【3.5万字】アニメ『負けヒロインが多すぎる!』(2024)感想
2024年夏クールの覇権アニメ『負けヒロインが多すぎる!』全12話を観終えました。めずらしく、ぜんぶ観る前から↑途中までのnoteを投稿していましたが、このたび、1~12話の各話感想をすべてまとめて改めて投稿します。つまり、前半(6話まで)は上のふたつのnoteの内容と同じです。
基本的にはネガティブな感想を書いています。「私はなぜこれが嫌いか」を自己分析する "嫌い語り" がめちゃくちゃ好きなので、1話観るごとに筆が乗りに乗ってしまい、結果、めちゃくちゃ長くなりました。35,000字あります。覚悟してください。(すでに6話までの感想noteを読まれた方は、目次から7話感想に飛んで下さい)
なお、書いている内容は、まとめれば
・わたしはハーレムものが嫌いだ
・わたしは岡田麿里作品が好きだ
の二点に尽きます。これを、手を変え品を変え(ときには変えずに)、ダラダラと語っているに過ぎません。覚悟してください。
究極的には「ハーレムものが嫌いなのでこの作品は合わない」というだけの話です。……嫌なら観なきゃいい?──「嫌い」語りがいちばん好きだって言っただろうが!!!
それでは、以上にご了解いただいた方のみ、以下お読みください……
原作未読
まえがき──わたしと「負けヒロイン」
じぶんは、いわゆる巷で言われるところの「負けヒロイン」キャラクターがめっちゃ好みである。『あの夏で待ってる』の谷川柑菜、『ダーリンインザフランキス』のイチゴ……
↑(「負けヒロイン」という語がここまで人口に膾炙する以前に書かれた思い出深い記事。当時これを読んで「やっぱり自分のような好みは凡庸なんだなぁ」と思ったものだった)
そういう嗜好の2次元オタクなので、わたしもこれまでnoteや各所で「負けヒロイン」という語を何の留保もなく使ってきたことは間違いない。
(あれ……? 「負けヒロイン」へのこだわりが強くて逆に安易に乗らない姿勢を前から取っているぞ……)
「負けヒロイン」という語が市民権をあるていど得てきた頃からだろうか、その逆張りとして、あるいはフェミニズム思想への接近・受容によって、現在のじぶんは、もはやこの語を何の留保もなく使うことはできない。(ので、本文章では「負けヒロイン」は必ずこのように括弧にくくって表記している)
ここ数年わたしは「負けヒロイン」に代わる語を考え続けており、「失恋キャラ」「片想いキャラ」あたりがまぁ無難であろうと思うのだが、まだ自分のなかでこれだ!という答えは出ていない。
(『ちはやふる』の真島太一がこの系統でもっとも好きなキャラクターのひとりなので、女性キャラ(「ヒロイン」)に限りたくない、というのが大前提にある。また、乙女ゲームっぽい構造のオリジナルアニメ映画『キミだけにモテたいんだ。』の感想では対義語として「負けイケメン」という単語を敢えて創作したが、それ以降ほとんど使う機会がない……)
というわけで「負けヒロイン」には並々ならぬ執着?面倒くさい感情?がありつつも、そこからとっとと脱却したいと思っている一介のオタクがアニメ『負けヒロインが多すぎる!』を観たらどうなるのか………… を、以下書きました。
7/25(木)
1話
うおおおお なんだこの美術と絵コンテ/演出!? 草薙の安心感
A-1 Picturesかぁ…… 『リコリス・リコイル』といい、最近のA-1はほんとすごいなぁ 撮影が凄いのか
学校空間の描き方に相当気合の入りようを感じるので、こちらも襟を正して観ざるを得ない。
てらまっとさんの言う通り、はじめのシーンが校内ではなくファミレスなのは注目すべきだろう。クラスメイトの八奈見杏菜と「目が合」ったのは、斜めで席が向かい合っているファミレスの席配置が可能にしたことであり、教室では起こりにくい。休み時間ならまぁ可能だけど、ここでは校外であることが重要。
(ただ、第1話冒頭からファミレスで女性キャラがフラれるTVアニメといえば1年前の『山田くんとLv999の恋をする』がすぐ思い浮かんでしまいはする……あれは素晴らしいアニメだった……)
女性キャラを男主人公が「負けヒロイン」だと初めて呼称するとき、「こいつ」という語も伴っているのが、「負けヒロイン」という言葉を使う者の心理をうまく表しているようで良い。実在の相手を「おもしろい」フィクショナルな戯画のなかの人物だということにする、侮蔑性と優越性と特権性と暴力性に基づいたひどくミソジニーなワードなので。
今のところいわゆる「おもしれー女」(これ自体ほんらいミソジニストの語彙だ)として八奈見さんは造形されているという印象で、「負けヒロイン」感は全然ない。メタ「負けヒロイン」をやるとベタなほうとは正反対になることをよく示している。あるいは、「負けヒロイン」性はそのベタさ、コミカルにならない切実さにあるのかもしれない。
「負けヒロイン」に関して自覚的なメタをやることで、その概念の批評を試みているのだろう。好ましく見れるかは分からないが、一定の意義はありそう。
ただ、ヒロインを「おもしれー女」そのものとしてコメディチックに描き、「冷静」な男主人公がそれを "客観的" にまなざして描写してツッコミを入れて……というボケ/ツッコミの非対称な構図はめちゃくちゃ父権的・女性蔑視的でキツい。ラノベのこういうところが嫌いなんだよな〜と、まったくラノベを読まない者からすると粗雑に判断してしまう。
それとも地続きな問題として、『冴えカノ』とかでも感じたが、フィクション内の人物が、当人にとって実在する他者に対して「ヒロイン」等の言葉を使う描写がほんとうに嫌い。こういうのってラノベ特有なのかな。エロゲではあんまり見ないような。
(エロゲは本当にヒロイン毎に√に分かれているので、作中で「ヒロイン」とメタ言及してしまうとあまりに身も蓋もなくなってしまうから? 一方で現代ラノベの一部には丸戸史明の存在などを考えるにエロゲメタを志向するものがあるようで、その立場では積極的に「ヒロイン」呼びをするのだろう)
たほう、八奈見さんは男主人公以外の男子に想いを寄せていた、ということを開始早々に見せつけてくれた(その事実の方が即振られたことよりも重要である)ので、彼氏持ちヒロイン好きのじぶんの琴線には触れている。想い人がいただけでも良い。
ここからどうなるのか。
「負けヒロイン」といっても、男主人公にフラれたわけではなく、モブっぽいクラスの男子の幼馴染としてそいつにフラれている。もしもここから八奈見と男主人公が急接近して想いを寄せるようになったら、彼にとって八奈見さんはむしろ「負けヒロイン」の対極の属性をもつヒロインなのではないか? じっさい、タイトル的にも八奈見さんがメインヒロインっぽい。幼馴染原理主義者としては「ドラマチックで運命的な出会いや急接近イベントが作中でいっさい描かれない」ことが重要で、それは自分のなかの(使いたくない言葉だが)「負けヒロイン」観にもある程度合致する。
というか、そもそも1話サブタイトルの「プロ幼馴染」という語からしてアレだよなぁ……「清楚系AV女優」みたいな自家撞着ワード。「プロ」の時点でもうそれは「幼馴染」ではない。アマチュア性が大事。「養殖」じゃあダメ。
つまり、「負けヒロイン」かどうかはヒロイン個人のもつ属性傾向ではなくて、「誰にとっての」 "負けヒロイン" かという、視点人物=物語のパースペクティブに根本的に依存している性質なのだろう。
男主人公がファミレスで「第三者」としてクラスの男子と女子の告白や失恋(をコメディチックに誇張したもの)を目撃する構図はそのまま、フィクションのなかのキャラクター達の恋愛劇を作りものとして鑑賞し、作中の失恋者に「負け」というレッテルを貼る(=暗黙理に恋愛劇を勝敗のあるレースかバトルだとみなす)特権的な部外者である読者/視聴者の立ち振る舞いと同型である。
つまり、ある人物を「負けヒロイン」と呼ぶことができるのは、彼女に対して特権的な立場にある者に限る。本当に研究の対象とすべきは「負けヒロイン」ではなく、「負けヒロイン」という言葉を用いている人々──自らが対象化されるなどとは微塵も思っていない人々──であろう。
これはもちろん、例えば「売女」のような直球の性差別語で呼ばれる女性たちの分析ばかりをするのではなく、そうした差別用語を用いる人々(男たち)が、それによって何を温存し強化しようとしているか、を分析の対象とすべきである…… と次第に明らかにしていった第二波フェミニズム(であってる?)の成果を汲んだ主張である。
以上を踏まえると、はじめ、画面のこちら側の「われわれ」視聴者のように、作中の人物に対して「負けヒロイン」とか暴力的にラベリングして無自覚な特権性を享受・謳歌していた男主人公(まだ名前覚えてなくてごめん)が、自らがそう定義した「負けヒロイン」たちと交流して仲を深めていくことで、その暴力性・特権性を自覚して解体していくハナシ……だったらいいな♪
ヒロインの言動(ファミレスでいっぱい注文して食べる)に対して「サラダに対する信頼感……」などと、男主人公がボソッと(自己完結的に)ツッコむのが、ニコ動のコメント(のノリをリアルの対人関係に持ち込んでしまう人)みたいでキツい。典型的なネット民。相手に聞こえなくてもいいと思って言ってそう。
ニコ動やネット上での「コメント」や、それこそ漫才の「ツッコミ」なんかがモロにそうだけれど、これらは目の前の相手に向けたものというよりも、それを客観的に傍観している匿名の「客」に向けて同意を求めるパフォーマンスとしての面が強い。漫才を聴いている客たちがいるからツッコミはツッコミとして成立するし、インターネット空間もそう。自分と同質な「誰か」が見ていることを前提とした、毛づくろい的な行為。そのとき、そもそもの発端となった言動をした相手(ボケ役=八奈見さん)は強烈に客体化・対象化される。客体化するためにこそツッコミをするともいえるだろう。
うおおおお 「これから毎日お弁当作ってくるね」イベントじゃん!! これぞ女性に家事労働を押し付ける家父長制の構造……! テンション上がってきた。八奈見さんがファミレスでお金を払わなかったのが悪い、とあくまでヒロイン側の罪滅ぼしのために、 "自発的" にそういう流れに持っていかせるのが本当にキツいですね。
幽閉部員だった文芸部に招集される。
吃りながら必死で喋るヒロインに対して、マイペースに「う〜ん……たしかにそうだったような……」と首を傾げながら思案する温水くん(名前覚えた)、ほんとうに目の前の相手に向き合っておらず、徹底して画面越しのコンテンツかのように接しているのが厳しいですね。。 アニメ鑑賞中の自分の姿を見せられているようで……(だからこそベタ/メタの次元は重要。自分と同じ位相の存在にまでメタに立って接するのは端的に失礼極まりない奴だ)
太宰と三島…… まぁこういうトーンの物語でのチョイスとしてはそんなに間違ってない気が。
「BL」を「ネタ」として使う直球のホモフォビア! なるほど、「負けヒロイン」消費がされる青春恋愛モノに強く深く内面化されているヘテロ至上主義という規範を自覚的に体現しなから炙り出そうという魂胆か。やるなぁ(白目)
今後、百合やBLの同性愛要素が(バカにされることなく)出てくるのかどうかが見ものだな。
なんだこのいもうと!? マジでいるんかい
ヒロインに金を借りる(貸しをつくる)描写は性癖だけど、金を貸すのは……うーん…… でも『海がきこえる』は大好きだしなぁ……
八奈見さんの造形、いわゆる「負けヒロイン」の「湿っぽさ」を徹底的に戯画化してネタにしているので、やっぱりぜんぜん「負けヒロイン」ではないというか、「負けヒロイン」を馬鹿にするな!!!と叫びそうになる。いや、「負けヒロイン」という語への執着じたいをわたしはもう捨てたいのだけれど…… これを観てると、「そっち側」であることを思い知らされるというか引き戻されるというか…… 巧妙だなぁ
てかマジでなんなんだよその胸元の縦4連リボン!? 学年別カラーとかじゃなくて一人ひとり違ってるし…… 校則で制服の一部として指定されてるの?
