斎藤玲児レトロスペクティブ
《Documenting20240811》
斎藤玲児レトロスペクティブ
於:SCOOL
コロナを発症してから13日目。第11波かなんかが来てるという2024年の夏にもなって初めてコロナに罹るとは、我ながら話の種にもならないどんくささではあるが、3日3晩高熱が続いて死ぬかと思った。それでも症状が落ち着き、すっかり普段通りに戻ったはずなのに、なぜか極端にやる気が出ない。もともと盆休みのタイミングで罹患したものだから(休みに限って体を壊すのはフリーランス病でもある)、休みボケみたいなもんかと思っていたが、今に至るも机に向かって何かしようとするたびにめんどくさくなって寝てしまう。困った。あと味覚もおかしくてコーラの味がしない。あえて見ないようにしてきたがこれは完全に後遺症なのかもしれない。困ったなぁ。
むしろ外に出ているとそれなりに元気なこともあって、SCOOLのシネマテーク第四弾として行われた斎藤玲児レトロスペクティブを観に行った。斎藤は1987年生まれ、武蔵野美術大学の油絵学科出身で、在学中から映像作品を発表しているという。今回はその初期のものから最新作までほぼすべての作品を上映する企画で、私は最初のAプログラムと最後のDプログラムを中心に見た。
「1」〜「12」というそっけないタイトルが打たれたAプログラムの12本は、2008年〜2010年までに作られた4〜7分の短篇で、どれも写真とごく短い動画をモンタージュして構成されている。映っているのは食卓の風景や道端の虫、友人らしき人々といったもので、作家の身の回りのものを記録した日記映画のような内容だが、なぜかそこから作家の生活や説話的なストーリーが立ち上がってくることはない。ムサビ時代の教師でもある佐々木敦は、これらの作品を「脱ナラティブ」と表現している。斎藤の映画におけるモンタージュは、意味化や物語化、つまり観客によって解釈されることを固く拒んでいる。これは考えてみれば驚異的なことで、たとえば友人の顔、食べ物、風景のショットと続けば人はどうしてもそこに星座的連関を読み取ってしまうだろう(友人との一日の出来事を描いている、とか)。また、カットとカットを無意識に関連付け、意味するところを汲もうとするのが人間の認識のあり方だ(「クレショフ効果」として知られるもっとも基礎的で強力なモンタージュの作用)。だが斎藤の作品では、おそらくネガフィルムとビデオカメラの映像の質感の違いや、極端なクローズアップによる状況の不明瞭化によって、カットのつながりは解釈を拒むように投げ出されている。ゴーとかガサゴソといった環境音らしき音が付いている作品もあるが、それらの音は各ショットの内容と関係がないし、カットをまたいで同じ音響が続くことによって映像と音の分離も強調されている。
こうした編集方法は作品によって少しずつ異なっている。たとえば今回の全プログラムにおいて唯一ナンバリングタイトルではない『dog & video』という作品は、主に空にはためく鯉のぼりと、道端で日を浴びながら寝ている犬の動画からなっていて、撮影時にビデオカメラが捉えたであろう音がそのまま使われている(したがってショットの内容と音は一致している)。しかし驚くのは、この作品の終盤で犬が斜め上を向いた後に、鯉のぼりのショットが続く箇所だ。普通であれば犬の視点ショットを示すように思われるつなぎ方なのに、なぜかそうは見えない。その理由のひとつは、アングルの違いに由来すると思われる。犬が斜め上を見る時、その視線の角度は水平から20度くらいの浅めに位置しているのに対して、鯉のぼりを映すカメラの仰角は60度くらいあるので、アングルがぜんぜん一致しないのだ。さらにもうひとつの理由は、手持ちのビデオカメラによる荒い映像自体が、とても犬の視点には見えないということだ。このビデオカメラ=装置による視覚という特徴については後に検討する。だがここまでくると、カットとカットを関連付け、意味を立ち上げるというモンタージュの効果を、作家が意識的に拒んでいることは明白なように思われる。
