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【誰かが、なら、私が。】から1年経って感じたこと

誓いを立てた日

1年前、とある記事を書いた。

カンボジアでインターンをしていて

学校を中退した子供たちや貧困家庭の子供たちを預かり、住み込みスタッフとして支援をしていたあの頃に。

私も1月には帰ります。

残る少ないインターン生で、住み込みスタッフの7人を支えていくという試練。

そして、彼らもいつかは日本に帰る。

そうなった時に、今後どうなるんだろう、ってすごく胸騒ぎがするのです。

きっと、また新たにインターン生が来て、彼らと関わっていくのでしょう。

ですが、それは今、私たちがしている支援や関わり方とは違うかもしれません。

そう考えた時に、ふと思うのです。

わたしが、彼らを、最後まで見届けたい。と。

わがままかもしれません。

でも、それが本心です。

彼らが、高校を卒業するまで見届けたい。

途中で、再びドロップアウトすることのないように近くで支えていきたい。

できることならば、このままカンボジアに残り、現地スタッフとして、このプロジェクトやスクールを続けていきたい。

そんなことを強く思うようになりました。

インターンと、仕事は、違う話かもしれません。

そんな軽い気持ちではだめだ、とも思います。

ですが、私は、このプロジェクトをやり遂げたい。

会ったことのない誰かがやるならば、私がやりたい。

日本に行って、おしまい。

じゃ、だめな気がします。

帰ってきて、責任を持って続けていく。

自分が今一番やりたいことは、これだ。

夢中になってできることは、これだ。

『他者のために、他者とともに生きる』

ずっとずっと、追いかけてきた言葉を表すものが、やっと見つかったような気がするんです。

日本に帰って、一から仕事を探して社会のために働くのなら、私はカンボジアで、彼らのために働きたい。

今は、そんな思い。


誰かが、なら、私が。|やましたあやの🐼🇰🇭 https://note.com/kk211/n/nc175958bd29d


1年前、これから先も、カンボジアの子供たちを支えていこうと誓った。

誰よりも近くで、彼らの成長を見ていきたいと思った。

そんな若かったあの頃から、1年が経った。

今、私の中で色んな言葉が駆け回ってる。

それは、時に私の心を惑わしている。

研修で聞いたある言葉

わたしは、日本に帰ってからは放課後等デイサービスという障害児の通所施設で児童指導員として働いている。

つい最近、ある研修に行った。

そこで出会った講師の先生は、児童養護施設や自立援助ホームという家庭の事情で学校を辞めたり、働かざるを得ない高校生など若い世代の子供たちを支援する施設を経営している方だった。