安部公房生誕100年記念アニメ!?
あー…… なるほど、つまりこれは、各所の三角関係で失恋した「負けヒロイン」たちを、温水くんが籠絡しまくってごっそり囲い込んでハーレムを築く話か。最悪だ〜〜
・「幼馴染」とジェンダー/セクシズム
うわっ 八奈見さん自身が「幼馴染/泥棒猫」論を語り出した…… 「プロ幼馴染」ってそういう意味!? 「幼馴染」に一家言ある「幼馴染(概念)警察」みたいなこと?
「泥棒猫」はまさに「売女」と同種の女性差別用語なのに、それをこうして女性キャラに率先して言わせるこの作品が……憎い!!!
なぁ〜にが「知ってる? 女の子は2種類に分けられるんだよ」だ! なにが「極端な分類だね」だ!! 分けられる=分析されるのはいつも「女の子」で、その分断をつくっている真の主体であるところの「男」の存在は隠蔽される。今のところ、むしろ温水くんこそが「泥棒猫」ならぬ「泥棒男」だと思うんですけど……。
「幼馴染」はほんらいジェンダー対称というかジェンダーレスな単語のはずなのに、このようにあたかも「女の子」のみに付属する属性かのように語られるのもマジで酷い。自分のなかで「幼馴染」とは、ある種の二者(以上の)関係に当てはまる属性であって、けっして個人の属性ではない。本当は「(ある男にとっての)幼馴染の女の子」という話なのに、カッコ内が省略・隠蔽されて、しかもこの発言を男キャラではなく女キャラに言わせることで二重に男性を無徴化していて許せない。
「負けヒロイン」とはあくまで特定の「誰かにとって」の属性であるのに、それをキャラ個人のものだと偽装している…という上記のことと同じ。
でも冷静に考えると、たしかに現実での「負けヒロイン」という単語の使われ方は関係主義的ではなくて、キャラ個人の属性として受容されて消費されているよなぁ。そういう点を見事にフィクション内に持ち込んで描いていると評価すべきか。
すなわち、本来は「振った者/振られた者」という二者関係の後者が「負けヒロイン」と名指され、その性質は前者の振った者(多くの場合は男主人公)ありきの概念だったはずだが、その男主人公の視点を(視聴者が)全面化=内面化することにより、その物語/作品内でその女性キャラは普遍的に「負けヒロイン」である、と見なしている構造がある……「負けヒロイン」という語の使われ方には。
ひじょ〜に勉強になります、はい。
1話おわり!!
ハァ〜〜(クソデカため息)
ようするに、失恋して傷心状態の少女(「負けヒロイン」)たちとひょんなことからお近づきになって手篭めにしていくハナシでしょ? 解散!!
「負けヒロイン」の涙を(その事情に直接は関係ない)男主人公だけが観測することで魅力的に描こうとする方針がほんとうに解釈違いです。「負けヒロイン」の涙は決してそんなものではない。
……でも、温水くんという男主人公がようは「われわれ」視聴者の暗喩であると解釈すれば、ぜんぶ整合はするんだよな。これまで「われわれ」は、失恋して人知れず涙を流す女性キャラたちを「観測」して「負けヒロイン」として消費してきたんだから。
それでも、わたしは温水くんという男主人公と視聴者(じぶん)を同一視するべきではない、絶対にそれはできないと思うし、そうしてしまったら、何か根本的なところが変容していると感じる。
八奈見さんが温水くんのほうを向いて笑うのがイヤなのかな。男主人公に見られていることを意識してほしくないというか…。
(これは、エロゲでじぶんが「プレイヤー≠主人公」派であることとも関連していると思う。「主人公」キャラだってあくまで物語の登場人物のひとりだという価値観のもと、そいつをプレイヤーの立場から客観的に好きだ嫌いだジャッジしまくりながら楽しんでいます)
冒頭と最後でリフレインされる温水くんのモノローグも理解できない。「高校生カップルが在学中に別れる割合は7割だ」「でももし僕の前に「負けヒロイン」が現れたらどうするだろう」云々…… そもそも「負けヒロイン」の話をしようとしている筈なのに、付き合った(「勝った」)人々の話から始めているのも前提がチグハグで引っかかるし、その文脈だったら、お前も思い切り恋愛してフラれる側になるべきでは?となる。なんで「負けヒロイン」と運命の出会いを果たしてイチャイチャ交流する側になるんだよ。それはまだ全然、王道の「青春」(=恋愛で上手くいかないこと)に参画してないじゃないか。
温水くんが最終的に、「……俺自身が「負けヒロイン」になることだ──」と覚醒してくれたら神アニメ。
「ラノベの主人公」という言い回しもほんとうに最悪。女性主人公モノのラノベの存在を無視するな!!!
(なお、偉そうにいいつつ私は女性主人公ラノベを人生で1冊も読んだことがありません。いや、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』をラノベに含めるなら1冊か……)
ひとつ興味深かったのは、八奈見さんが失恋を自覚して涙を流すきっかけが、校庭で走る同じく「幼馴染負けヒロイン」の檸檬ちゃんを屋上から見かけたことである点。ここからは、温水くんのようなマジでキショい「男主人公」に都合の良い磁場ではなくて、男たちから「負けヒロイン」などとラベリングされて徹底的に異化されて対象化されてきた女性キャラクター同士の連帯(シスターフッド)の可能性がたしかに示唆されていて、わずかながら希望が持てる。
しかし、『100カノ』とかにも顕著だけど、男主人公のハーレムラブコメにおいて、同じ男主人公に恋するヒロイン同士の絆──的な要素は、昨今の(シスヘテロ男性オタクにとって都合の良い)百合ブームを安易に利用した手段のひとつであり、同性愛を称揚するのではなくむしろ異性愛規範を強化する(ために恋愛"未満"の「百合」が搾取される)ものではないか?と懐疑的になる節もある。まぁ、「ヘテロ百合」が好きとか言ってる自分が言えたもんじゃないですけど…… ヘテロ百合三角関係は大好きだが、ヘテロ百合ハーレムは大嫌いってことかな。
うお~~~ エンディングいいねぇ パンクロック? いい曲
実写+手描きアニメーション加工のMVもすげぇハイセンスだ。。
舞台のモデルは愛知県豊橋市なんだ。
北村翔太郎さん本作が初監督か。
マジで映像のセンスと技術はすごすぎる…………
2話
2話は焼塩檸檬ちゃん回か(なんだこのネーミング……) たしかCVが若山詩音さんだったよな。われら岡田麿里のオタクからすれば『空の青さを知る人よ』のあおい役としてお世話になった。。(彼女もほんとうに良い「失恋キャラ」だったなぁ…… あっネタバレごめんなさい💦)
健康的に日焼けしたスポーティな「負けヒロイン」の檸檬さん、なんか既視感あるなぁと思ったらあれだ、『秒速』2章「コスモナウト」のあの子じゃん!! ぜったい意識してるよな~~
おそらく各ヒロイン、複数の「負けヒロイン」をモデルとして混ぜ合わせているのだろう。それでいうと八奈見杏菜さんは、髪色も名前も完全に『なつまち』の谷川杏菜モチーフだよね。
オープニング映像もすごいなぁ…… めちゃくちゃポップでハイセンスだ。
ネクライトーキー「つよがるガール」 このへんは全然詳しくないけど、石風呂さんで「○○ガール」といえば「ゆるふわ樹海ガール」などのボカロ楽曲も連想される。「負けヒロイン」概念を持て囃す層はたしかにボカロファンとも共通してそう(ド偏見)
なんだこれ…… 冷却スプレープレイ ふつーに上裸になっとるし
想定よりもずっと性欲がド直球で包み隠さないな…… 映像がめっちゃカッコつけてるうえで、こういうコテコテの古めかしいエロ展開をされるとどう受け取っていいやら。性欲ありませんみたいな顔されるのが最悪だから、こういう方向性は歓迎すべきかもしれない
えっ!? 保健室の先生と担任の先生(この学校の同級生)は同性愛者で付き合ってるってこと? ふたりでよく保健室に来てたって……。それをわれらが差別主義者の温水くんは「この人頭おかしい」と一蹴。いやたしかに生徒にそんなこと気軽に話すのはヤバいが。
ともかく、このふたり二次創作人気すごそう(小並感
オムライスにホワイトソース追加で査定額アップ! ……こいつら楽しそうだな
「ぬっくん」とか呼ばれてるし檸檬と温水クンってもともと知り合いなのか。「幼馴染」ではないよな
この作品の男子はどいつもこいつも頭大丈夫か。とにかく人前で惚気まくる。
ギャグのテイストが基本的に合わないなぁと感じる
新潮社の『安部公房全作品』だ……ちょうどこないだ8巻を少し読んだやつ
三島と太宰の順番ってどういうことだろう ・・・あっ、受け攻めの話か………… 文芸部絡みではずっと「BL」を差別的にネタにしているなぁ。保健室で「レズビアン」をネタにするように……。
妹(かじゅ)との会話も何もかもキツイ 豊橋って路面電車あるんだ
!!!
男性キャラが(年下の)女性キャラの頭を撫でる描写 ー100000000点
そして撫でられて「赤面」する描写 追加で ー1000000000000点
ここはさすがに撫でる手を払いのけた先輩グッジョブ
はぁ!?!? 素で声が出てしまった。なぁにが「やっぱり小鞠ちゃんかわいいなぁ。コトも少しは見習えよ」だよ!! マジで酷すぎる。価値観どうなってんだ。こんな奴を恋愛で取り合うのも、失恋して「負けヒロイン」になるのも、心底下らな過ぎてどうでもよくなってしまうレベル。
八奈見さんは自身の恋愛の境遇から、「幼馴染」属性の他人に甘く、「泥棒猫」属性の他人に厳しいのか。そして、八奈見さんと小鞠さんでは、同じ「負けヒロイン」でも、「幼馴染/泥棒猫」の関係が逆になっている、と。(マジで「泥棒猫」って言葉を作中に倣って使いたくなさすぎるな……代替語を考案せねば)
八奈見さんは1話ラストの屋上シーンでも泣きながらなんかパンみたいなの食ってたし、文芸部でもポッキー咥えてるし、食いしん坊キャラのなかでも細長いものが好きなのかな。のっぽパン厨の花丸ちゃんのように……
この白髪眼鏡男子は「鈍感系キャラ」だとかそういう「コメディ」に昇華できないほど酷いよ。二度と出てくるなよ
にしても、男子勢3人はラインで繋がっていたようだし、ここから何かひっくり返しがあるのか
!? 保健室の先生……なにしてるのこの人………… 温水くんではなく、こちらが恋愛群像劇を愉しむ視聴者のメタファーなのか?
