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(下書きだけど公開)2021年の作品展示を振り返り。1月GOOD NATURE STATION、11月建仁寺塔頭両足院、The TERMINAL KYOTO。「eternal commons」「再び森が薫る」
本年の作品展示予定を終えた今、当該作品や展覧会について振り返りつつ記述しておきたいと思う。
その前の個展「わたくしのいもうと」は新型コロナウイルスによる一連の活動制限の起こる直前に会期を終え、またその会期中に父が亡くなるという事態も起き、私はしばらく自ら活動を起こす必要はないと考えていた。そもそも伝染病の蔓延は人々の活動を介しててあり、元来むやみな経済活動あるいは利己的な快楽追求を目的とした活動(旅行、観光、飲食など)そのものを軽蔑している私としては(現実においては調査旅行や飲んだりするのはかなり好きですけどね)人間の活動が抑制され、静かな日々が強制されることはむしろ喜ばしいことであった。とはいえ、想定外の末妹の死によるショックに加えて、新型コロナウイルスの蔓延による活動制限、それに加えて職場環境の変化によるストレスは、内憂外患として私をかなり追い詰めていた。しかし、遡って2月の父の死は私の心理にとっては、むしろ安寧をもたらすものであった。それは、あの世というものがあるのかないのかはわからないけれども、末妹をひとり黄泉の道に放り出しているような不安感罪悪感が、父の死によって、その守るべき任を父にしてもらえるという勝手な気持ちからであった。そもそも我がきょうだいの対人恐怖や対人関係不適応の原因は父の厳しすぎる幼少期のしつけ(今なら虐待)にあると考えていただけに、父には当然その回収を死後にしてもらわねばならないと思っていた。とはいえ、父の死により伝来の位牌の数々の中に納められていた先祖たち一人一人の戒名や俗名の書かれた札を初めて目にし、生きている側の人間よりも死の側に往った人間の方が遥かに多いということは、人間というのはそのほとんどは死者であり、現存し生きている人間の方が数少なく僅かで頼りなく儚いかりそめの存在なのではないか、ということに気付かされたこともあった。また、ちょうど流行り始めていた『鬼滅の刃』は不慮の原因により人間ならぬものに変わってしまい錯乱し苦しむ妹を守る兄の話ということで、私にとっては世間とは違う角度からも刺さる内容であった。(2021年12月:以後改稿しつつ続く/予定)