敵は正しさだと思う
敵は正しさだと思う。
コロナになって、「正しさ」が巨大化した。
お楽しみ、娯楽の殿堂のはずのM1グランプリでさえ、「あれは漫才なのか?」なんていう「正しさ」の議論が大手を振っていて、ぼくは優勝した彼らの漫才では1秒も笑えなかったんだけど、それはそれでいいと思ってる。「演芸」に「正しさ」を入れるなんてヤボは、よそうぜ。
「正しさ」なんて、いい加減なものだ。ぼくたちは世界を認識、識別しているつもりになってる。しかし、「何を識別しないか」でぼくたちの世界はできているのだ。
白紙のスケッチブックに色鉛筆で線を引いてみる。線でできた2つのスペース、それぞれにA、Bと名づけた。Aは線によって「Bではない」ことがわかるし、Bも同様に「Aではない」。
ぼくたちの世界はこのように、「ではない」で、成り立っている。
学校出て、旭化成に入社した。旭化成社員であるというアイデンティティは「サントリーの社員ではない」ことで成り立つ。逆も同じく、サントリーの社員は「サントリー以外の社員ではない」ことで成立する。
「正しさ」というのは、「ではない」ことをただ言うだけに過ぎず、それは、パンダに「きみ、パンダだね」と言うのに等しく、何も言ってないのと同じなのだ。
そしてぼくが「パンダ」と言うとき、それを耳にした人が脳内にイメージするのは写真で強く印象に残ったこのパンダかもしれない。
あるいは、人によっては、神戸南京町のコーラ自販機上のこのパンダを想起するかもしれない。
あるいは、郵便ポストの上に乗って仕事しているこのパンダかもしれない。
枝にぶら下がっているパンダを想起した人はコーラ自販機上も、ポストの上のも想起「しない」ことで「私のパンダ」を成立させている。
正しさの主張は、これと変わらない。
「あなたにとってのパンダは枝にぶら下がっているかもしれないけど、わたしのパンダは郵便ポストの上にいるのよ」
だからあなたのパンダは正しくない、というのは明らかにおかしいよね?
世界はエントロピーに満ちている。エントロピーの量はぼくたちが何を識別「しないか」によって変わる。だからトムにとってのエントロピーとエミリーにとってのそれはまったく量・質ともに違う。違うのが当たり前なのであり、同量・同質にできるわけがないのである。物理的にも。
「正しさ」を捨てよう。正しいか、正しくないか、ではなく、楽しいか、楽しくないか。
今年から、企画会議のルールを、これに変えてみるといいよ。