しかし、1話ラストでも女性キャラ同士の関係が示唆されたように、この2話のクライマックスも(今度は「男主人公」抜きで!)保健室の先生が焼塩檸檬さんを「目撃」して教師として(?)背中を押す展開が描かれた。なんなんだろうな。ここの要素だけに賭けて、なんとか観るモチベを保っている。その意味では上手いんだろうなぁ脚本が。
えーと、今のところ、温水くんのハーレムになるのかは分からない…… むしろ、各ヒロインを温水くんがちゃんと好きになったうえで、それぞれが最初からの「好き」を手放さなければ……あら不思議! ものの見事に、温水くんが最低3回はフラれる「負けヒロイン」ならぬ「負け男主人公」になることができる!
ハーレムの逆、総攻め総フラれ(全敗)モノ…… そうだったらかなり性癖に刺さると思う。3回もフラれてくれるなんて……どこの小木曽雪菜ですか?? 期待してしまってもいいんですか?? 温水くんがそうなってくれたら、マジでちゃんと「青春」してるよ。これ以上ないくらい青春してるよ、と胴上げしてあげたい。
ポリアモリー的なラブコメって最近だと『100カノ』が強いけど、ハーレムではなく(男主人公が)対照的に「全敗」するんだったらマジで革命的だ。信じてるぞ……温水和彦…………
そうはならずに、失恋したヒロイン達が「転向」して温水くんへと恋愛感情を募らせるようなことになったら最悪だ。どうだろう。まだ読めないな。
あれっ ひょっとして・・・・・・わたし、このアニメをけっこう楽しんでる!?
2話までみた暫定では、全キャラ特に好きにはなれない。男性陣は勿論、女性陣も……。
し、コメディのノリも全然合わない。何もかもがノットフォーミー。
映像の質は高いけど、おはなしが合わなすぎて、大したものに思えなくなってきている。手垢のついた「エモ」を高水準でなぞっているだけでは?感がある。青春アニメ好きとして、こういうのは逆に認めたくない……という偏屈でしょうもないプライドががが。
わたしの好きな片想い/失恋キャラたち……
真島太一……
小木曾雪菜……
夏海里伽子……
真島太一……
森園わかな……
仁藤菜月……
やっぱり、真に「負けヒロイン」(なんていう生温い概念では収まらない「失恋」の真価)を追求しているのは岡田麿里だと思うの
あと、「幼馴染ヒロイン」と「負けヒロイン」はしばしば重なる属性だと捉えられがちですが、それこそ岡田麿里作品などの分析に基づいて、じぶんのなかで両者の違いをあぶり出したいですね。己の内でいずれの属性が優先されるのか。どんな関係にあるのか。
8/7(水)
3話
小鞠さん、どもり気味で、スマホのメモ帳を相手に提示して意見を主張するのとか、コミカルでアニメアニメしい動作(これは全キャラそうだが)とか、『ここさけ』の成瀬順を思い出すな……。「負けヒロイン」の先輩
太宰の異世界転移モノって今期ちょうどあったよな……『異世界失格』
焼塩檸檬さんの日焼け水着姿えっちすぎる~~~ いちばん好き
……リア充がイチャイチャワイワイしとるだけや~~ん!!
ただ、映像・演出の質はすばらしい。温水くんのデフォルメ作画もすごく魅力的
なんというか、好きにはなれないけど、そんなに目の敵にして嫌うほどでもなく、そういうもの(ラブ・コメディ)としてあるていど楽しめるような気はしてきた。
そこで告白できるの凄いなぁ小鞠さん。
4話
これでメイン3人が全員ちゃんと振られて、ようやく「本編」開始。これまで傍観者だった温水じしんの恋物語がはじまる…………と思ったら、なんかまた八奈見さんの好きなクソ男がクソムーブをしに現れて、温水くんと八奈見さんの仲が回復、そして「友達」になる────って、これはラブコメとして長期的に延命するための舞台が整っただけじゃねぇか!!
「友達」として今後、おそらく八奈見さん以外の2人ともイチャイチャ楽しく過ごすんだろ?? ハーレムものであることは変わりがない。
いろんな女の子たちとイチャイチャ付き合いたいというハーレム願望と、恋人はひとりであるべきだという貞操規範の折衷案としての、いろんな女の子たちと「友達」として付き合って楽しい学生生活を送りたい/送る、という落としどころ。なにか変わっているようで、その実なにも変わっていないのではないか。それでいいのだと開き直っているのかもしれないが。。
まるで「恋愛」の「告白」のように「友達になってください」とお願いする行為は、告白という恋愛規範の歪さを、そこから友情にズラすことで浮かび上がらせるバトラー的なクィア・パフォーマンスとしても見れる気はした。
八奈見さんの「アタシに告白してもいいよ? 振ってあげるから」的な言動はものすごく刺さる……んだけど、八奈見さん自身のそうした振る舞いを全面的に好きになれるかはまだ分からない。よく練られた、計算されたキャラ造形だとは思うが……。
温水くんのポジション、存在、振る舞いがものすごく重要で、彼を認められなければこの作品は好きになりようがない。「負けヒロイン」を主題に掲げる以上、彼がヒロインたちとの恋愛関係にきちんと参入してドラマをやってほしい。そうでなければ、単にそれぞれで失恋している女子たちに都合よく絶妙な関係を結んで彼女らのおいしく消費できるところを総取りするだけの、いけ好かない野郎になってしまう。小鞠さんの「泣くからどっか行って」のように。
どうなんだろう、女性側が温水くんを早く好きになるべきなのか、温水くんが早く彼女たちを恋愛的に好きになるべきなのか。もうそれらが始まっているとも取れるし…………
恋愛至上主義に陥らないことが難しい。でもわたしが悪いんじゃなくて、そもそもこの作品がそういうものを提示してきてるからしょうがないよね? こっちが悪い??
8/13(火)
5話
給料がそうめんって何!?!? 「末端価格30万」とあっさりお父様の給料が開示されてるのも泣きっ面に蜂
部室の大量のダンボール草 まったく触れずに進めるトーンでまっとうにコメディをやっている
なんかな~~~ やっぱりこの作品は基本的にいわゆる「おもしれー女」的なヒロインをたくさん散りばめて、女性ボケ/男性(主人公)ツッコミの構図を敷いているのが本当に合わないな。「負けヒロイン」を戯画化・客体化しまくっている。
逆にいえば、自分にとってのそれ("負けヒロイン")は客体化ではなく強烈に自己同一化できる存在なのだろう。「わたし、小木曽雪菜だ・・・」みたいな。むろん、八奈見さんらも切実な姿を見せてそういう風な魅力を発揮する場面は多々あるのだろうけど、普段の様子がこれだと、それは単なるギャップ萌えではないか?と思ったり。。
あとは、やはり温水くんの設定・描き方だよなぁ だいたいは「ヒロイン」達の言動に冷静にツッコむ役割を負わされていて厳しい。
逆に「温水=ボケ/ヒロイン=ツッコミ」の場面ってあったっけか。観返さないと分からないけど、基本的には温水くんが「ボケ」に回るのはエロハプニングとか性欲関連であり、「おもしれー男」とは名指されない。
(そもそも「おもしれー女」という言い回しが成立するのに「おもしれー男」とはほぼ言われないこと自体が女性性の有徴化と男性性の無徴化という性差別の産物であり、それにくわえて(無徴化/権威化された「男性」から)「おもしれー」とレッテルを貼られる女性の言動や性格のチョイスもまた極めて歪んでいる。翻せば「「おもしれー女」とは思わない女」が一般的であるという規範意識の押し付けがあることも事実であり、三重・四重くらいに酷いフレーズである) ←作中で一度も出てきてないフレーズでこれだけ作品を批判した気になっているのすごい・・・・
小鞠さんと焼塩さんがマジで一緒に走って仲良くなってるの良いな おぶって帰ることもあるんですってよ!
ぬっくん「あのリボン、ああやって着けるのか……」
視聴者ぼく「あのリボン、作中でも「あのリボン」として認識されてるのか………」
八奈見さんもだし、妹のかじゅもそうなんだよな~~ 温水くんがツッコむことで成立するキャラクター造形、という感じが嫌。
お、さっそく温水を戯画化=「ボケ」とするシーンが来た! 「女子とデート」の興奮で顔の画風が変わるだけでなく、路面電車が火花を散らしながら爆走する演出はセンス良いなぁ。映画『傷物語 Ⅰ〈鉄血篇〉』序盤のエロ本を買いに行く阿良々木くんを思い出す。
ただ、男主人公を「ボケ」としても、それに誰か(女子らが)冷静にツッコむことがなくて惜しい! むしろ、続く八奈見さんの「世界なんて、滅べばいい」でやっぱり「ヒロイン」をボケに回して温水くんが「よし!これはデートじゃない!」と、自嘲気味に笑い飛ばすことでまたツッコミに回っている。
あ、失恋した側だけでなく、成就した側の(男子と付き合っている)ヒロインも同じようにツッコミどころ満載な造形で描くわけね(朝雲さん)。
なるほど~つまり本作のヒロインのおもしろさ(ボケキャラ感)は「負けヒロイン」性とは何の関係もなく※、むしろ「女性性」というか「ヒロイン」性である、ということか。まぁ確かに「ヒロイン」という語の時点で陰に陽に、男性目線での客体化・戯画化という暴力性が内在しているので妥当だが…………。
※「何の関係もなく」と言っちゃったけど、ここで朝雲千早は彼氏の浮気を疑って暴走しているわけで、「失恋」そのものでなくとも、それを予感させる危機的な状況にいる「ヒロイン」をコミカルに描いている感じはある。
お~~~ またもや温水くんが冷静にツッコまれる側のシーン! 自室に飾ってある美少女百合タペストリーをクラスの女子に見られていたたまれなくなる男子の愚かさをコメディとして描く。やはり性欲・エロス関係ですね、温水くんがツッコまれる側に回るのは。
とはいえ、ここで八奈見さんは温水くんの「変さ」を笑ってやろう、ツッコんでやろう、という意識はなくて、あくまで無知で素朴な非オタク女子の(タペストリーに対する)ツッコミをしているだけなのは押さえるべきだろう。かつ、そうした温水くん(のようなヘテロ男性オタク文化)にあるていど理解のある女性として朝雲さんやかじゅを配置し、彼女らのいちおう温水を庇うような発言によって余計に温水の愚かさが露呈されて追い詰めていく、という一連のコメディの流れがかなり秀逸だと思う。
やっぱコメディとしてかなり上等なものではあるんだよな。質の高いラブ・コメディであるがゆえに、「ラブコメ」ジャンルに内在する本質的な男性中心主義・女性差別性にますます嫌気がさしてしまうだけで。
ともかく、温水くんが他人からいじられてツッコまれる場面と、女性キャラ(「ヒロイン」)が温水くんから冷静にツッコまれる場面では、単に反転しているのではなく、明らかに差異があって、その差異の内容を細かく分析することが重要なのだと思う。「(われわれオタクの)男って結局こうだよね」という自虐風の性欲誇示のお笑いと、「いやこんな女が現実にいたら変すぎる」という規範の押しつけお笑いあるいは「女って結局こうだよね」という偏見の押し付けお笑いの違い。
……いや、そうなのか? 結局これはこう語っているわたし自身のポジションと偏見を開陳しているだけなのでは?? 「女性」が見て、本作の女性キャラ達の言動とその扱われ方にどういう印象を抱くのか非常に気になるが、視聴者の属性をあんまり持ち込みたくない……いやでも先述の通り「ラノベ」かつ「ラブコメ」として本作は明らかにターゲット層を絞って成功/成立している作品だから構わないのか?