支援をしていく、ということでお話をされている中である言葉に、わたしはビビッときた。

「30歳、40歳まで面倒を見る、という支援は絶対やめた方がいい。自立に向かっていけるような支援が望ましい」

うろ覚えなんだなぁ。

大きくなってまで、ずーーっと私が面倒見ますよ!っと言うのは、良くないということ。

そのような覚悟を持ってるならやればいい、けど、それはその人のためにはならない。

という意味合いだと思うのね。

確かに〜、と。

ふと、自分がこの先やってみたいことと照らし合わせてみた。

自分の想像の中では、30歳くらいになった私と、日本語を勉強して、日本に来ている住み込みの姿とがある。

いや、いつまで続くんだ。

とても難しい話である。

昨年はじまった住み込みプロジェクトは、数年前の住み込みプロジェクトとは違い、年齢層が遥かに低い。

高校卒業は遥かその先。

日本語を学びにプノンペンへ!なんてまだまだ。

いつかは日本に。って日が果たしてくるのか。

前例がないから、想像がつかない。

だから、いつまでも続けていかないといけない、という気になる。

では考えてみた。

そこまで続けることにこだわったのは

続けることにメリットがあるからだと思ったから。

でも、今年、そもそもの続けること、への危機感を感じてしまった。

1年前に描いていた未来はいずこへ。

とりあえず今の現状から知ることにした。

①もう誰も学校をやめて欲しくない

コロナがここまで影響するなんて、帰国した時には思わなかった。

また当たり前のように、続いていくものだと思っていた。

そんな生活が一変。

休校、からの活動休止。

それは、私にとっても彼らにとっても悲しいことだった。

学校に行く代わりに、働きに出た子がいた。

学校がなくなり、暇を持て余し、生活が悪化する子がいた。

学校をやめてしまった子がいた。

描いていた未来が、形を変えた。

②だけどもみんな、日本語は学びたいんだ

だけども、希望はあった。

学校を辞めた子からは

「学校を辞めたのは、カンボジアの勉強じゃなくて、日本語を勉強したかったから。」

「CBBが恋しい。いつはじまるの?いつ帰ってくるの?」

と、メッセージが届いた。

他の子は、日本への憧れは薄れておらず、秋の写真を送っては「きれい、行きたい」と言ってくれた。

他の子は、日本人が恋しいのか、メッセンジャーで毎日のようにメッセージや電話をかけてきて、「何してるの?」と日本語で聞いてくれる。

また、インターン生や住み込みスタッフたちがいるグループを作って連絡を取ろうとしている。

みんな、なんだかんだで恋しいんだ。

繋がりたいんだ。

そんな気持ちがわずかながらに見えて、安心した。

これで終わりにしないぞ、って、また希望が見えた。

③繋げよう、それが今できる最大限のこと

コロナ禍でも幸いなことに、インターン生の応募は途絶えなかった。

インターン生が来ることは=住み込みプロジェクトの再開やスクールの再開を意味する。

1年前のわたしは、このプロジェクトをはじめたインターン生がいなくなった時、このプロジェクトは次にくるインターン生がちゃんと続けてくれるのか、と不安があった。

だから、わたしが当時だした決断は

誰かが、なら、私が

というものになった。

ほんとに、コロナがなかったら帰国後半年日本でお金を貯めて、6月には戻ってくる予定だった。

またみんなと暮らす予定だった。

予定は未定ってまさにこのことだ。

入国制限がかかったカンボジアは、私にとってはハードルが高かった。

自分の月収よりも高い2000ドルなんて、福祉職の安月給にはポンっと払えない。

だから、行けない間は自分の仕事をすると同時に、CBBの事務仕事を手伝うことにした。

その中で特に力を入れていのが、インターン生の受け入れだった。

先程も話したが、コロナ禍でも絶えず応募が来るインターン。

応募メールから、Googleフォームの提出へと無事に繋がったインターン生候補の方と、面談をした。

わたしのするべきことはひとつ。

カンボジアで我々がしてきたことを伝えること。

日本語教育について、村生活について、カンボジアについて、住み込みプロジェクトについて。

そして、もっと上と下の繋がりを作ろうと、オンラインイベントも企画した。

CBBについてや、村について、日本語教育について、引き継げることはみんなで引き継いだ。

新しいインターン生を同士を繋げること、過去のインターン生と繋げること。

これが成功したことで、新しい世代が始まったような気がした。

また、明日は第2弾として「住み込みプロジェクト」をメインに話すオンラインイベントがある。

新規インターン生5名と、昨年度インターン生の5名の総勢10名でのイベント。

だんだんと、繋がりを広めていく、深くしていく。

着実に出来ている。

こうやって、繋がりが強くなっていく中で、今まで抱いていたひとりよがりな気持ちが、変わってきたような気がする。

この人たちを、信じてみよう。
これから来るインターン生は、きっと大丈夫だ

これから、よろしくね。

このまま持っていたい気もしたけど、バトンを回すことにした。

わたしは、OGとして、新たな支援のあり方やその先を考えていきたい。

④わたしにできること

たとえていうなら、アドバイザーのような。

活動を続けていくなかで、誰かがそばに居ることも大事。

それは、私がカンボジアでインターンをしているしているなかで強く感じたこと。

だけど、日本に帰ってから、コロナを経験することで、そばにいる存在の大事さと同時に、その先に導いていけるような存在も大事じゃないか、ということに気づいた。

夢を夢で終わらせない。

その先を一緒に考えていく存在。

これからも、いろんな人から頼ってもらえる存在。

学校を辞めた。

じゃあこれで、プロジェクト終わり。

じゃなくて。

じゃあその先はどうする?

日本語学びたい?

日本で働きたい?

じゃあこの先どういう人生設計にしようか。

なんて。

誰よりも人のために動く人になりたい。

彼らの道が閉ざされることなく、彼らが自分の足で歩けるようになるまで。

仕事を見つけて、お金を稼げるようになるまで。

あわよくば、彼らの夢が叶うまで。

見届けたいじゃない。

それなら、1人じゃなくてみんなでやりたい。

それが、わたしが今後カンボジアでやりたいこと。

絶対にいくんだ。

またみんなに会うんだ。

それが実現する日までは、インターン生を信じたい。

すでに昨日、カンボジアに無事に辿り着いたインターン生がいる。

最初のバトンを受け取った彼女に、まずは最大限のエールを。

がんばれ!!!

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