ホントに「おっさん」って、さよならしなきゃいけないんだっけ?
NewsPicksの「さよなら、おっさん。」という広告を見て、とてつもなくゾッとしたのでnoteに書いておこうと思いました。
「さよなら、おっさん。」というワードとこれで広告を打とうと考えた人たち。とても古い考え方だし、浅はかだと思う。
引っかかったことの中に、いわゆる「おっさん」の扉が見えている自分にとっては他人事でないというのはあるが。にしても、久しぶりに絶望的な気持ちになりました。
各所にも書いてあるけど、これは
おっさん vs 若い世界
みたいな分断を加速させる行為であり、世代間の対立構造を煽る行為でしかない。
これからの女性の地位が上がる(べき)社会において。
マイノリティがどんどん声を上げることができる社会において。
おっさんという謎のマジョリティはどんどん肩身がせまい立場になる。
駆逐される勢い。勝手に駆逐されていくのも、もはや自明。
おっさんとざっくりカテゴライズされても、人はそれぞれ各々の問題や悩みを抱えているものである。
であるのに
マジョリティでかつ力がある(という振る舞いをしなければいけないのも含めて)おっさんは、そうであるが故に「もっと大変な人がいる」という世間のなんとなくの総意によって、声をあげることすらできなくなる社会が待っているかもしれない。
杉田 俊介さんの
「非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か」
はそんな本だった気はする。
ツラい世界だ。
たしかに、ぼくらの世代を「これだからゆとりは。www」とか言ってバカにしてた人たちが実はダメダメだったんだという想いはある。
だからといって、これからどんどん肩身の狭い思いをするであろうおっさんを追いやるように、煽っていいのだろうか。
「さよなら、未来」とか。「さよなら、インターネット」とか。
「さよなら、◯◯」は流行っているのかもしれないけど。
それは、「未来」も「インターネット」もその手放しがたさを手放そうという意図があったんじゃないのか。
それを、ほっといてもこれから衰退していくもの(おっさん)に追い打ちをかけてなにがおもしろいんだ。
さらに若林恵さんの「さよなら、未来」では「未来」の捉え方そのものを変えなければという話だった。
であれば、おっさんという言葉の捉え方そのものを変えなければいけないんじゃないのか?
今後ますます文脈が消失して分断が進む世界に必要なのは、文脈を復活させてバラバラになった世界をなんとかつなぎ合わせることなんじゃないのか。それがメディアのできることなのだと思っている。
個人的にこれから必要になってくる価値観は、歴史としてとか文脈的に物事を捉えることだと思っている。
それは「それ僕らの時にもあってだな。だから、別のやり方しようぜ」みたいな、極めてうざくおっさん的で老害みたいな感覚かもしれない。
でも、全てのことがベタに教養もなく勢いで進んでしまう世界。
それの隣で、「これって、こういうことでしょ?」って勝手に別の世界に繋げてしまう想像力が必要なのだと思われる。
なんにせよ煽ってバズって購読者増やすのが目的だったり、議論の俎上にあげたからいいのだ。という意見もあるとは思う。
でも、「より多くの人の目に届ければ良い」という価値観は極めて広告的で、
それは、NewsPicks自体がさよならしようとしてる「おっさん」的存在そのものだ。