お~~~ 八奈見さんの分類でいうところの「泥棒猫」側、すなわち非-幼馴染の女性キャラにも三角関係における失恋の葛藤、つまり「負けヒロイン」みを付与するってことか。『負けヒロインが多すぎる!』ってそういうことね。この時点で3人じゃなくて6人に増えた。
恋愛の「勝者」側にもこうした苦悩をさせる描写って珍しいだろうか、それともありふれているだろうか。「幼馴染-負けヒロイン」と対になるところの「泥棒猫-勝ちヒロイン」の葛藤心理描写の存在について。『ダリフラ』のゼロツーや、『なつまち』の貴月イチカなど…… 観返さないと忘れてるけど、こういういわゆる「メインヒロイン」達って三角関係とは別に大きな運命的な物語を背負っていることが多く、彼女らの苦悩描写の大半はそっちに費やされるのが一般的だという印象がある。
その点『WA2』は勝ち負けがつねに反転し併存する分岐式ノベルゲームなのでどちらの「ヒロイン」にも好きなだけそういう葛藤を与えられるし、そもそも分岐のない一本道の序章の時点で、どちらもが相手(恋の同性ライバル)のことを思いやって譲っていくような、勝っているのに負けているようなムーブをしまくってしまうことで泥沼化が始まってゆくので・・・・・・最悪で最高ってこと!(いつもの結論)
本作も少しでもそういう感じになったら嬉しい……そうだと期待させてくれるものはある。
5話おわり! なるほど……これは…………おもしろいかも!! 人間模様が交錯する群像コメディとして単純に続きが気になるし、一定のおもしろさは認めざるを得ない。
(続き次第で解消されることを期待する)現時点での不満点というか要望は、まず第一に、2人の女子から好意を持たれているモテ男(少なくとも3人いる)の自意識もあるていどしっかり描いてほしい、ここまで来たら! 朝雲千早のポジションのキャラもあるていど切実に魅力的に(≒「負けヒロイン」風に)描くのであれば、とうぜん同ポジションの他2人もそうしてほしいし(古都センパイはすでにやっていた気がする)、三角関係のさいごの一角であるモテ男3人も「は?なんだこいつ」と思ったままで終わらせないでほしい。八奈見さんをフった男については前話でちょっと描いていたけどまだまだ不十分。
でも、モテ男はどうあがいても「負けヒロイン」性は出せないのでは? 彼自身が失恋の可能性に触れない限り。というか、たぶん、男キャラで仮にそういう魅力を出せるとしても「誰得?あくまでこれはヘテロ男性向けのラノベ/ラブコメであり、「負けヒロイン」を掲げる作品だから……」と、敢えてやらない気もする。わたしが本作を見くびっているだけかな。女がフラれるさまは見てて気持ちいいが男がフラれるさまなんて見れたもんじゃねえ、という色んな意味での性差別意識を根底に透かし見てしまう……これは完全にわたしの暴走・妄想です、はい。
わたしは真島太一のような「男の負けヒロイン」キャラも大好物だから、そっちに行ってくれると非常に嬉しい。既存の女男女の三角関係の内部でそれをやるのは不可能ではないが難しそうなので、他の三角関係に属する女性キャラにモテ男が矢印を伸ばして失恋するのはどうでしょう。さすがにややこしくなりすぎて自分のようなN角関係厨しか喜ばない気もするが、3×3の九角関係モノ、見たいな~~~~
つまり、例えば、焼塩さんと朝雲さんの2人から好意を寄せられている綾野くんが、実は八奈見さんを好きだったり…………(ここで失恋しているほうの女子を選ぶのがミソ)(でも綾野くんは朝雲さんが好きなんだよね?残念!)
ともかく、綾野くんのようなモテ男ポジションの男子キャラを舞台装置として形骸的に描くのではなく、女子キャラにあるていど肉薄するくらいにはしっかり魅力的に見せようとしてほしい。結果的にこちら側が好きになれなくても、魅力的に見せようという姿勢が感じられるだけでもいいから。(←クソ偉そうでワロタ)
あとは…… 3×3角関係の外側かつ絶妙な位置にいる男子主人公の温水くんの扱いですよね。温水くんに失恋させたり、そこまでいかなくとも失恋の可能性を与えたりするのか、そこがポイントだ。
前話で、あくまで温水くんは八奈見さん達とは「友達」でありたいから恋愛には参入しません、「負け」も「勝ち」もありません、ということになったのだとしたら、やはり本作は、女性キャラを手あたり次第「負けヒロイン」化しまくって、男性キャラはモテ男として「勝つ」か温水くんのように勝ち負けの「外」に身を置かせるか……という、きわめて性別二元論的な、男女キャラに関して対照的な扱いをするハナシということになってしまい、認めがたい。とはいえ、現段階ですでに、そういう構造のままに群像劇のおもしろさで持っていかれかけているので、どうなることやら。
温水くんが八奈見さんとか誰かを好きになって失恋してくれたらいちばん良いけど、そうではなく温水くんが(わたしからすると)ズルい「友達」ポジショニングを維持しながら、その嫌らしさよりもおいしさ/おもしろさが勝る物語を紡いでくれそうな気がしている。続きが楽しみです、はい。
新エンディング! 4話ごとに3人のメインヒロインの歌唱イメソンカバー楽曲が交替していく構成ね。
この曲も知らなかった。MVの絵柄が特徴的。今風。
8/25(日)
6話
ぬっくんが綾野に疑われる展開はあっさり解決
5人でデート。八奈見さん謎参加w 地下資源館ではしゃぐ皆さんかわいい 豊橋のいい宣伝
5人でいるときもカップル2人は別行動になるように気を遣う周り。「恋人」関係の社会的な規範の歪さ
うおおおおなんだこの三角関係茶番劇! 大好物です そこからこぼれ落ちる失恋ヒロインのケアにすかさず走るぬっくん。お前はなんなんだよ。おこぼれもらおうとしてるんじゃねえ! 「焼塩には追いかけてくれる主人公はいない」じゃねえよ! お前だろうがよぉ! マジでずっとこの感じでいくのか?
「負けヒロイン」のケアと称して女子とお近づきになり交際しまくる男子主人公のぬっくん。おもいっきり「ヒーロー」じゃんね。英雄は嫌いだからわたしは温水くんのことを受け入れられないのだと思う。ちゃんと恋愛劇に参入しなければ。そのヒーローの暴力性が今後、「負けヒロイン」ハーレム展開から嫉妬されることで顕わになるのかな。
夕暮れ、入道雲、バス停、焼塩さん…… すばらしい映像。ぬっくんが走ってさえこなければ…………
・ひとりで泣く者
傷付いた奴の側にいてあげようとしてるのは良いことかもしんないけどさ、でも真の「負けヒロイン」は、ひとりで泣く者だと思うんだよ。少なくとも石動乃絵や相生あおいはそうだったぞ。「誰かが付いててやらないと」と思うのは優しさであると同時に、彼女の強さを見誤っているのではないか? ひとりで泣くことってそんなに他人から哀れまれるようなことかなぁ。もっとも崇高なことだと思うんだけどな。「負けヒロイン」好きってみんなそう思ってるんじゃないの? この作者はそうは思っていないようで、ひとりで泣かせるのは可哀想だからなんとしてでも「救って」やるぜ、というスタンスのようで、やっぱり根本的に「負けヒロイン」観が合わねぇ!(いや、そんなものそもそも持ちたくねぇ!)
でも、これまでのフィクションでひとり泣いていたヒロインの傍には、ぬっくんはおらずとも、その光景を収めるカメラがあった。「負けヒロイン」の窃視者としての視聴者。温水は〈カメラ〉代わりなのだといえる。これまで「ヒロイン」を盗み見て消費していた〈カメラ〉の特権性を遡上に乗せて、あくまで作中人物(男主人公)として相対化したのが温水和彦である、と。つまり、三人称の〈カメラ〉の特権性が一人称の〈男主人公〉の特権性へと密輸入されているというか、部分的に受け継がれているといえる。
果たして、メタな位相から、泣いている「ヒロイン」をこっそり隠し撮るカメラ(=「負けヒロイン」消費者)の嫌らしさと、ベタな位相で「負けヒロイン」たちのケアに走って弱みに付け込んでハーレム体制を築いていく男主人公(=「負けヒロイン」救済者)の嫌らしさは、どちらがマシなのだろうか? そもそも比べるようなものなのだろうか?
わかんないけど、個人的な感覚としては、じぶんは前者のポジションなのでそちら側を支持せざるを得ないし、ひとりの男(-主人公)が女(ヒロイン)たちを救っていく構造には忌避感を覚えてしまう。いや、ぬっくんはまだ彼女らを救うようになるのかは分かんないけど。むしろハーレム体制をいったん確立したあとに、そこで多角関係の二次-恋愛群像劇が発生して、温水の庇護下に移ったけどこっちでも結局恋は実らない=救われないじゃん!※となるのかな。そこで失恋してひとり泣くために駆け出した者を追いかける奴はいるのかな。温水に対して失恋してひとりで泣いたら、そのとき真に「負けヒロイン」になったとはいえるだろうな。
※「恋が実る=救われる」という定式を無批判に採用してしまっているが、とうぜんこれは間違っている。本作は今のところ、失恋しても恋愛以外の「友情」などで楽しく青春を過ごす(救われる)ことはできるよね、という方向に進んでいる。また岡田麿里なんかは更にラディカルで、むしろ失恋することが救済であり自立した人生の始まり(誕生)である、というテーゼを色んな作品で追求している。だいちゅき♡ ヒロインが「ひとりでいること/ひとりで生きていくこと」が性癖なのは岡田麿里から植え付けられたのかもしれない。本作は今のところ、ヒロインをひとりでいさせずに、つねに温水という男子を傍に付けさせているのが気に入らない点だということだ。ぬっくんはお家にこもって妹ちゃんとよろしくやっててください。
歩道と車道の段差にフォーカスした演出めちゃくちゃいいな~~
ぬっくんと別れたあとバス車内で焼塩さんはいっぱい泣くんだろうな。つまり、従来の〈カメラ〉が温水に代替された本作では、ひとりで泣くヒロインがいないのではなく、ヒロインがひとり泣くシーンは映されないってこと……? むしろ禁欲的だともいえるわけか。なるほど~~~むじぃ~~~~(評価が)
豊橋どころか愛知県観光アニメになっている。実在の地理をうまく使った作劇……エロい!!
