長井龍雪×岡田麿里×田中将賀『ふれる。』(2024)感想
岡田麿里脚本のアニメをここ最近慌てて観ていたのは、超平和バスターズの最新作『ふれる。』のためでした。『あの花』で深夜アニメの世界を知った、超平和バスターズと岡田麿里に真剣なオタクなので……
(初見で観終えた後に、思ったことを忘れないよう、とにかく羅列的にメモしていった文章なので、ひじょーに脈絡がないです。)
2024/10/4(金) 23時
公開日に退勤後そのままレイトショーで観た。
シンプルにクソつまんなかった。岡田麿里史上最低の駄作
ホラー的な恐怖からでも、退屈による眠気からでもなく、上映中に何度も目を閉じたくなった。目の前の大画面で流れている映画があまりにもキツすぎて。こんなの見ていられない。
岡田麿里と同じくわたしが崇拝しているアニメ作家・細田守の『竜とそばかすの姫』の時は、あまりのつまらなさに涙がこぼれたものだったが、今回は涙の一つもこぼれなかった。終始茶番。
愚かしい人間たちの群像劇(コメディ)を描いてきた作家であると岡田麿里を定義するいちファンのオタクとして、ほんとうに呆れるほど愚かな人間たちの茶番を描いていた今作をこそ肯定して絶賛しなければいけないような気がして、岡田麿里オタクをやるのも難しいな……と痛感している。
いちおうヘテロ五角関係モノ……だけど、それらがすべて「ふれる」に “収束” していくことの絶望、くだらなさ。岡田麿里は人間関係を描くのをやめたのか。
いや……もちろん、非常に「岡田麿里らしい」物語ではあった。しかし、今回はそれがもっとも私好みでない、悪い方向に発揮されてしまった作品という印象。痛みを伴う本心だけが伝わらないという、逆キズナイーバー。こんなの見るくらいなら『キズナイーバー』を見て下さい。
あれを既にやってしまったから、岡田麿里のその恒例のテーマを今度は逆説的に浮き上がらせるためにこういう設定にしたのはわかる。わかるが、その変奏は進歩でも挑戦でもなんでもなく、単なる杜撰な悪手にしか思えない。
(マシュマロなどの)匿名お題箱で「有害なメッセージ(毒マロ)をAIが自動でフィルターしてはじいてくれる機能」という現代的なデジタル要素を参照元として「真に繋がり合える生々しい人間関係のためには本当にそれでいいの?」という明確な意趣返しの物語をつくる、というのは、ワンアイデアとしてなら悪くないと思う。
これまでの岡田麿里作品の系譜を思い返しながら観れば──わたしはそのようにしか観れないわけだが──その「言いたいこと」はより一目瞭然だ。
でも、そのように作品の主題があまりにも分かりやす過ぎるのと、「デジタルツールによる現代のコミュニケーションの在り方への批判」という非常に手垢の付いたスタンスに括れてしまうのとで、このワンアイデアを軸に一本の長編オリジナル映画を観させられるのは正直かなり厳しかった。
謎生物「ふれる」がそのフィルター機能AIの対応物として登場するわけだが、かといって"ふれる"はAIや神のようなメタな舞台装置としてのみ描かれるのではなく、最終的には主人公との異種交流譚~ふたりのキズナ~の感動展開要員にもされており、元ネタを振り返ってみれば「毒マロフィルターAIと利用者(人間)との絆を確認して大団円」な話ということになってしまい、人間同士の「痛い」繋がり合いという主題からもズレてしまっている。
ここ何年かのアニメ映画でいえば『天気の子』×『トラペジウム』みたいな作品だった。
離島から幼稚な男(たち)が上京して女と同棲する点で『天気の子』。
また、主人公の「ズル」によって、仲が悪かった同級生と、そうとは知られずに親友になり、不穏な感じで物語が進んでいき、真相が明らかになって友情が決裂し、それでも最終的には友情を再確認する話……として、細かいところは異なるが、主人公へのドン引き感や「本当にこうやって進んでいっていいのか」と初っ端から乗れない感じが『トラペジウム』を彷彿とさせた。それでもあちらの方がしっかりまとまっていると思うよ。