で、Bプログラムの途中に会場を出て劇団アンパサンドの舞台を観に行き(後述)、戻ってきてからDプログラムの作品を観た。これは2022年以降に作られた最新作を含むプログラムである。フィルムカメラの写真が多く使われていたAプログラムと違って、近作はほとんどがビデオカメラの動画で構成されていた。さらに、サメ科らしき魚のユーモラスな顔、銀色にきらめくルアー、水槽から水を吸い上げるスポイトといったものが(ときに作品をまたいで)何度も登場することによって、まさに星座的連関を感じさせるものになっている。また、初老の男の寝顔、ミルクを飲む赤ん坊、その父親と思しき若い男性といった映像からは、ある家族の姿も立ち上がってくる。だが、やはりここには「脱ナラティブ」的な手つきがある。それはビデオカメラの扱い方だ。対象を画角いっぱいに撮るクローズアップの画が多いのはAプログラムも同様だが、このDプログラムの映像は、ビデオカメラを目一杯ズームすることで手ブレが発生し、オートフォーカスも対象を捉えきれず「ピント迷い」の状態になっている。結果、強調されるのはそれがビデオカメラという装置の視覚だということだ。もはや作家の制御を離れたこれら装置の生成した映像は、人間的な感性を超越した視覚世界の存在を感じさせる。一体、こうした装置の視覚に人はナラティブを見出すことができるだろうか。ここから翻ってわかるのは、実はAプログラムの作品においても、解釈を拒む編集によって強調されていたのは、フィルムカメラやビデオという装置の視覚だったということだ。初期の作品において、フィルムのスチール写真とビデオカメラの映像が交互に組み合わされていたのは、観客を単一の質感を持つ視覚世界に没入させることなく、装置ごとに異なる視覚世界を常に意識させるという効果があった。人間には制御できない装置の視覚は、我々の視覚世界を相対化するとともに、いまだ掘り尽くされていない装置の可能性をも示唆するだろう。
ここからは斎藤玲児の作品に直接関係ないのだが、やはり装置の視覚を強調した作品を手掛けるふたりの作家を挙げたい。ひとりはイメージフォーラム付属映像研究所出身の栗原みえで、彼女は『雲とか虫とかテツジョウモウ』(2014)までは8mmのフィルムカメラで制作していた。『雲とか〜』はまさに雲や虫や鉄条網といった作家の偏愛するものにカメラを向けながら、自身の語りを乗せるというスタイルで構成されており、形式としてはジョナス・メカスの日記映画に近い。しかし、ただの作家の身辺日記かと思っていると、この記事の後半で紹介されている通り、映画が進むに従って強い物語性が立ち上がってくる仕掛けになっている。そしてこの物語性と不可分なのが、8mmカメラという装置なのである。国内で8mmフィルムの現像サービスの終了が予定されていたことから、この作品を最後にもう8mmでの制作はできないという状況の切迫感が、本作のフィルムの映像にアウラを与えている。斎藤玲児とは逆に、ナラティブの力を利用することで8mmフィルム独特の視覚世界を強調しているのだ。
今ひとりはコピートラベラーズの一員としても活動する迫鉄平で、主に写真や映像を使った平面のイメージを制作している作家だ。迫は2015年に17分の映像作品で「写真新世紀」という写真のコンペでグランプリを獲っているが、映像といっても、これが見事に写真的なので驚かされた。彼の映像作品は、数秒から長いものでも数分の動画をつなげて構成されている。ショットの内容は、電車のドアに反射する光だとか、風に揺れるビニールひもだとか、マンホールから水が湧き出る様子だとか、カットの最初から最後までこれといった出来事が起こらないものばかりだ。