊力を思い知らされた。本作とは直接結びつかないとはいえ、そりゃあ障碍系ヒロインが人気を博すこともあるよなぁと納得してしまった。
ラティアスちゃんがヤバいのは、単に(人間の言葉を)喋らないだけじゃなくて、そもそもCVが付いていない……つまり鳴き声や息づかいさえも全く発声/発音しないところ。(ポケモン形態に戻ると普通に鳴き声を発するのも、人間態の異様さを引き立てていて良い。)
ちょっとした吐息すら「無い」ために明らかにヒトではない神秘性を帯びて、当人はそんなこと自覚せずに無邪気にサトシを誘っていくのが最高。
そうした、まるで口からまったく息が出入りしてないんじゃないかと思うような彼女が「キス」をするという結末は完璧。最強ヒロインはここにいた。
キスしたのはラティアスなのかカノンなのか判然としないのが良い、的な意見をよく見るけど、どう考えてもラティアスでしょ。桟橋まで息を切らせて走ってきて肩を上下させているのに、まったく呼吸の音がしないという描写がモロに答えなんじゃないの!? 喋らないだけならまだしも、息が上がっているにも関わらずまったく音を発しないのは人間には出来ない。だからカノンがラティアスのふりをしている、という線はない。
サトシ主観で「どっちか分からない」のが魅力、なら理解できるけど、鑑賞者の視点ではカノンじゃなくてラティアスだと伝わるように演出されてるじゃん……。
てか、サトシにはどっちか分かってないことから、ラティアスちゃんの「無音」性はあくまで映画として映されている限りでの文字通りの「演出」であって、作中現実では普通に呼吸音などを発している、と考えるのは面白いかもしれない。上記のゆめうつしメタ映画解釈とも繋げられるし。。
ラティアスちゃんのことめちゃくちゃ好きだけど、ラティオスとラティアスという2対の"伝説"ポケモンを登場させるにあたって、「兄妹」という、非常に人間的かつジェンダー保守的な関係の描写になっているのは勿体ないとも感じた。
「妹を守る兄」「兄を慕って健気に頑張る妹」という設定は、たしかに映画的でドラマチックで、物語にしやすい。それはわかるけど、なぁ…… まるで人間の兄妹のように感情移入しやすく、とっつきやすい性質と、何重もの意味で「伝説」であり「夢幻」を冠するポケモンとしての神秘性/理解不可能性のふたつを中途半端に両取りしようとして食い違っている気がする。
実質ヒトなのか、ヒトと隔絶しているのか、どっちなんだ。本作のような感動エンタメ性は薄れるかもだけど、後者一本で勝負してほしかった。
ただ、ラティオスが最期に地球を眺めながら宇宙へ漂って消えて正式に護り神になるのは、ヒトの枠に押し込められていたラティオスがその枠から解放されて真の伝説ポケモンとしての存在を取り戻す過程だと見なせばちょっと良いかも。(とはいえ、その過程こそがラティアスの兄/男としての「英雄的自己犠牲」という、非常に人間的・保守的な感動要素として描かれているのはたしかなので、やっぱりキツイかなあ……)
本作のラティオスとラティアスの兄妹関係を理解するうえで、それらを捕えようとする怪盗姉妹ザンナー&リオンの姉妹関係にも注目することは有意義だろう。怪盗側も男女の兄妹(あるいは姉弟)にしたほうが対照的で収まりがいいとは思うのだけど、なぜ敢えてここを女女にしたのかなぁ。
さらに言えば、この怪盗バディ姉妹との比較対象として、ムサシ&コジロウの女男バディの存在も浮かび上がってくる。
これら3組のペアが、絶妙な関係にあるんだよなぁ
さらには、エンドロールでラティアスのCVも林原めぐみさんだと判明する衝撃よ。(人間形態では発声してないハズなので、ポケモン形態時の鳴き声のCVだろう)
これで林原めぐみCVを介してムサシとラティアスが結びつくから、↑の3組の関係がさらに意味深というか奥深くなる。
ED前ラストシーンでラティオス2匹とラティアス1匹が空を飛ぶ描写はよくわからん。なぜラティオス2匹もいる? なにかの三者関係の暗喩なのか。
言い忘れてた。怪盗姉妹ふたりともCVが棒すぎてびっくりした。ここまで拙いと逆に癖になってくるのがズルいですねえ
【翌日追記2】
「ラティアスの体温は人間よりも有意に低い」という設定から、唇で触れられたサトシだけは、彼女がカノンだったのかラティアスだったのか分かっている、という解釈はいいなぁ。奇しくも自分の「サトシにはわかってないけど視聴者にはわかる」という読みとは正反対でおもしろい。
まぁ自分はラティアスだとしか思えない(「どっちだったのか」という問いを思い付きすらしなかった)からそこを曲げるつもりはないけど、この方の読みも取り入れるなら、「サトシは唇の温度で、視聴者は"無音"演出によって、あれがラティアスだとわかる」仕掛けになっている、という結論に落ち着く。
ベタ存在とメタ存在で判別手段が変わる(判別結果は同じ)という構造じたいが面白く、よく出来ている。触覚(温度感覚)と聴覚による感覚器官(インプットする媒体)間の情報差異でもあるし、逆に皮膚(とくに唇)と発声器官(肺・声帯・口腔など)という体器官(アウトプットする媒体)間の情報差異でもある。また、「温度の不在」と「音の不在」という意味では共通してもいる。