見出し画像

加賀田玲・立石草太『さようならハムバム』

《Documenting20240901》
加賀田玲・立石草太『さようならハムバム』
於:水性
(2024年9月1日14時の回)

 バンド「ジョンのサン」メンバーでもある加賀田玲と立石草太による二人芝居。無印良品で働く月収20万・貯蓄なしのフリーター青年と、彼のもとにたった一本の鉛筆を売るためにやってきた文具メーカーの営業マンが、無印での接客をコント風に再現したり、言葉遊びのような「詩」を朗読するというちょっと変わった風味のパフォーマンス。しかし、役者が役を背負い、演技空間を別の場所に見立て、物語の解決に向かってセリフを紡いでいくという形式は、意外とオーソドックスなドラマ演劇的ではある。

 劇中では一度も「詩」という言葉は発されないが、どうやらフリーターの青年は「詩」を書く人間のようだ。彼は家に一人でいる時、机の上の白い紙に向かって、ブツブツと言葉の断片を呟きながら何も持っていない手を動かしている。そこへ訪問販売にやってきた営業マンは、実は先日、無印で青年に接客を受けたばかりだということが判明する。そしてたった一本の鉛筆を売りに来たはずの営業マンは、青年が職場で出会った変な客にどう接客すればよかったのか、一緒にコントを演じながら考えることになる。このとき青年が変な客の役を、営業マンが青年を演じ、営業マンの接客から青年は自分がどう振る舞えばよかったのかを学んでいく。しかし、物語が進むに従って、客の要望をまともに聞きすぎてしまうあまり働ける状態ではなくなってしまった青年に、営業マンは最後まで値段を明かさなかった鉛筆をタダで渡す。青年はその鉛筆を手にして、やっと白い紙に「詩」を刻み始めるのだった。

 この物語は、生きづらさを抱える人間(青年)が、想像上の対話者(営業マン)とともに、コントによって自身の経験を振り返ることで、自己治癒に至る過程を描いたものだと考えられる。あるいは、青年と営業マンは、同じ生きづらさを抱えるよく似た人間として最後に連帯に至ったのかもしれない。なぜなら、この営業マンは青年のよき先導者として振る舞いながらも、自身も営業成績に追われる企業戦士であることが後半に明かされるからだ。さらに、本作の形式上、この二人の登場人物をもっとも強く結びつけているのは「詩」という要素だ。当初、営業マンは丁寧なヒアリングによって青年が「詩」を書いているという情報を引き出した上で、自らも器用にオリジナルの「詩」を口にしてみせる。これは顧客との心理的距離を縮める営業テクニックのひとつでしかないが、彼らは劇中で互いの「詩」を交換していくうちに、やがて一遍の「詩」をともに詠むことになる。

 会場で販売された戯曲を確認すると、こうした「詩」ではない彼らの会話パートの多くはきっちりしたセリフとしては書かれておらず、流れだけが記されている。たとえば、営業マンが青年の家を最初に訪れた際の一幕はこんな具合だ。

(※筆者注 以下の「鹿島田」は営業マン、「高橋」は青年の名前)
鹿島田 何かを書くことがあるかを聞く。
高橋 あると答える。
鹿島田 その時は何を使って書いているかを聞く。
高橋 シャーペン。
鹿島田 なんでパソコンとか使わないのか聞く。
高橋 実際手で書いたほうがなんかいい、と答えながら、サンプルを返して、追い出そうとする。
鹿島田 鉛筆を使ってたことがあるかを聞く。
高橋 使ってたこともある、小学生の時。

 他に、台本にちゃんとしたセリフとして書かれている部分も、上演ではかなりアレンジされていたりする。要は手慣れたお笑い芸人によるコントとか漫才のようなアドリブの要素が大きいパフォーマンスだ。しかし、劇中で口にされる何篇かの「詩」、それも覚えるのに苦労しそうな固有名詞が氾濫する「詩」は、すべて事前に書いたものを正確に暗誦している。具体的な内容は後述するが、体言止めが多用され、発話のリズムが優先されているような彼らの「詩」を聞いていて私が思い出したのは、たとえばラッパーのSUIKENによる楽曲『Par Chee Tah 四千』(2000)だ。一定の世代しかわかりそうにないたとえで恐縮だが、YouTubeにもMVが落ちているので気になったら聴いてみてほしい。統合的な意味よりも連想的なイメージ、言葉遊び、そして発話の快楽を優先したSUIKENの詞世界は、日本語と英語を自在に操ったDEV LARGEの影響のもとで練り上げられたものだが、トラップ以降の現在の日本語ラップが切り捨てた可能性としていまだリサイクルされる余地があると思う。とまれ、加賀田と立石の諳んじる「詩」は、書かれた言葉を読者に読ませるためのものではなく、舞台上で発話するためにある音楽の詞、それもSUIKENのラップのように児戯めいていて、柔らかく、自由なリリックに近い。