さいしょ、上手く喋れない主人公・秋の描写をみて「成瀬順みたいなキャラをまた主人公にするのか……」と思ったが、"上手く喋れないのですぐに殴り掛かる" 奴など分かって、「一瞬でも同類判定してごめんよ順ちゃん……」となった。ここまで幼稚で感情移入できない主人公もめずらしい。家庭環境のせいだと説明されるので、確かに非常に気の毒で可哀想ではあるんだけど、それを踏まえても「家庭環境のせいで社会性が終わってしまっている気の毒なヤバい青年を主人公にした成長譚」ということになり、うーむ……申し訳ないが少なくとも自分にはまったく刺さらない物語であった。
喋るのが苦手だけど、気になる異性相手には「お喋り」になれる秋くん。夜空を綺麗だと思える感性をその異性と共有できたことにものすごく感動する秋くん。こうしてみると、高身長イケメンな二十歳ではあるが、ほんとうにそれだけの、中身が終わっている人間だった。そういうほとんどの人には共感されなさそうなヤバい奴を主人公にする勇気は認めたいが……失敗していた。
彼ら3人の幼馴染の友情関係は、実は「ふれる」によって演出された偽物だった。それは最初から分かってるし、だからこそ全くこの主人公たちとこの物語に乗れないのに、加えて終盤で「……でも、多分俺たち、ふれるがいなくても絶対そのうち友達になってたよな!」と再肯定し出したので卒倒した。マジで言ってんのか(マジで言ってんだろうな)。こちとら、その「ふれるに出会わなかったver.」を観たいんだよ!!
……でも、それはこれまでの岡田麿里作品でさんざんやってきたことなんだよね。だから敢えて今回はこうした(自分たちの関係は偽物だと認めた上で本物性を復権させた)んだよね…… てかこうしてまとめるとまんま『まぼろし工場』じゃねぇか。そもそも『キズナイーバー』後半の展開もそうだし。
男主人公が「友達になって下さい」と頭を下げるアニメとして、『負けヒロインが多すぎる!』の方が遥かにいいアニメ。『負けイン』を毎話観るたびに「やっぱり岡田麿里作品のほうが好きなんだよなぁ」と愚痴っていたつけがここに来たか……まさか逆のことを言う日が(負けイン観終えるまでに)来るとは……
(最終話を観たら全話の感想をまとめて投稿します→しました)
「幼馴染モノ」でこんなに嫌いな作品も珍しい。
離島での男子3人の幼馴染なかよしグループが、実は、島の謎生物の超自然的なパワーによって無理やり構築されたものだった……と大人になってから発覚して慌てる話。つまり "偽りの幼馴染関係" モノということで、本当に無理。
偽りである点のみが嫌なんじゃなくて、幼馴染として仲を深める過程・要員が作中で明確に設定され描写されている点こそ真に嫌いな部分だと思われる。仲良くなった「理由/きっかけ」が明瞭に存在しているがゆえに、その虚偽性もまた容易に言えてしまうのだから。「もしあのきっかけが起こっていなければ……」という反実仮想ifの想像力が立ち上がる余地がある。
すなわち、逆に、わたしが思う(好きな)真の幼馴染モノとは、いつどうやって仲良くなったのかが(当人たちにも鑑賞者にも)不明瞭で、知り得ない歴史の彼方に設定されている作品なのだ。いつの間にか人生の初めのほうから一緒にいた他者。そもそも関係の始点が存在しなければ、その幼馴染関係の真理性も虚偽性も判明しようがない。幼馴染とは真偽を超越したところにある関係である。そこには「もしあぁしてなかったら……」というifの想像力が立ち入る隙が原理的に存在しない。わたしが〈わたし〉であるために切り離せない、深くこの身に刻まれている根源的な謎=アイデンティティとしての幼馴染。
……結果的に、こうして自分の〈幼馴染〉観への理解を深めることができたことは嬉しい。観てよかった……かなぁ。
「母親が出ていく」ところから全てが始まる ← いつもの岡田麿里要素
