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今日は、思うままに徒然

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うちの庭も、春らしくなってきました。
大輪の水仙は、毎年見事に咲いてくれます。
あげびの花は、 例年は、花がの後に葉がはえるのに、今年は葉が同時に・・・。
気候が例年とは・・違うのかな?

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今日は、お題なしで、「思うままに徒然」

「世の中は、嫉妬とねたみに満ちている」のでは?


人の成功や自負、自慢を誉める人は少ない
大抵の人は、無視・無反応、
一部の人は、ねたみ攻撃すらする。
成功者が育たない社会システム


弱い顔をしている方が、世渡りはしやすいのかな?


我をふり返れば、
「自分は・・・」と・・・
自分に中に、他人と比較してしまう自分を見つけてしまう。

劣等感。

自分を 目標に近づけたければ、
自分を出さないことが得策なのか?
これ、自己かい離(統合失調)の始まりでは?。

統合しづらい社会システム、


「となりの庭を眺める人は、幸福度が低い」


最近のメディアで そんなデータが話題になった。

劣等感は、誰にでもある人間らしい感覚。
劣等感自体は、問題無い。
劣等感を成長の糧にするか、
自己卑下や攻撃の糧にするか、
あるいは、気づかぬふりをするか(かい離)。
そこで、劣等感の意味づけが分かれる。

SNSや人の成功話に疲れるのは、
我の内部に内在する劣等感とのやり取りに疲れるからだと思える。

なら、いっそ、SNSの使い方を、
自分で決めれば良い。

SNS(他者)に気持ちを振り回されるのでなく、
自分の心のお世話を、自分でする。
自分の心が居心地の良い時間や環境を、自分が自分に与える必要性が出てくる。
自分の主は、自分であることが大事。

外側の自分と、
内側の自分が、

分離(統合失調)してしまわない状態(場所)を
自分に、用意してあげよう。

「他人の仕事をしていては、満たされない」


私は、技術者の側面があり、自分を高めるために技術を磨く。
技術で生きるために、命(睡眠時間や心)を削る

私の技術は、私自身の身体と心を、豊かにしているか?

自分が技術を開拓することも、次世代の元に貢献することも、とっても楽しい。
生き甲斐のあることだと思う。

されど、そのための、自己消耗は激しい。
バランス(統合)が難しい。

自己消耗の末の成果は、全体という成果で、
気が付けは、自分の元に残るモノは、消耗した自分。
そこにフォーカスすると、全体vs自分という構造か?
これ、大衆vs個人の構造
自分を取り戻す時期なのだろう・・・と思える。

自分に残るものは、何か?

考えてルーティーンを組み直し(変化)したい、
そんな気持ちになる。

欲望とか情熱とか、そんな野心なんてとおに無く

ただ、自分の心が豊かであることが、
他人に、豊かな心で接することができるようになり
しいては、関わる人々に、豊かな心で接することができるようになり、
しいては、関わる社会を、豊かにしていける自分になるというような、感覚です。

まだまだ 自分探し(変化する)したい。


ふと思う、

自分は「透明人間になりたい」と思う気持ちがある。

たぶん、人と比較されるのが苦手なので、
他者の、自分に対しての反応に、影響を受けやすいから。

「誰からも気づかれない 透明人間」の方が、
気持ちが楽と思ったりするのだとう思う。


矛盾してるけど、
「誰からも気づかれない」のは、

それは、それで、時々寂しくなることもあるんだけどね。
自由と引き替え(リスク)の 寂しさ(孤独)もあるのだろう。


だから、透明人間になりきっている 私のことを「見える人」がいると、
なんだか、涙が出てくるくらい、うれしくて、泣いてしまう。


「偶然の一致_シンクロニシティーを、探そう」


気が付くと、やっぱり、否定的自動思考に陥ってる。
過去の痛みやショックが、否定的な 思い込みを、固定化させてしまっていることが多い。

たとえば、
「自分はダメ」とか、
「自分のせい」
「絶対・・」とか、
「・・・する(ある)べき!」とか、
 決めつけや。
 悲観的な妄想、誇張。
 優劣な価値感。