それだけでもいわゆるスナップショット的な美的価値を感じるのだが、重要なのは、人は映像ではなく動かぬ写真それ自体にも幾通りかの回路で時間性を感じているということだ。たとえば風にはためくハンカチの写真を見た時、そこに右から左へ吹き抜ける風の運動=ある幅を持つ時間の中での力のありようを感じるだろう。また、バケツに水が注がれている写真を見た時、そのバケツが水で満たされるまでの時間を予感する。そして開かれたドアを見る時は、誰かが過去にこれを開き、未来には誰かが閉じるという時間を思うだろう。なぜこのようにあらゆる回路で人は写真に時間を感じようとするのか、その謎を解き明かすのは私の手に余る(人はあらゆる現象に時間を直観する生き物であり、一方、写真は現実そのものを指示対象にしている、ということに答えがある気はする)。とにかく、迫の映像では人が写真を見るときに感じるこの時間性が、そのままある幅を持つ時間として表現されている。その意味では、迫の映像が写真的なのではなく、写真が映像的であると言えるのかもしれない。蛇足だが、15〜25分程度の迫の映像作品は、アート系の写真集に収められた写真と同じだけのショット数と、それを一点一点眺める時に鑑賞者が費やす時間をトレースしたような構成も備えている。その点でも、彼の映像作品の鑑賞感(読後感?)は、非常に写真的だと言える。かなり説明が長くなってしまったが、ビデオカメラ/スチールカメラが生成するイメージに内包された時間性を意識させる迫の作品もまた、装置の視覚を強調したものと言えるだろう。
さて、斎藤玲児の作品の上映後は、嶺川貴子と斎藤によるライブが行われた。このために作られた斎藤の新作と言ってもいい映像を流しながら、フィードバック・ノイズやガラス管を使って出した非楽音を奏で、ときどき声を乗せる嶺川の演奏は、緊張感がありながら柔らかく透明で、素晴らしいものだった。
で、劇団アンパサンドの感想も。「&」という記号の正式名称であるアンパサンドという言葉を冠したこの劇団は、女優で劇作家の安藤奎が作・演出を務めるプロデュース劇団で、私は初見。今作は松尾スズキや山内ケンジが推薦コメントを寄せ、南海キャンディーズのしずちゃんやテレビプロデューサーの佐久間宣行がアフタートークに出るとあって、早い段階から話題になっていた。その上演作『歩かなくても棒に当たる』は、とある集合住宅のゴミ捨て場が舞台。少し遅めの朝、めいめいゴミ袋を提げてやってきた主婦たちが、ゴミ収集車はもう来たのかどうか長々と議論していると、かつてここで死んだ主婦がゾンビのように蘇る。そこからは死人をごみ置き場から出す、出さないのの大騒動が始まって――。誰しも知っているような日常の一コマと、そこに訪れるB級映画的展開、そして終盤の大騒動とくれば、やはり思い出すのはナカゴーである。主宰の鎌田順也が38歳にして早逝するという痛ましい出来事から1年、その面白さを受け継ぐ才能として安藤が注目されている部分もあるようだ。だが、おそらく生まれ持った資質は大きく違っており、まず話の組み立てが良くも悪くも安藤の方がかなり丁寧である。たとえば、死んだ主婦が情に訴えて生きている主婦を騙したのを見た他の主婦は、もう騙されまいとするが、今度は「開けてござんせぇ」などとめちゃくちゃな方言で泣き落としにかかられ、「方言で言われると心が動く」と言って開けてしまうという段階的なプロットの作り方。ナカゴーの作品にはないこの丁寧な書き方をもっと突き詰めれば、別の面白さに到達できるのではないかと思った。また、最後は死んだ主婦が消えて上演が終わるが、ここまで積み上げてきてもう一展開ないのはもったいないかなと思った。
※追記
コロナ後遺症の眠り病みたいなのは、3週間経ってだいぶマシになりました。味覚もほぼほぼ正常に戻った。良かった良かった。