どうして秋君が好きなのかと訊かれて奈南が即答する「顔。……それと身長」 この台詞には笑ったが、これも岡田麿里一流のミソジニー。女を、というか人間を舐めすぎている。
マスコット的な立ち位置の「ふれる」が、率直に言ってキモいし、(愚かな)人間の関係を超越的に支配・制御して観察する神さま的なやつかと思いきや、終盤で主人公(秋)とのエモい関係……!みたいな感じに着地させられてて、マジでどっちつかずでモヤる。「運命の出会い」はもういいんだよ。
このように、何もかもが嫌い過ぎたために、中盤の男女5人の(非現実的な)同居生活が破綻するサプライズパーティーの件なんかをことさらに取り上げて、男たち3名のホモソーシャル性を批判する気が帰っておきない。そりゃ酷いんだけど、この映画はもっと根本的に合わないので。自分のお得意のフェミニズム批評(もどき)ができない。
無駄にホラーで無駄に長くて無駄に仄めかすストーカー男のくだりもキツすぎるのだけど、彼の存在はおそらくこの映画に必要で、主人公たちが獲得しようとした人間間の強い結びつきの、誤った形成・発露方法の具体例として彼がいるのだと思う。最後に再登場して、肩を警官に「ふれられる」のも上手い。非接触による人間関係(ストーカー)から接触による人間関係(逮捕)へ。
冒頭から繰り返される、高身長の主人公が頭をぶつける「痛っ」という台詞。そして「ふれる」に触ったときに誰もが発する「痛っ」という台詞。これらがほんとうは、物理的な打撃・接触による痛みではなく、まさに岡田麿里が一貫して追求してきた人間関係の「痛み」によるものだと明らかになる展開と設定には……なるほど、やるやん、となった。
また、終盤に東京の街を覆う「ふれる」の “糸” は、おそらく『さよ朝』におけるヒビオルの織物、縦糸と横糸によって織りなす繊維の「糸」(中島みゆき)に相当するものであると気付いた。これによって本作の評価は特に上がらないが、『さよ朝』を岡田麿里の「痛み」の主題系に連ねる上でのいい踏み石にはなった。「ito」と「ita(m)i」の音韻的な類似性(「痛い=居たい」のような)。
『さよ朝』ではヒビオルは人の人生の隠喩ともなり、糸のモチーフを「髪」に繋いでの "断髪" シーンなども描かれていた(自分という歴史を断つ)。それを踏まえれば、「糸」が、"ふれる"の涙のモチーフを経由して瞬間的にふわふわした白い「玉」になって空に浮かび上がる本作のクライマックスは、東京の無数の人々の人間関係の積み重ね/織り成しを一瞬にして「泡」に帰す、どこまでも人間関係を本気で描こうという気概が見えない、残酷で馬鹿げたラストだったことになる(それは鑑賞中のわたしの実感とも合致する)。
『まぼろし工場』では、主人公たちが非現実世界の「まぼろし」であることを突き付けられながらも、恋愛/性愛を通じて、たしかな現実を生きていくのだと開き直る物語だった。それでも作中で描かれる世界がほとんど「まぼろし」であったことに私は不満を覚えたものだったが、今回は逆に、リアルな高田馬場周辺の東京の街を舞台にしていながらも、冒頭から相次ぐダイジェストシーケンスや、終盤の"ふれる"の体内?の非現実空間──そこではすべてが脳内で描いた通りになるらしい──のあまりにしょぼい描写など、『まぼろし工場』をゆうに上回る不満と落胆を覚えた。
リアルな現実世界が舞台ならば良いのではなく、そのなかで非現実的なことが大きく取り沙汰され、しまいにはファンタジー空間に行ってしまう物語など、わたしのもっとも苦手なものだ。
これまでの超平和バスターズ作品でも、成仏できないめんまの幽霊や、13年前の未練が結晶した生霊/地縛霊といったファンタジー要素を扱ってきた(『ここさけ』の「タマゴ」は順の妄想であり、明確な非現実要素はないと解釈している)。