https://kizuki-ya-k.hatenablog.com/entry/2017/02/08/142004


「否定的自動思考」は、ぐるぐると考え続けても、

否定的な結論を、自分にすり込むだけで、
脳のエネルギーが消耗して、脳の疲れ(ウツ・鬱病の要因)になってしまう。


わかっているけど、気が付くと、思考が否定的に偏ってる。

特に、疲れているとは、「否定的自動思考」に おちいりやすい。


カウンセリング心理学での、「否定的自動思考」について、
陥っていると気づいた時の対処法として、

「考えを止める。」という方法がありますが、


浄土真宗の「念仏」って、
「否定的自動思考」を止めるための、呪文の役割があったのではないかと、
思えてきました。

確かに、
悲しみや、痛みは、
多くの知識を得ることが難しく、科学的な判断が難しく、
偏りがちな判断や、封建的ハラスメント的な社会構造の当時の庶民にとって、

繰り返される毎日が、肯定的な未来に変換しずらい
悲しみや痛みだったと想像します。


底知れぬ否定的な思考がグルグル巡ると、
自分すら、否定するか、
痛みと悲しみが、「恨み・憎しみ」に変わってしまうか・・・

まさに、「否定的自動思考」の状態に陥りやすい状態だったと察します。

頭の中の、否定(自己否定、他者否定、恨み)を、一端止めるための方法としての、
「念仏(唱え文)」だったのではないかと、

ふと、私には、思えました。

しかも、老若男女問わず、身分や学歴を問わず、
誰にでも、覚えれる短さで、
誰にでも、理解出来る意味を唱える。
お金も、道具もいらない。

心一つあれば、願うことができる。


それは、救いの呪文であったと・・私には想像できました。

そう考えると、

現代の今に置き換えて、


もし、自分が否定的自動思考に、陥っていることに気づいたら、

一端、思考を止めるための、
自分の心が救われる呪文を考えておけばいいんだと・・思った訳です。

私自身、イヤなことや、耐えがたいことがあると、
はやり、自己否定がむくむくと増殖して、

否定的な、乱暴な言葉を、心で言ってしまうときががります。


その、「否定的で乱暴な決まり文句」を、言いたくなる状態の時に、

救われる呪文に、置き換えてば いいんだと気づきました。

「否定的で乱暴な決まり文句」は、公共の場では、具体的にかけませんが・・(笑)

それを、たとえば、
「なんとかなるさ」とか、「ご加護を!」とか、
「救われたい」とか、「明日があるさ」とか、

自分が楽になる言葉に、
人に聴かれても自己嫌悪に陥らない言葉に、

言い換えることにチャレンジ中
これ、なかなか良い感じです。


ご自分にしっくりくる言い換え言葉を探してみませんか?。

事前に考えておくことが功を奏します。


話しはそれましたが、

否定の渦「否定的自動思考」に陥っているときは、

いろんなこと、サインや前兆にきがつかない思考になってしまっています。


否定的なことに敏感で、否定しか見えない感覚、脳、眼になっているということ。
しかも、自動(オートマティック)思考なので、
発想や回路が固定的で狭く 行き先も決まってる。


なので、あえて、固定でなく、奇跡(偶然の一致)を探そうと。

脳の、リハビリにもなります。


たとば、自分の中で感じたコト

私の一昨日の偶然の一致(シンクロ)

誰かと無性に話したい気持だった日に、
もうずっと話していなかった、30年前の学生時代の先輩が、電話くれた。
しかも、メッセージでなく、電話。
話したい・・がシンクロした。

話せてうれしかった。
いろいろ思い出した。
たくさん話しをしてくれた先輩の様子もうれしかった。

というか、そこまで、率直に話せる人と、
30年前にであっていたことが奇跡

そして、
今も変わらず、率直に、話せる時間がやってきたことが奇跡

そう思うと、心が うるうるです。


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春ですね・・。

人の 出会いも 別れも 
偶然の一致ですね。

気持ちが複雑すぎて、一気に消化できず、
心がパンクしそうになります・・・。

だから、
偶然の一致(シンクロ)を大事に、してみたいと思うのです。


ムリしなくて良い
なんだか気持ち良い


そんな人やモノとの、時間を大事にして、生きましょう。

自分の心は、影響として、微力ではあるけど、確かに 他者に繋がっているから。

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