こいつらなにやってんだ…… 「腐」という差別用語を用いて、物質(土産物)の受け攻め談義をする小鞠さんと古都先輩。ここのライバル関係のふたりは同志でもあるのね。だからこそ解釈違いで譲れない戦いが勃発するやつ。
でも、ラブコメ群像劇で相関図を描いて「負けヒロイン」とかいってはしゃいでるのも、BL(やおい)の妄想と同質のキモさ、危うさがある。つまり、男→女の向きの加害性の反転・反抗としてのこうしたBL好き女子描写があるのだと読むこともできるかもしれない。いいぞ、どんどんやってくれ。「男」を単なる傍観者・消費者に留めておくな。どんどん客体化・対象化してくれ。
じっさい、こういうラノベ等のラブコメ群像劇での主人公を含む男子キャラ同士のBLカップリング二次創作ってどれだけ盛んなのだろうか。少年マンガでは大人気だけど、ラノベでもある程度は盛り上がってるのかな。
先輩くるま運転できるの!? 初心者マークつけてる
こいつら楽しそうだな……(定期) 八奈見さんが完全にいじられボケキャラになってる
小鞠さんかわいい。無表情ヒロインすき
焼塩さんはいつも純心にはしゃいでいて魅力的だなぁ
古都先輩ちゃんと先輩してて良い 運転お疲れ様です
元大学教授のおばあ様……! 真ヒロイン来たな 山中にひとり暮らし。完全に人生あがってる人だ、こうなりたい
専門はなんだろう
女5:男1でのお泊り会。ヤバすぎる
6話おわり!
ラノベが思春期の男子の妄想を具現化するものだとすれば、温水のポジションはめちゃくちゃ羨ましく、まさしく理想的な楽園を視聴者に提供している。すごいと思う。
ただ、この楽園(ハーレム)を成立させるために下敷きとなっているのが、3つもの三角関係と3人の「負けヒロイン」たちだと思うと、素直に享受しがたいんだよな。なんでだろ。
三角関係モノをちゃんとやるのであれば、こんなハーレムなんか作らずに、もっとグチャグチャしててほしい。逆に、開き直ってこの楽園をやっていくのであれば、「負けヒロイン」どうこうとか要らなくね?と思う。恵まれた高校生たち──「主人公」の男子ひとりとそれを囲む数多の女子たち──がワチャワチャする夢想的コミュニティをずっと謳歌してろよ、と。
でも、後者だけを最初からやることはできないのがラノベなんだろうな。それでは単なる陽キャ集団の話になってしまう。オタク向け作品ではない。だから、根暗オタクに夢を見せるために、「負けヒロイン」という建て付けから始まって、こうしたハーレムを成立させる必要がある。なるほどまさしくよくできたラノベでありラブコメだ!! でもわたしはラノベもラブコメも好きではないので………… とても面白い作品であるというのは認めつつも、これを受け入れることはできない。これを心から楽しむのは自分が許さない。
8/27(火)
7話
「ハッピーエンドの向こう側」て完全に「幸せの向こう側」やんけ!
焼塩檸檬さんのところの三角関係がいちおう決着(?)した。温水の存在意義は相変わらずよく分からないが、それ以外はとりあえずかなり良さげな内容だった気がする。相手がかつて自分のことを好きだったことを確かめての、失恋──。うつくしいですね。
ただ、みんな良い子すぎるんだよな~~ 優等生の三角関係ラブコメ。もっとエゴをむき出しにしても……えんやで。マリー作品とか丸戸作品とかが基準になっているのでそれを求めるのはちょっとハードル高いけど。もっとグチャグチャになってほしいんだけどなぁ~~ 「負けヒロイン」が前提なので、どうしてもそんなにこじれずに順当に三角関係が着地していく。とすればやっぱり、「その後」が重要になってくるということで、要するに主人公:温水のポジショニングにすべてがかかっている──── 3人のヒロインのそれぞれの三角関係がとりあえず収束したあとはどうなるんだろう。まだ本番は始まってないってことよな。てかこの1クールでは始まらずに終わりそう。
9/13(金)
8話
志喜屋センパイめっちゃ丁寧に企画書を添削してくれとる! 字きれいだな ギャップがすごい
なんだこの妹…… かじゅさんが兄・温水和彦への距離が近い(そう設定描写されている)のは、「妹」キャラならいくら距離が近くても恋愛には発展しないから? 八奈見さんら学校の同級生女子たちとはあくまで「友達」だと温水が認識しているため、あまりにベタベタしすぎるとその前提が崩れてしまって危うい(ストーリーの進行に大きく関わってしまう)。よって温水と「ヒロイン」達は一定の距離を保って交流する必要があるが、妹ならそもそも「友達」でもなくて「家族」なのでセーフ!ってこと? 近親相姦タブーが暗黙の前提にあるということか。
小鞠さんをやっぱり「女」だねぇと評する八奈見さん。フラれたけど大事な先輩にいいとこ見せて盛大に送り出そうとするのは性別関係なくないか? このセクシストめ!
小鞠に八奈見さんを「ラッコ」だと説明する温水。かわいいけど恋をする対象ではない。なんて都合の良いこと! 要するに、見たり触れ合ったりしてなんとなく心地よい愛玩対象としての「ヒロイン」ってことでしょ? まぁ、2次元美少女キャラの本質を突いていると言えなくもないが……。(「俺の嫁」とか「ガチ恋」とか言ってても、それは不可能性に立脚した大言壮語である、ということ)
これならまだ、ちゃんと好きになったほうがマシだよ思うんだよな。いろんな「ヒロイン」とのイチャイチャを楽しみたいがための言い訳にしか聞こえない。恋愛中心主義を乗り越えるための「友達」やら「ラッコ」やらではなくて、単にハーレム制のための誤魔化しだとしか。わたしが恋愛中心主義者だから本作に文句を垂れているわけでは決してない! 例えば『スキップとローファー』なんかは、男女間の友人関係と恋人関係の検討について、ものすご~~く丁寧に真摯にやっていて大好きだから。
『負けイン』は、各ヒロインの元の三角関係(恋愛)をかなり丁寧に描いているところは好感が持てるけれども、そういう三角関係の描写が結局はすべて温水を享受者(男主人公)としたハーレムラブコメのための下ごしらえのような構造となっているところが気に食わん。温水と各ヒロインとの関係(友情?)をもしっかり描いてほしい…… いや、コメディとしては「しっかり」描いているんだろうけど、それはわたしからすれば、ラブコメを全うしているのではなく、ラブコメに逃げているようにしか思えない。わたしがハーレムラブコメを嫌いなのが根本的には悪いんだけど……。
小鞠「や、焼塩の気配がする……」ww こまやきいいぞ~~~
豊橋の地域振興アニメとしてはマジでクオリティが高い。背景美術やロケーションもすばらしい。
夏目漱石……「三角関係」「失恋」要素ってこと?
企画書ちゃんとしてるな~~ 部活アニメとしても良い
養護教諭って顧問になれるのか……
小鞠ちゃんの新エンディング! YUI「feel my soul」…… 遂にわれわれの世代が懐メロに……狙い撃ちされている……
水彩調のアニメーションすげぇなこれ。普通に描いてから水彩風に処理してる? 水彩画で一枚一枚描いてたらヤバい
この画風の小鞠ちゃんめちゃくちゃかわいいなぁ 本編での性格・キャラ付けは好みでないが。
なんだこの生徒会新キャラ…… ばそり てぃあらさん
なんだこの生徒会長…… 王子様系
個性の強いヒロインを大量投入することでハーレムを彩っていくソシャゲ形式ラノベアニメ。(ソシャゲの源流がラノベやエロゲなんだけど)
ノリがなぁ…… 強烈なパーソナリティをもつ「女性キャラ」の面白さ/ヤバさを笑ってネタにして消費していくトーンが、VTuberやソシャゲ、web漫画にも見られる現代インターネットのノリで苦手だなぁ。毎話ずっと同じこと言ってる。
2020年代を象徴する作品ではある。1巻が2022年発行だもんな。完全にソシャゲ以後、VTuber以後のラノベだ。
9/15(日)
9話
市立図書館いいな~~ 行ってみたくなる
「学校の外」で男女ふたりでいることが特別な意味をもつ規範 「デート」
てか、小鞠にしろ焼塩にしろ八奈見にしろ、彼女たちは好きな人に振られたあとも、定期的にイチャイチャを見せつけられて落ち込むんだな。「負け」続ける。これまでのアニメの失恋ヒロインって、大きく失恋したらそれ以降は吹っ切れて、ウジウジ傷付いたり引きずったりしないことが多い印象があるので、「負けヒロイン」を冠した本作はむしろその点で新規性がある。「負け」て終わりではなく、「負け」から新たな人生が始まるわけでもなく、絶えず負け続けることのリアリズム。むろん、本作の構造上、定期的に「負け」てくれないと、「負けヒロイン」としての魅力が引き出せないという都合も大きいのだろうけれど。
はじめ自分は、3人の「負けヒロイン」たちが思いきり失恋したあとは、切り替えて温水との関係を構築し始めるのかと思い込んでいたが、どうやら違ったようだ。温水はあくまで同伴者・「友達」であり、彼女たちは自分を振った男たちをなかなか忘れられず、徐々に自分の気持ちに整理をつけていく。その過程を温水は隣で共に観測・共有して、その失恋ケアを手伝うポジションである。
あぁ……小鞠さんは、温水と少し似ていて、恋人よりもまず「友達」がいることの幸福を噛みしめたいんだな。たしかに部長を好きになったけど、文芸部のセンパイふたりに可愛がってもらって居場所があったことが何より大事だった。それを、自分が告白したことで失ってしまったことへの後悔と、時期部長として自立しなければという責任への不安。
小鞠さん妹と弟いるんだ。お姉さんキャラ。
いい青春アニメだな~~~! みんなで協力して作り上げる文化祭
文化祭前夜に、教室机が無人の廊下に出されて積まれているカットを入れてくるところ、"わかってる" じゃねぇか・・・。
夕方まで小鞠さんが家で寝ているカット、引きで撮っているからか、暗いからか、キャラに主線が入っていないように一瞬見えて、すげぇ好きだった。
・恋する男子はダサい?(ダサくない!)
「恋する女の子はかわいい」というテーゼに貫かれている物語だけど、好みとしては、女子だけでなく男子の恋愛感情も掘り下げてほしいんだよな~~。そこを描いてくれさえすれば一転すげぇ好きになれると思う。
温水に限らず、ヒロイン勢が恋する他の男子キャラも、付き合っている現彼女への想いがあまり描かれない。男子側から告白したカップルいるのだろうか。「恋する女子はかわいい」けど、「恋する男子はダサい(から恋心をなるべく隠したい)」という、それはそれでマッチョイズムではないのか?という思想が下敷きになっている気がする。女子だけでなく男子だって、もっと一生懸命恋していいじゃないか!