しかし、めんまにしろ、しんのにしろ、いずれも人間キャラクターに非現実的な属性を与えているものであり、いくらファンタジー要素が入ってきても、それはどこまでも人間と人間の生々しいコミュニケーションや関係を扱うためのものであった。
『あの花』のめんまは、疎遠になっていた他の超平和バスターズの5人を再結集させるための単なる舞台装置ではない。めんまも含めた6人で「超平和バスターズ」である。
『空の青さを知る人よ』であおいが恋をしたのは31歳の慎之介ではなく18歳のしんのである。生霊だろうが生身の人間から恋をされたらそれは明確に「人間」といってよい。
また、しんのは山中のお堂(ギター)に縛られており、ファンタジーの有効範囲が空間的に限定されていた点も、秩父のリアリティを見事に描き切った傑作としての『空青』には必須だった。
しかし『ふれる。』ではまず、離島の民間伝承の中の異生物として"ふれる"を持ち込んだ。あまりにも雑な設定である。
これまでの秩父三部作は、秩父という土地に深く寄り添った物語群であるにも関わらず、意外にも、秩父の土着的な信仰要素はほとんど扱ってこなかった。『ここさけ』の神社の卵信仰が軽く触れられるくらいだろうか。『あの花』の龍勢祭打ち上げ花火も、土着信仰として描かれたわけではなかった。『空青』でお堂にしんのが出現するのも、神社の信仰ではなくあくまでしんの個人の未練によるものである(だからこそ非現実要素が人間ドラマに上手く組み込まれていた)。
『ふれる。』の「まふれ」島のモデルがどこかは分からないが、秩父じゃないからってあまりにもその土地を軽薄に扱い過ぎではないか? 雑な土着信仰さえ描いておけば〈土地〉を扱ったことになるわけではない。それではあまりにも舐めている。
山に囲まれた盆地である秩父と、海に囲まれた離島は、考えてみれば正反対の舞台空間であり、岡田麿里がつくづく離島に興味がないことがわかる。
実質的には〈秩父〉を扱っていた『まぼろし工場』の見伏は海に面していたが、「海路がどういうわけか塞がれている」という完璧な(バカ)設定によって概念上の〈秩父〉として確立した。そして実質的に秩父の武甲山であるところの「山」を見伏の神さまとして土着信仰要素に用いて、大がかりなSFファンタジー空間を作り上げていた。
あるいは、これまでの他の岡田麿里作品で土着信仰的な設定が扱われているものといえば『ひそねとまそたん』の"竜"(これは樋口真嗣の原案)、『泣き猫』の"猫"くらいだろうか("猫"に土着信仰感は希薄だった気がする)。
このうち、『ひそまそ』の竜(OTF)は、『ふれる。』の "ふれる" に通ずる扱われ方をしている。つまり、作中での人間関係を駆動させるための舞台装置(機械)でありながら、主人公(人間)との異種族交流も重要なテーマとなっており、人間という種に囚われない、より広範な「コミュニケーション(繫がり)」を描くためのキャラクターである。OFTは日本列島という広スケールの "土着信仰" 要素であった。
(異種間交流モノといえばネトフリの『ONI』(2022)がまさに当てはまると思うのだが、わたしの怠惰によってまだ観ていない。岡田麿里オタク失格。)
……話のまとまりが無くなっているが、ともかく、『ふれる。』で土着信仰として "ふれる" を組み入れたこと自体がわたしには失敗だったと感じられる。『ひそまそ』のひそね(人間)とまそたん(ドラゴン)の関係に感動できたのは、まそたんの可愛らしさと、1クールで積み重ねた交流の描写があったからだ。『ふれる。』では、男子3人と"ふれる"1匹の過ごしてきた日々がダイジェストで雑に流されており、また東京で同棲し始めてからも、"ふれる" は単に、人には見せられないが便利な道具/ペットとして描かれているようにしか見えなかった。
トゲトゲで触ると痛くて、ゴキブリのようにカサカサ動くその見た目がシンプルに愛らしいとは思えなかったことがいちばん大きい要因であるとは思うが。ふれる、かわいいか? キュゥべえをかわいいと言うならそうなんだけど……。
