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作:岡田利規 演出:本谷有希子 『掃除機』

《Day Critique》154

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース
作:岡田利規
演出:本谷有希子
『掃除機』

 ドイツの公立劇場のために書き下ろした岡田利規の戯曲『The Vacuum Cleaner』の日本語版を本谷有希子が演出。岡田は、自分の作品はあまり人に演出してもらえないと言うが、普通の会話劇に収まらない形式の戯曲を自ら先鋭的に演出する岡田の作品を、あえてやろうという演出家がいないのもわかる。一方の本谷は近年小説執筆の方に比重が傾いており、新作舞台はこの10年で2本しか発表していないが、他人の戯曲を演出するのはこれが初めてだという。

 アクティングスペースには、スケートボードの試合でよく見る両側が反り上がったランプのようなセット。その下手側の曲面にはベッドが、上手側には座椅子とテレビが、そして中央奥に設けられたもうひとつのアールにはハンガーが置かれている。これらはそれぞれ、50代の引きこもりの娘、80代の父親、40代の無職の弟の部屋に対応している。本作は中年の引きこもりの子供を高齢の親が支えるいわゆる「8050問題」をテーマにしているが、社会情勢や介護の問題に立ち入るのではなく、作品はあくまでこの家を微視的に描く。劇の視点になっているのは「掃除機」で、人間の生活を人間以外のものが語るという点で『吾輩は猫である』と同じ構造だ。

 娘は毎日掃除機をかけながら大声で「お前、あたしのこと期待はずれだったと思ってるんだろ!」などと父や自分に対する呪詛を吐きちらかす。どうやらこの現状から抜け出したいという意思があるらしい彼女は、終盤に何度も壁をよじ登ろうとしては失敗する。しかし、彼女の弟とその友人が語るように、外の世界とは「クソ溜まり」のようなAmazon配送センターの仕事だったり、「くすんだ光とじめじめした大気」しかない無慈悲で惨めな場所である。それでも、この劇空間全体が閉じられた家の中の世界を描いたものである限り、ここで語られる外の話もたんなる伝聞や他人の印象論にすぎない。ラスト、外からやってきた弟の友人が、家の中の世界しか知らない掃除機に向かって発する「出てみれば」という一言は、余計なおせっかいではあるかもしれないが無責任な他人にしか言えない直球のエールだ。

 劇が終わり役者が観客に頭を下げた後、友人を演じていた環ROYがおもむろに客席の方までやってきて窓を覆っていた黒いカーテンを引いた。大きな窓の外には広い空があるわけでもなく、道を挟んだ隣のビルの窓が見えただけで、それはそれでリアルだった。劇場という閉ざされた空間で閉ざされた家の物語を見ていた観客に、外の世界を見せるというこの大仰な演出は、岡田だったら絶対にやらなかった類のものだろう。また、今回の上演では80代の父親を3人の役者が同時に演じていたが、ひとりが喋り始めると他の役者が合流してセリフをユニゾンし、やがて誰かがソロを取り、また揃ってズレながらも長いモノローグを語っていく様は、ジャズのセッションのように豊かな音楽性を伴っていた。

 本谷有希子と岡田利規は、2008年に行われた「エクス・ポナイト vol.2」というイベントで、佐々木敦の司会のもと対談を行っている。その際、本谷が岡田に向かって「カッコいい演劇やってるから」「そんな頭のいいこと私できないし」というようなひがみを何度も言っていたのが印象に残っている。確かにポスト現代口語演劇の形式を発明し演劇界の前衛として注目されていた岡田に対して、一貫して人間の業を描くストレートプレイを手掛けていた本谷がそういうポジションに自分を置いたのも不思議ではない。だが今になって振り返れば、わざわざ聴衆の前で「カッコいい演劇」「頭のいいこと」などと言えるのは、自分は違うことをやっているのだという強い自覚があってこそだとわかる。確固たる自信があると言ってもいいだろう。そういう交わらない道を歩いてきたふたりがこうして作品を共有し、岡田が書いた/本谷なら書かない長いモノローグ中心の戯曲を、本谷の感性で/岡田の方法論にはない演出を施したということは、それだけでも感動的なことではないだろうか。

(2023年3月12日記)

※下の画像は公式サイトより転載

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