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期待は自分の理想像

前回のnoteで述べたように、私は期待することを辞めました。
それは自分の心を守るために行った当時の自分なりの行動です。



私は誰かに期待することは

自分の理想像(価値観)の押し付け

なんじゃないかなと考えています。
例えば、親が「勉強するって言ったよね?」と怒ったとして、するとは言ったがやる保証はどこにもないわけです。勝手に親が「勉強する」と返答したからしたと期待しているだけであって。
するしないは個人の自由かな。なんて思ったりしています。



友達だと思っていたのに、裏切ったな
というのも、今となっては身勝手だなと思ってしまう。
友達だ!と握手を交わしたわけでも、紙に契約書を書いたわけでもないのに何を根拠に友達だと思って「裏切った」などと言っているのか。

ただ単に、自分の理想とする私を無意識のうちに作り出して「多分、榊原だったらこうしてくれる」という脳内妄想で話が勝手に進んでしまっているから裏切られた。と勘違いしてしまうのであって。正しくは、新しい一面が見れたなんじゃないかなと考えています。


誰が悪いわけでもないから、相手を責めることは間違っているように感じた