(人間たちの不穏な支配者にして元凶……という描かれ方はまさしくキュゥべえと同類だろう。しかし『まどマギ』でいったら、カタストロフがあって最終的にまどかときゅうべえがこれまで一緒に過ごしてきた絆を確認して「和解」して終わる話──をやっているので、いかに『ふれる。』の脚本が馬鹿馬鹿しいか、"ふれる"の扱い方が致命的かが分かってもらえるはずだ。)
そして、土着ファンタジー存在である"ふれる"が、終盤ではその本性を明かして、東京の街に「糸」を伸ばしまくる。このように、ファンタジー要素の範囲が作中で限定されずにどんどん拡大してしまうのも非常に嫌いな展開だった。
ふれるの糸が触れた人間は本音を発してしまうのであちこちで瞬発的にトラブルが発生する……という展開も馬鹿げている。普遍的な人間間のコミュニケーションを扱おうとしているときに、なにも安直に、このように実際に都市の多くの人々(モブたち)に影響を及ぼしているところを描いてくれなくともよい。それは群像劇でもなんでもなく、ただ人間を舞台装置として扱っているだけだ。
真の群像劇、人間関係モノをやるならば、明確に限定された複数名のキャラクター間だけで話を完結させるべきだ。主人公グループの仲間のせいで町中が大混乱に陥るのは『キズナイーバー』終盤を思い出すが、あれは1話の時点からそういう計画都市が舞台の近未来SFモノだという前提があったし、一体のファンタジー存在の巨大な力によるものとは全く異なる。(とはいえ、『キズナイーバー』ののりちゃんの扱われ方もかなり可哀想で不満があったところは、"ふれる"に通ずるものがある。)
また、"ふれる"の能力を使って、身体接触によって3人が気持ちを共有する描写は、アニメ映像として何とも陳腐で馬鹿馬鹿しく、まったく新鮮味も面白味もないものであった。「自分とは違ってあいつらの心は純白だと思っていたのも、あのとき自分が恋愛感情を伝えてリアクションが無かったのも、すべてはそういうことだったのか~~!」←馬鹿馬鹿しすぎる……
超平和バスターズの最新作として何がショックかって、脚本だけでなく、映像(作画)も演技(声優)も音楽も何もかも刺さらなかったということだ。作画リソースが厳しかったのか?と心配に思うほどだったし、横山克とTeddyLoidの劇伴はかなり苦手だった。
長井監督のコンテ演出は……わからん。脚本と作画が苦手だったせいでコンテ演出まで悪印象があるが、本当のところコンテが苦手だったのかは不明。
本編の酷さに比べれば、いつものYOASOBIタイアップを批判する気もまったく起きない。エンドロールに辿り着くまでに既にそういう憤りと呆れは出尽くしているので。もはやそういう次元にはない。声優素人(アイドル)の演技の拙さも、最初は面食らったが、そういうのをいちいち指摘したいとは思えない。
ただ、秩父三部作のキャスト陣の声がいろんなモブから聞こえたのには、明確にウザいと感じた。いいんだよそういう内輪のゲスト再出演は。
超平和バスターズの劇場版第4作である今作があまりに酷かったので、やっぱり舞台が秩父じゃないと駄目だぁ!と思いそうになるが、それでも、しっかり秩父を出たことは評価したい。なにも岡田麿里本人のように秩父から「上京」しなくてもいいのに、とも思うけど(別の田舎を舞台にしてほしかった、凪あすやまぼろし工場のように。)
あと、もしも本作の舞台が秩父で、これまでと併せて〈秩父4部作〉などと言われることになっていた場合を想像すると、心底、東京で良かった〜〜と思う(よくない)。
観ている最中も、そして観終わった今でも、「こんなのが岡田麿里の……超平和バスターズの最新作なのかよ……」と思っている。悪い夢だったらいいのに。でも、それもまた大好きな作家のキャリアのひとつとして受け止めていくしかない。わたしはこの現実を生きていく。岡田麿里、超平和バスターズ、次回作に期待してるからな……
これまでの岡田麿里note