岡田麿里作品はそこが良いんだよな。『あの花』の時点でゆきあつがあぁだから……。今なら「メンヘラ」と揶揄されるであろう振る舞いを女子ではなく男子にさせている凄さよ。『凪あす』だって1クール目の面白さの "核" はひーくんの揺れる恋心の描写じゃないか! 『花いろ』だって1話冒頭で男子に告白させているし……
『キミだけにモテたいんだ。』とかは顕著だけど、マリーってずっと「女子に心底恋する男子」を描き続けてきた脚本家でもあるんだな……「負けヒロイン」量産作家なだけじゃなかったんだ。そこがきちんと両立しているから、じぶんは岡田麿里のことが心底好きなんだ。思春期の男女の葛藤、見苦しいもがきをてらいなく描くことに定評がある。
マリー作品では、男も女もどいつもこいつも誰かに思いきり恋をして、その半数くらいは失恋していく。そこに男女の貴賤・差異はない。異性愛中心主義はクソ濃厚なんだけど、性差別性はじつは薄い?(そんなことはない、という論がいくらでも浮んでくる)
あんまり女性作家と男性作家の違いとか言い出したくないが、男子が女子に恋をすること、がんばって告ることって(ヘテロ)男にとってそんなに描きたくない/見せたくない姿かなぁ? いや、『負けイン』はコンセプトが男子の恋心にはないので省かれている、という理屈で完全に正当なのだけれど…………。
養護教諭の小抜先生ヤベー大人すぎる・・・・・・ 高校生の青春模様を「消費」して楽しんでいるわれわれの隠喩なのだろうけど…………
9/28(土)
10話
ばそりてぃあらさんといい、かじゅさんといい、すげーコテコテの萌えキャラを登場させられると反応に困るんだよな。
「仮廃部」ww 生徒会長も面白い人だな~~ マジでコメディとしては質が高い。ラブコメとしてはダメ。
こういう萌えアニメのテンプレと化した、婚活に必死な女性教師キャラとか、さすがにもうやめないか……と思う。つくづく、ラノベ原作のラブコメアニメとして良く出来ているが、しかし革新的なのではなく、旧来の性差別的な諸々をほぼそのまま引き継いでもいる。そういう意味でジャンルの正当な後継者ではある。
ギャグとしてでも(ギャグとしてならなおさら)今日び「腐女子」って語はアニメで大々的に使わないほうが良い気がするんだけどな~~ 原作小説も20年代でそんなに古くないわけだし。
『かぐや様は告らせたい』パロディの看板w A-1 Picturesだからか。
焼塩さんて長距離なんだっけ。めっちゃランニングしてるし。 無自覚に中学の同級生男子をふる…… これでいて恋愛にまったく無頓着とかではないのが異様。
かじゅさんの友達の高身長女子いいな。
「あたし結果として、小鞠ちゃんを踏み台に幸せになったような気がするの」とフクザツな表情で話す古都先輩。成就(得恋)した側のこういう感情をも描写してくれるところは好きだなぁ
シガレットラムネを咥えながら息を吐いて白い煙のようなものが出る……これ冬が近づいてきて寒いからだよね? 面白い演出だなぁ
「部長のこと、好きになって、よかった」と、自分の、失恋に終わった恋を肯定する小鞠。今度は自分が「部長」になって、好きだった先輩の役目を引き継いで文芸部を引っ張っていくことが、彼女の失恋の肯定というテーマを体現する……という構造はお見事。
小鞠と部長がふたりきりで別れるシーンを映さないのはいいが、その後の小鞠の「負けヒロイン」としての見せ場ではしっかり温水が小鞠とふたりきりで、その語りを隣から眺めていて……マジでこいつがいらねぇ!!
これだけたくさん「負けヒロイン」描写が定期的にノルマのようにあると、「こういうのがいいんでしょ」感をどうしても感じてしまい、どんどん冷めていく。そりゃあこういうメタに「負けヒロイン」をやるコンセプトなんだから仕方ないんだけど、メタを張りつつ、それを相対化する素振りはまったく無くて、単純に、「負けヒロイン」って魅力的だからそれをメインにしてそればっかり大量に描けばもっとおいしくね?──という足し算志向の推し布教スタンスなので、合わない。真の「負けヒロイン」好きとしてわたしは言いたい。この作品に描かれている "それ" らは、その本質を何も分かっていない、決定的に損なわれたものである、と。
・「友達」関係下で隠蔽され強化される裏返しのマッチョイズム
本作では、男子主人公の温水がたくさんの「ヒロイン」達と恋愛関係を結ばずに(恋愛感情すら見せずに)「友達」になろうとしている。それは、ヘテロ男性オタクの欲望を満たすものとしてのラブコメ/ラノベ文脈において、「ヒロイン」に惚れられて恋人として結ばれるまでイチャイチャする──というお決まりを解体して、「ヒロイン」を所有したいという充足願望が後退し、恋人じゃなくて友達でいいんです、と慎ましい方向に変化した──ヘテロ男性オタクの有害性が軟化した──のだと一見思えるが、じっさいは全然違う。ひとりの「美少女」と恋愛関係になりイチャイチャするよりも、たくさんの「美少女」たちと友達関係になりワチャワチャすることを採っただけである。
これまでのハーレムラブコメでは、たくさんの「美少女」たちに惚れられて、誰を選ぶかの「ヒロインレース」と言われるものが行われてきたわけだが、そこから恋愛(レース)要素を抜きにしただけで、「ヒロイン」たちからなんやかんやで頼りにされ好意を向けられていくのは変わらないし、排他的な恋愛(レース)要素を持ち込まないぶん、より大っぴらかつ強固なハーレム体制を実現しているといえる。
どの子もみんな魅力的だから、誰かひとりを「選ぶ」なんてことはできない/しない。あくまでじぶん(温水)には女の子と恋愛したいなんて欲はなく、「友達」になりたいだけなんだから、こちらは傷付かない。どの「ヒロイン」も、主人公ではない男子に恋をしていて、美しい失恋っぷりを見せてくれる。それを至近距離から眺めることができるだけで、もう満足だ……というスタンス。これってなにも慎ましくないよね? むしろ、女性を「美少女/ヒロイン」として「所有」したいという欲望が隠蔽されているぶんだけ、余計に悪質・醜悪だといえる。
ちなみに、もし仮にぬっくんがちゃんと各「ヒロイン」に恋愛感情を抱いていたら、彼は目の前で、じぶんが好きな子が別の男に思いっきり恋をしているさまをひたすら見せつけられまくっていることになり、それをエンタメとしてパッケージングするとNTRモノとほぼ同質の構造になる。
でも本作はNTRでもBSSでもなくて、「失恋するじぶん(男性主体)」の存在は周到に抹消されている。オレが失恋して(≒寝取られて)マゾヒスティックに気持ちいいのではなく、あくまで失恋するのは「ヒロイン」のほう。
ただし、ここで重要なのは、そうした失恋する女性たちを主体化するのではなく、そこに恋愛関係の部外者としての男主人公を観測者として寄り添わせて、「ヒロイン」は徹底して客体化されるという点。つまり「負けヒロイン」を見られる対象として魅力的に描こうとしている。ここがおそらく、自分の「負けヒロイン」観と根本的に合わないのだと思う。
わたしは、「負けヒロイン」だろうが「負けイケメン」だろうが、とにかく片想いしたり失恋したりするキャラには感情移入してしまう。だから好きだ。すなわちわたしにとって「負けヒロイン」は客体(観察対象)ではなく主体(同一化対象)なのだ。
真島太一にも小木曾雪菜にも先島光にも寝取られモノの主人公にも、わたしはものすごく共感してしまう。そういう人物にしか共感できず、1対1の固定カップル恋愛モノで尊く結ばれるキャラなんかにはちっとも心が動かない。そして、『負けヒロインが多すぎる!』の男主人公・温水和彦は、目の前で失恋を噛みしめている「負けヒロイン」たち、思いきり恋愛をやっている彼女たちに共感しない。自分はあくまで「友達」になりたいだけですから、と言いながら、「負けヒロイン」の隣で甘い蜜を吸う。そんな温水の存在によって、「負けヒロイン」は主体ではなく客体として位置付けられる。これがわたしには合わない。
なお、本作において客体化されているのは当然「負けヒロイン」に限らず、およそ全ての女性キャラに当てはまる。女性キャラを「ヒロイン」という客体(傍から眺めて魅力的に思える「おもしれー女」)に仕立て上げる、誠に女性差別的なラノベの伝統を受け継いだ、素晴らしいハーレムラブコメ作品だ。
この10話でいえば、小鞠が好きなひとであるところの部長(男)を終盤でほとんど映さず、「勝ちヒロイン」の古都先輩と、「負けヒロイン」の小鞠のそれぞれに、温水が順番にふたりきりの場で会話をして、彼女らの魅力を描くことにシーンを割いている。そこに、「ヒロイン」たちと恋愛をしている当人である男キャラのそういう描写は可能な限り削りたい、という固い意志・明確な方針を感じる。
前話の感想でも書いたように、わたしはヘテロ恋愛群像劇好きとして、恋に悩んでもがく男の姿も、女のそれと同様に見たい。でも本作はハッキリと男女キャラの描写に非対称性があり、性別二元論(ジェンダーバイナリー規範)を素朴に前提として再生産し続けている。
ふたりの女子から恋愛感情を向けられた男子の心情……みたくない? てか、古典的なハーレムラブコメでは男子主人公のそういう葛藤を描くことが大きな魅力のひとつだったのではないのか。いろんな「美少女」から惚れられて思い悩むなんてそりゃあ「都合の良い」気色悪い悩みかもしれないが、それでも「美少女」だらけのハーレム空間の真っただ中にいる男子がなにも悩まないでスカしている、というほうが私にはよっぽど気色悪くてムカつくよ。(もちろん温水がアセクシャル/アロマンティックとか、デミロマ~等として描かれているならば私だって無理に恋愛規範を押し付けないが、本作は全然そうではないと考える。)
温水の恋愛感情の希薄さって、男性のミソジニックな所有欲への反省とかではまったくなくて、単に「男が恋にウジウジ悩んでいるなんてダサい」というマッチョイズムの裏返しであり、そして「恋に悩む男子(主人公)なんかよりも恋になやむ女子(ヒロイン)をいっぱい描くほうが魅力的だ」という明確な性差に基づく表れなので、肯定できるはずもない。
これほど「美少女動物園」として完成度の高いアニメもなかなかない。女性を「美少女」として戯画化して客体化して、動物を檻の中に入れて観察してエンタメ消費する動物園のように、萌えキャラとしての「ヒロイン」たちを魅力的に描きまくるアニメ。そういうのが好きなひとは絶賛するんでしょうね。
わたしはその「檻」──内側と外側を画定する鉄格子──を攪乱して解体するようなフィクションのほうが好きだ。じぶんが「檻の外」から呑気に「檻の中」の動物たちを眺めていられると思い込んだままにさせてくれる作品よりも、遥かに。(そういえば、幼い頃から動物園でいちばん好きなのは、自由に入れる「ヒト」の檻のコーナーだった)
11話
↑とかアツく書き殴ってたらマジで動物園で「檻」越しにヤギを眺める温水の画が出てきてワロタ しかも現在「ヒロイン」として焦点が当たっている小鞠は柵の「内側」でヤギに囲まれているし!!!
ところで、ふと思ったこと……
・「負けヒロイン」の貞操帯と「尻軽」について
別の男に一度失恋した「ヒロイン」たちを集めてハーレムラブコメをやるのって、いわゆる男性オタク文化における「処女」信仰、「ヒロイン」が初めて恋をするのは主人公の男じゃないといけない、というキショい貞操観念に対してのカウンターとも解釈できるからその点は良いなぁと1話からずっと思ってきた。
しかしながら、そんな別の男への恋に破れた「負けヒロイン」のその後の人生/青春に寄り添ってじっくり描こうとしている本作を観てて次第に感じるのは、こいつらも実質的に「処女(初恋)ヒロイン」と変わらないのでは?ということ。
無論、今言いたいのは、付き合えずに失恋しているから確かにあいつら処女のハズだよね、とかいう意味合いの話ではない。もっと精神的で象徴的な次元の話だ。
ある人(男)を、振られたとしても、ずっと一途に好きでいる彼女たちは、また別の(温水でもない)男を好きにならない限りは「安全」である。別の男との恋が成就する(≒貞操を奪われる)心配をする必要もなく、安心して友達として付き合える「ヒロイン」に他ならないから。つまり、例えば小鞠だったら前部長さんが該当する、失恋した相手が「負けヒロイン」の貞操帯として機能しているわけだ。こうして、美しい失恋という名の貞操帯を付けられた「ヒロイン」たちが温水のもとに集いハーレムを形成する──まっこと胸糞悪いハナシだ!!