この9月 家電量販の店店 ヨドバシ ビック ヤマダ
黒山の人々 思い思いにそれぞれの家々へ
冷蔵庫の中 決まった仕切りの中で その限りの中で
かくもうずたかきハムバムを コロッサルなハムバムを
その一枚一枚をはがしたとき しょっぱい油が手について
右襟とくちばしで拭いて
バディヤ 覚えてるって言って
バディヤ 9月に踊ったダンス
バディヤ 完璧に素直な気分で
バディヤ 金色に輝いた日々

 これが本作において最後に諳んじられる「詩」であり、これだけが青年と営業マンによってユニゾン的に発話される。ここに至って分かる通り、本作のタイトルにある「ハムバム」とは、複数枚の、それも建物の柱を思わせる円筒形の状態のハムを指す造語だ。このような多数のハムを表す言い回しは日本語にはないが、彼らは「神々」や「好き好き」と同様にハムという名詞を重ねたうえで、後ろの語の頭を濁らせ、その状態を言語化している。日本語のルールを応用した、むしろ子供が得意そうなこうした柔軟な言葉の使い方に、彼らの健康的な言語能力がうかがえる。そして発話されると不思議と心地よく聞こえる彼らの「詩」は、やはりラップや歌のあり方に近いと思う。ある表現の源泉を作家の経歴に求めるような演繹的な批評は慎むべきだが、ここにはやはり、彼らが役者であるよりも先に音楽家であるということが関係していると思われる。ひょっとしたら、音楽家である自分たちにできる演劇の形として、このような「詩」にウェイトを置いた作品を構想したということなのかもしれない。

 また、「バディヤ」が繰り返される後半部分は、これも知っている人は知っている有名な一節だが、菊地成孔のラジオのトークから引用したものだ(『菊地成孔の粋な夜電波』第22回におけるEarth, Wind & Fire『September』の意訳)。この後も同番組からの引用は続くが、他にも細切れで様々な作品からの引用や、大量の文化的な固有名詞が自由自在に接続されている。しかし、本作で詩の力をもっとも鮮やかに感じさせてくれたのは、青年がある客を接客した際のことを語った会話シーンだ。その客は、無印の脚付きマットレスの脚を2本だけ外し、傾斜をつけて使えるかどうかということで真剣に悩んでいた。一体何のためにそうするのかはさっぱり分からないのだが、この要望を聞いた青年は「なんか…めっちゃいいなと思って。いいって思って」しまったという。しかもその「いい」とは、「家で書いてる時に、いいのが思い浮かんだりとかいいのが書けた時の、いい」だった。つまり、飾らないが必要な機能が備わったベッド(まさに「無印良品」)の機能をあえて解除し、普通ではない使い方をしたいという客のアイデアに、詩と同じ面白さを感じて興奮したというのだ。「詩」というものの本質が、既存の言葉の範例を逸脱し、あるいはその用法を応用し、いまだ世界に現れていない言語世界を構築することだとしたら、無印のベッドに新しい使い方を見出し、ありふれた現実に潜勢する可能性を形にすることもまた、「詩」である。こんなことを思いつく客は、生活の詩人であると言ってもいい。そして青年がこの発想を「いい」と思えたのは、「詩」が本や紙の上だけではなく現実のありとあらゆるところに生まれる可能性があるということを彼が知っていたからなのだし、その彼の「いい」という言葉を通じて、観客もそのことに気付かされる。

 本作は今年6月にSCOOLで上演した作品の再演だという。ただ、今回の上演時間は約100分だったことから、ショーケース的なイベントの一遍として上演された6月のバージョンからはかなりアップデートされていると推測される。「詩」を膨らませたのか、アドリブの演じ方をかなり変えたのか、エピソードを付け加えたのか。また、加賀田と立石はどのように「詩」を書いたのか。分業なのか協業なのか、書簡のようにひとつひとつ書いていったのか、「ハムバム」を含む最後の「詩」から逆算したのか――など、知りたいことは山ほどある。なんせ、プロパーの演劇人ではない二人が作った、ちょっと変わった演劇だ。普通ではない作り方をしているのだろう。あと何作かは、彼らにしかできないやり方で、彼らにしか作れないこのような作品を観せてほしいと思う。

(※画像の下に、上演の模様を記録した動画あり)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?