もちろん、このあと、彼女らが次第に温水に恋愛感情を抱いていく可能性は高く、そうした場合は「負けヒロイン」たちが自ら貞操帯を外して自分(主人公)を求めてくれるのだから、ハーレム体制はより盤石になるだけだ。すなわち、彼女たちが、振られた相手を一途に想い続けても、温水に乗り換えても、いずれにしろ温水ハーレムにとってはウエルカムなのだ。
わたしが観たいのは、その温水ハーレム体制の地盤が揺るがされるところ、徹底的に破壊されるところである。あ~あ、八奈見さんがあっさり他の男子と付き合い始めないかなぁ~~~~(「人生が5回あったら~」の井上織姫のテンションで)。
「負けヒロイン」はもれなく温水とかいう男のハーレム体制へと取り込まれていく構造があり、非常にグロテスク……むかつく。だから、これって「負けヒロイン」に寄り添っているようで、正反対のことをやっているんだと思う。(詠唱開始)
岡田麿里作品とかの「負けヒロイン」は、失恋したあと、アニメで描かれている〈物語〉が終わったあとで、あっさり別の男に恋をしてくっ付くんだろうな、そうして〈人生〉をやっていくんだろうな、という確かな感触がある。(もちろんそれはそれで異性愛規範が強くて問題含みではあることは書き添えておく。)
つまり、フィクションで描かれる範囲での恋愛劇という〈物語〉から、失恋によって解き放たれる/自由になる……という節がある。だからこそマリーの描く失恋は、とても濃密で重苦しくもありながら、どこか清々しさがあるのだと思う。『空青』のラストシーンなんか最高ですよね。『凪あす』の美海だってそう。『まぼろし工場』のラストシーンもそう。
失恋した「ヒロイン」は、〈物語〉から、画面から退場して、そうして自らに暴力的に貼られた「負けヒロイン」というレッテル張りからも解き放たれる。もはや私たち鑑賞者の視界からは消える。そうして、真の主体性を帯びて自立して生きていく。そう信じられるからこそ、わたしは岡田麿里作品が好きだし、そこで失恋を経験するキャラクターたちが好きだ。
でも、この『負けヒロインが多すぎる!』がやっていることはその反対のことだ。「負けヒロイン」の失恋後の人生を描いているようでいて、実質的に、温水というひとりの男子の築くハーレム体制の糧にされる。なにも自由ではないし、自立的でもない。男主人公にケアされなければ生きていけないような──そこまでは言わずとも、男主人公の周りをウロチョロして我々視聴者の目を楽しませてくれる見世物としてでなければ「負けヒロイン」はその後生きていけないかのようだ。つまり、一見寄り添っているようでいて、この作品がいちばん「負けヒロイン」を舐めている。
そりゃもちろん、失恋してすぐに別の相手に恋をしなきゃいけないわけじゃない。簡単には気持ちを整理できないだろうし、振られても想い続ける恋のかたちだって──それがたとえ不健全だとしても──あっていい(なにせ恋愛はそれ自体が不健全とも言えてしまうので)。
でも、本作は、失恋を引きずって自らの「好き」を肯定して背負いながらも徐々に気持ちに整理をつけてい「負けヒロイン」達──の姿を、ひとりの「友達」である男主人公を中心の視点として描いている。この構造によって、生き生きと描かれる「ヒロイン」たちの失恋の引き受け方、その過程が、彼女たちの自立性を高めるものではなく、むしろ男主人公に涙を見られ、話を聞いてもらえなければ生きていけないような在り方に思えてしまう。
(じぶんで書いてて、さすがに悪し様に言い過ぎだろう、見方がフェアでなく認知が歪みすぎだろうとは思うが、とにかくじぶんがハーレムものを嫌いなのが悪い……。)
『ここさけ』のラストは賛否両論だったけど、そんな成瀬順の存在が、もっとも簡潔な『負けヒロイン』へのアンチテーゼとなっている。
たしかに「ヒロイン」にとって、というか思春期の若者にとって、失恋は一大事だ。それをドラマチックに描くことは、当人にとっての「失恋」の重大さを思いやった結果、ある種必然といえる。しかし、だからといっていつまでも失恋した相手を想い続けて、あたかも貞操帯をつけたように、他の人にはなびかないことが美徳とするのは違う。
次々と恋愛対象を変える人間はしばしば「尻軽」と呼ばれる。これが多くの場合女性に対して使われる非対称性があること自体、日本社会のミソジニーを表している(「尻軽女」)が、そもそも次々と恋する相手を変えることは悪いことだろうか? わたしたちは、ひとりの運命の相手と結ばれて未来永劫愛し合う──というロマンティック・ラブ・イデオロギーに支配され過ぎではないだろうか。
「永遠」を素朴に尊ぶ純愛至上主義は、「万世一系」のロマンス=神話であるところの天皇制に代表されるような保守主義を内包する、まごうことなき "政治的" な思想である。私たち読者は、つい、応援していたふたりが作中でめでたく結ばれると、その関係が永久に続いてほしいと思ってしまう。それはわれわれの根本的な保守性(「これまで生き続けている」という〈生〉の原理的な保守性)ゆえに、あるていど仕方のないことではある。しかし、その危うさを自覚して、断ち切るべきときは断ち切ることが必要なのだ。
わたしの〈生〉を、〈歴史〉を、切断するように、一途な恋という〈物語〉を切断すること。短いスパンで恋愛対象を変えることは決して「尻軽」などと揶揄されるべきことではない。特に女性がその行為主体であるとき、男を次々乗り換えることは、男に依存しないと生きていけない「ビッチ」などではない。特定の相手に依存せずに、その都度ほんとうに好きになった相手と関係を結んでは解いていく真に自立した生き方ではないか。
(成瀬順に関してそう表現しただけで、無論「ほんとうに好き」な相手としか関係を結んではいけないなどということは一般化されない。し、おそらくあの後の成瀬順がそうであるように、付き合っていく過程で段々と相手を好きになっていくこともよくあるだろう。)
↑ 閑話の文字数が多すぎる! まだ3分しか観てないのに……
4:13辺りからの小鞠と温水のロングショット好き。キャラの手前に柵の美術(BG)が描かれている珍しいカット。そのあと温水がベンチに座ってからも素晴らしい。
マジで映像はずっとムカつくほど良いんだよな。
失恋相手(玉木部長)と自分が同じ「部長」という言葉で名指されることで、失恋を引きずってしまう小鞠。部活と恋愛が言語の媒介によって重なり合う青春のプロットとして非常に良く出来ている。
男主人公がひとりの「ヒロイン」を支えようとして上手くいかず、そこですかさず別の「ヒロイン」に支えられる。これぞハーレム体制の有効活用。一見、支えては支えられる互助の対等な関係に思えるが、じっさいはひとりの「男主人公」と無数の「ヒロイン」という数的な非対称性が質的なそれをも体現している。
・・・ほんっとなんなんだこの全肯定妹は!!! まじでこわい。こういうキャラがいちばん苦手 都合が良すぎる
このゾンビみたいな生徒会の先輩(志喜屋センパイ)もなんなんだよ。「美少女」概念と「化物」表象の相性の良さに関しては一家言あるけど、ここまで直球にゾンビモチーフで青春ラブコメの「ヒロイン」を作るのは衝撃的。ふつうに天才的な発想だと思う。『ゾンビランドサガ』のたえちゃんとかやや似てる(好き)けど、あっちはモロにゾンビだからやっぱり志喜屋さんとは違うんだよな……。原作の続刊ではこのひとがメインヒロインっぽくなっているって噂で聞いたけどマジ? だとしたらめっちゃ凄い。
いや~~シンプルにこの脚本はキツイな…… なんだこれ。「負けヒロイン」云々とか温水ハーレム体制とか関係なく、シンプルにお話がキツい。ぬっくんがヒーロー気取りで会議に飛び入り参加して助けようと「お節介」するのもアレだが、小鞠の人前でうまく喋れない性格をなんとか克服しようとするプロットがそもそも下らない気もする。あと、小鞠の吃音?っぽいようなそうでもないような喋り方が、「喋るのが苦手」キャラの記号として造形されているのはわかるが、吃音当事者としてはピンとこず、聞くに堪えない。
上手く喋れない女子キャラが階段に座りながらスマホで会話するシーンといえば『ここさけ』の神社のとこを思い出す。
「小鞠は俺と同じ側の人間だと思っていた」けど「ふつうの子なんだ」ってなんだよ…… じぶんは1人でいるのが好きな「ふつうじゃない」特別な人間ですってか? そんな傲慢な人間が「ふつうの子」を「ヒロイン」として見下しながら寄り添って救う。はいはいお見事ですね。小鞠ちゃんかわいいかわいい。ほんと救いやすい都合の良い「ヒロイン」だなぁ まじで嫌いだ! 温水が。そして小鞠をこう造形するこの作品が。
「……俺は馬鹿だ」じゃねぇよ。そういう独白をしている今のお前がまさに馬鹿だよ。ひとりが好きならずっとひとりで居ろよ。そのくせ妹にぼっちいじりをされたときに一丁前にテンプレの返しをしたりして。ホントはひとりがいいけど、俺が傍で支えてやらなきゃいけない「負けヒロイン」たちがいるから仕方なく──ってか?(そんなこと言ってない) ハーレムラノベ男主人公の嫌いなところが煮詰まったような奴だな。
「恋愛」することが弱さの象徴であるかのようだ。誰かを好きになることはそいつに依存することだから弱い。俺(温水)は「恋愛」は分からないから、そういう弱さがなく、自立した強い人間である。そんな俺が上の立場から弱い人間(ヒロイン)たちに寄り添って救ってやる……というような
「負けヒロイン」が魅力的なのは弱さを曝け出しているからである、ってことか。弱いもの、可哀想な者への強者の傲慢な憐れみ。
何度も指摘してきた、男子キャラの恋愛感情をなるべく描かない方針も、そういうことだろう。恋愛は弱っちい女がするものだ。強い男ならそんなものはしない。ましてや失恋でくよくよ悩まねぇ……的な。
それでいうと、小鞠はこんな感じだけど、八奈見さんや焼塩さんは全然「弱く」ないな。焼塩さんはひとりで走っていく強さがある(から好き)。八奈見さんは……正直、失恋してクヨクヨしてるところが僅かしか描かれず、あとはずっと食欲のある面白キャラなので、そもそも「負けヒロイン」というか失恋キャラとして真面目に受け取れていない、まだ。
失恋要素がなければ八奈見さんわりと好きになれていたかもしれない。でも、そういう「変な女」だから幼馴染の男子にフラれるんだよ、というような、彼女の面白さ(人間的な魅力)がそのまま欠点でもあるような、根底でずっと馬鹿にしていいキャラであるかのように描かれているのが、合わない。自分はそう受け取ってしまう。
「支える」ってホントに言っちゃってるじゃんぬっくん。。
焼塩~~~~!!!! いいぞ!! もっとやれ! そのまま温水を締め上げて退場させろ!!!
スマホ画面に落ちた涙で通知が読めないとか、ふたりだけで会話してると思ったらグループトークでやってたとか、スマホ(LINE)の使い方が……上手い!
閉鎖的な二者関係かと思ったら第三者たちに開かれていた展開マジで好きだし、これぞ群像ラブコメの真骨頂で良いですね。
ただ、「ヒロイン」同士で友達になって楽しく支え合いながら青春している画を見せられるたびに、これぬっくん要らなくね?と思う。お前さえいなければ……
「仮初の関係を繰り替えして」……なるほどね。これはまさに上で長々語っていたアンチ-"永遠の純愛"至上主義とかなり近いことを言っているだろう。友達にしろ恋人にしろ、青春が終わればやがて疎遠になる、という達観した視座の上で、せめてこの青春のひとときを美しく濃密なものとして映していよう、というスタンスを本作はとっているんだね。
でも、やっぱりそれが温水のモノローグとして語られると、上述したような傲慢さ、特権性がチラついて嫌なんだよな。ひとりだけ青春を「達観」した気になっているイタい男主人公。それもまた青春……ではあるが、彼のこのスタンスが相対化されない限りは受け入れがたいなぁ。まぁいずれやるんだろうけど。
えーー部長代わっちゃうんだ……ぬっくんが新部長か……観る気なくすわ…………
マジで温水さえいなければかなり好きだった気がする。「負けヒロイン」たちが集まって友達になって楽しく青春の日々を送る萌え日常系百合アニメ。全員かつて男に失恋している女性キャラたちのケア共同体。萌え日常系アニメの多くは「男」が出てこないが、これなら出てこないことの趣もあるし、それでいて幽霊のようにつねにヘテロの気配が通底している異様な日常系百合アニメになりそうで観てみたい。
ともかく、これで小鞠はもうほぼ温水に落ちたといっていいだろう。焼塩と八奈見はまだぜんぜんそういう感じではないが、友達としてワチャワチャ楽しく付き合っている。このふたりは陽キャだからな……。焼塩や八奈見がぬっくん以外の男子と話して関わるシーンをもっと見たい。
これあと1話で終わり? なにやるんだろう。
24/10/5(土)
12話
「俺はひょっとして、最終話で負けヒロインの横にいるポッと出のモブキャラなのだろうか」……最終話のこのサブタイトルは、たしか原作小説を最初に応募したときの題名だったはず(wikipediaで読んだ)。でも、実際にこうして1クールのアニメとして観てきていると、ぬっくんは何も「ぽっと出のモブキャラ」でも何でもない、単なるいつものハーレムラノベの男主人公である。
しかしながら、もともと本作品が「負けヒロイン」を掲げるのではなく、「俺」の存在を掲げていたという事実はなかなかに重要だろう。
そうなんだよな、結局本作は「ヒロイン」を客体化している温水和彦という男、「俺」についての物語なんだよな。そこを隠蔽して『負けヒロインが多すぎる!』と、「ヒロイン」のほうを全面に掲げるのは、商業的には成功だけれど、わたしは嫌いだ。まだ「俺」を掲げたこっちの原案タイトルのほうが好ましい。
ただし「負けヒロインが多すぎる!」と "言って" いる発話主体はやはりぬっくんなので、いずれにせよ、ぬくみず視点の、ぬくみずについての物語であることは暗に示されているとはいえるだろう。
まだ始まってもいないのにサブタイトルだけでこんなに書いてしまった。先が思いやられる。
最終話はメインヒロインである八奈見さんとのプチ・エピソード回?
八奈見さん、可愛いは可愛いんだけど、まったく好きになれない…… いろんな男子から言い寄られてるなら、付き合わずともそっちで色々とコメディをやってほしい。でも、彼らはぬっくんのハーレム体制にとっては邪魔だから、一切姿は出てこない。(文化祭準備回でちょっと出てきた気はする)
文芸部室や教室内でのキャラの影の付け方(明度?)めっちゃ好き。ほんと映像はずっと最高なんだよな
最終話でリボン4つの制服に女子キャラから文句が出るの草
「画的に代わり映えしなくない」かを気にする、地方を舞台にしたアニメキャラの鑑!
うわ~~スマホで取った写真のスライドショーという体で静止画を羅列する! その各スチルが通常の絵柄ではなく、あえてイラストチックに色んな画風を採用している!! この演出は現代アニメの最先端ってかんじでいいな~~ 「フォトリアル」でもなくて、あえて線を崩してフィクショナルなほうにも描いている。『まどマギ』とか『ぼざろ』とか、アニメーション(動画)のなかで2次元キャラを前衛的に解体するのは見たことあるけど、あえて静止画でそれっぽいことをやるのは初めて見たかも。
女子3人との遊園地デートを達観してこなしているぬっくん。こいつほんま……はやく消えてくれないかな…… 妹とくっついてくれたらそれで話は早いんだが、かじゅさんの恐ろしいところは、自分がお兄さんとどうにかなりたいわけではなく、別の同級生女子とちゃんと恋愛してほしがっているところなんだよな。かじゅという逃げ道が本人によって塞がれている。「負けヒロイン」ハーレムに行くしかない構造。
このかじゅの友達の「ゴンちゃん」って子がかわいいです。温水とは関わらせなくていいからこの子の話が見たい。
恐竜博物館の美術めっちゃ実写だな~隠そうともしていない
ゴンちゃんはかじゅ推しなのか……?
「マケイン」という単語を作中で発言させる仕方が無理やり過ぎるだろ!!
そーすけ&カレンちゃんは、実質デートでしかない八奈見&温水(&ほか女子2人)を見てどう思うんだろう……それどころじゃなさそうだけど。彼女と公衆の面前でイチャラブしてるそーすけ君よりも、3人の女子と仲良くしているぬっくんのほうが何億倍もムカつくんだよな。そうだろ?
朝雲さん流石です。悪いオトナの思惑には乗らない
観覧車のなかで八奈見さんとふたりでは何もしていないけど、4人で乗り込んだ2周目では思いきりハーレム体制を享受してるよね
……おわり!!
この最終話は原作にあるのかな。アニオリ? 1クールやるのに1話余ったし、小鞠さんにフォーカスし過ぎたから八奈見さんメインの総まとめ回をなんとかでっち上げました感。( "そういう回" のオタクもいるんだろうな……)
まとめ
いやはや、映像演出はめちゃくちゃに良いが、おはなしがとにかく受け入れがたく嫌いな作品だった!!!
地域振興アニメとして、そして学園青春アニメとしては、非常に質が高く、好ましかった。まぁ後者は恋愛要素(ハーレム構造)とどうしても不可分なので、心から肯定はできないが……
この作品は、そしてこの作品を持て囃している自称「負けヒロイン」好きは、なにも分かっていない。俺が……俺こそが真の「負けヒロイン」好きオタクだ!!(←不名誉な称号)
「負けヒロイン」概念がこんなに許しがたいカタチで利用され換骨奪胎されてしまったことが哀しいよ…… いや、「負けヒロイン」の語がこうして "死んだ" ことをむしろ喜ぶべきでは?という気もする。
サンキュー『マケイン』。貴方のおかげで「負けヒロイン」は完全に死に絶えた。もはや真に尊い「負けヒロイン」などは存在せず、すべてはラノベ主人公男のハーレムを構成する要因に成り下がった。「恋人」ではなく「友達」と称しての、もっとも羨ましい(唾棄すべき)イチャイチャした日常コメディ。バクハツシロ!!! ……この作品を素直に楽しめるひとは、精神性が健全で羨ましい……じぶんはなんて歪んでいるんだ…………
このアニメが楽しめなかった「負けヒロイン」好きの皆さん、今度一緒に飲みに行きましょう。いる……よね……?
なお、このアニメの感想でさんざん比較して持ち上げていた岡田麿里の最新作『ふれる。』は……『負けヒロインが多すぎる!』の5億倍つまらなかったです!! 比べるのもおこがましい。
『負けイン』最終話を観る前日(公開日)に観たんですが、マジで評価が逆転して笑いました。(なお、ネタバレですが、『ふれる。』は物語中で「負けヒロイン」が1名、「負けイケメン」が2名生まれます。いつもの岡田麿里アニメの生産ペースやね。)
岡田麿里版の『負けヒロインが多すぎる!』というか、個人的には、これこそが真の『負けイン』だ!完全に上位互換だ!!と思っているアニメは『キズナイーバー』です。
みなさん、観たことなければ、『キズナイーバー』を観ましょう。
「負けヒロイン」好きも、そうでない方も……。
また、最近読み返しておもしれぇ~~~と改めて思った、オススメの「負けヒロイン」漫画は入江喜和『たそがれたかこ』です。
45歳バツイチ独身中年女性が主人公にして「負けヒロイン」となるまでのお話です。……こういうのが最高なんだよな。
失恋している姿が魅力的なのは若い美少女だけでしょうか? 中年女性は「負けヒロイン」になれないのでしょうか? わたしはそんなことはないと思います。むしろ、その恋愛が、失恋が、醜く愚かしく暴力的であるほどに、よりいっそう感情移入でき、泣けるのです。"このキャラクターは……〈わたし〉だ……" と。
容易に "萌え" られる若くて可愛らしい(エロい)美少女キャラクターだけが「負けヒロイン」ではない、とわたしは思います。
そして、エモく美しく感動的に消費できるものだけが「失恋」ではない。
45歳バツイチ独身女性の、〈人生〉が乗った告白と失恋を、そのあまりに醜く遅い〈青春〉を、わたしは宝物のように大切にしたい。
アニメ化もされなければ、絶対にバズりもしない(最終巻でちょっと炎上はした)『たそがれたかこ』が、わたしは大好きです。
他にも「これこそが真の『負けヒロイン』作品だ!」というオススメがあれば、ぜひ教えてくださいね♪ もちろん、片想い/失恋するキャラの性別や年齢は問いません。
それでは。
三角関係モノの金字塔。すなわち、「負けヒロイン」ものの金字塔。
片想いするイケメンとして、真島太一のことが一生好きです。
暫定版・岡田麿里の「負けヒロイン」概念の "答え" がこの映画では提示されています。恋愛の三角関係を、強引に親子関係に重ね合わせ、〈失恋〉と〈出生〉を同一化させた意欲作。(観てない人には)なにを言ってるか分からねーと思うが……見ればわかる。
もちろん、『true tears』『とらドラ!』『あの花』『花いろ』『凪あす』『キズナイーバー』『ここさけ』『空青』『キミモテ』『荒乙』『さよ朝』『ひそまそ』……なども、岡田麿里の三角関係モノ・失恋キャラを追求してきた過程の名作として超重要です。
こないだ気付いたんですが、三角関係から疎外される(≒"負けヒロイン"になる)ことで〈人生=物語〉が始まる作品として、『さよ朝』と『花咲くいろは』の最序盤はほとんど同じ構造をしているんですよね。『花いろ』で主人公が疎外される三角関係は恋愛ではなく親子関係ですが……(ここにも『まぼろし工場』に繋がる要素が胚胎していた!)
岡田麿里アニメの感想noteリスト