自身の操縦士(ドライバー)、「7つの習慣」に思う。
庭に紫の小花が、地面を覆うように咲いています。
早稲田の方の学校に、勤務していたときに、道ばたに咲いていた花のこぼれ種。
いつの季節も、かわいらしく、咲いてくれます。
名前わかりませんが、好きなんです、この花。
見かけによらず、強くて、どんなときも、咲いている。
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今日のお題は、「自身の操縦士(ドライバー)」
私は、どこに向かって(生きて)いるのだろう?
私は、なぜ、走り(止まり)続けているのだろう?
私の、幸せとは何か?
私は、どん道を走り、どこにたどりたいたら、うれしいのだろう?
自分は、がんばっているはずなのに、なんだかむなしい。
そんなこと、考えたことありませんか?
先日、「7つの習慣」スティーブン・R・コヴィー著 という本のことを、
楽しく解りやすく伝えているyoutube(中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY)を偶然にたままた拝聴しまして、
なんか、「前向きになれる自分」の心の変化を感じました。
(末尾に、参考リンクを貼っておきます。)
動画の中で、
成功とは何か?
について、スティーブン・R・コヴィー氏の「はじめに」の中に綴られているというお話し。
哲学者マズローの「自己超越」という言葉を使って
人の幸福感について、死の床を想像して語っている。
「人が、死の床で、思うのは家族や、愛する者のことである。
人は誰かのために生き、最後はその人達のこと思う。」
私の解釈になりますが、
人の幸せとか成功とは、人と共存していく中にあるという、
人が一人では、生きられない、成長できない、未来と繋がれない物理的な生物体で、
ある所以であるのかもしれません。
余談だか、マズローは、欲求を5階層化して説明した人。
自分の価値感は、マズローの欲求の階層として配置を観ることができる。
マズロー氏と、コヴィー氏や、アドラー氏、
その他多くの哲学者や心理学理論が、言葉は違えど、同じような過程を言っている。
総括して私の解釈に直すと、
コヴィー氏の言う、3段階は、以下のような心理的成長の過程と解釈できる。
依存(他者へ反応して生きる)
↓
自律(主体に生きる)
↓
協調共存(強調(主体的に関わる)
成功を手にできないのは、むなしい。
経済的に成功したとしても、
そこに、自己や他者の犠牲があるのなら、どこかむなしい。
成功と自分や他人を両立させてこそ、幸せなのだと。
交流分析のエリック・バーンが、「自律は幻想」という言葉の心意は、
協調共存の段階への入り口のことを意味すると解釈できます。
「単独自律の限界」というと伝わりやすいのかもしれません。
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協調共存段階の入り口を、
スティーブン・R・コヴィー氏は、「7つの習慣」の中で、
「人格主義の回復」と言っている。
それを、「中田敦彦のYouTube大学」では、
「終わりを思い描く」つまり、弔辞を想像する。と言ってました。
自分が亡くなったとき、誰かに、どのような言葉を言って欲しいか?
私も考えました。
私は
「有能な人だった、有能さを貢献してくれた」を言われたい。
と・・・思うと、これ、実は、私のドライバー(交流分析用語)なんです。
交流分析という心理学に、人生脚本という理論があって、
人生脚本とは、「無意識のうちに、自分がどのように生きるか」のイメージのこと。
人生脚本には、いろいろな脚本装置あって、
ドライバーもその1つ。
交流分析のドライバー(拮抗指令・対抗指令)を、解りやすい言葉に説明すると、
「導き手」「自分の操縦士」「人生をかきたてるもの」「人生の指針」みたいな意味になります。
自分の人生を導いている(無意識的な)指針のようなもの、
自分自身の活動の動機でもある。
みたいなもの。
無意識に自分の中に入り込んでいるのは、
自分が吟味して理論的に選んだ指針ではなく、
自分の人生の中で出来事や環境や行動範例の中から、
気が付いたら思い込んでいた、良い(良心)とおもうこと。
だけど、そこに、架せがある場合に、
たとえば、否定的な条件(禁止令・自己犠牲)の打ち消しとして、
そのドライバー(禁止令の対抗指令)が存在する場合は、
否定的な条件の強さと比例するドライバーの強さになって、
自分を滅ぼしても、走り続けることにもなります。
その指針を、ほど良い程度に、
ドライバーに振り回されすぎないために、
自分自身が、自分自身の操縦者であるために、
自身のドライバーのクセを知ること、
ドライバーの架せ(禁止令)を知っておくと、
自分の調整ができる。
というのが、交流分析の考え方。
交流分析の人生脚本のワークの中では、
自分の、禁止令やドライバーを見直たりします。
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交流分析の中では、
ドライバー(自分の操縦士)は、
大まかに5つに分類されています。
交流分析の言葉は解りづらくキツイので、
私の言葉に置き換えます(かっこに用語を残します)、
1.速いことがことが良いコト!(急げ!)
2.完全が美しい。(完全であれ!)
3.一生懸命が素晴らしい。(もっと努力しろ!)
4.人の役に立つことが立派。(人に喜んでもらいなさい)
5.強いことが大事(強くあれ!)
このドライバーを、否定形の架せとして捉えた場合は、
自分の価値感が、自分や他人を否定的価値感に 化けてしまう。
たとえば、
1.遅い奴はダメ!(急げ!)
2.失敗は命取り。(完全であれ!)
3.努力しないクズ。(もっと努力しろ!)
4.役に立たないボンコツ。(人に喜んでもらいなさい)
5.弱い者は敗者(強くあれ!)
くれぐれも、肯定的の範囲で、自分のドライバーと付き合い、
否定的な要素がよぎったときは、
一端、自分のドライバーと距離をとることが大事です。
私の現在のドライバーを、自己分析すると、
有能の有は、4)の役に立つ、貢献も4)の役に立つ、
有能の能は、技能の能で、2)3)のmixのような気がします。
私の場合、ドライバーは一つだけじゃない、mixだんだよね。
それに、自分で脚本を書き換えも、してきましたし。
若い頃は、5)の強くあれ!、がスゴク強かったと思います。
幼い頃、両親が、男子を欲して私を男子のように育てたことや、
強烈な性別や存在否定の中で、育った過程があったからだと思います。
幸か不幸か、私はあまり泣かない(笑)。
結果、自分を壊してしまったので、
5)のドライバーとは、距離を置き、こだわらないことにし、
今に至ります。
弱いなりに、生きていこうというところでしょうか。
私の特性と、ドライバーが合っていれば、
たぶん、幸せなのだと思います。
幸せにむかって、ひた走れる。
だけど、
5)の強くあれは、自分の特性とは違ったのだと思います。
弱くなることがある、無防備になることある。
他人を思いやるあまりに、自分を守れない。
ドライバーは、一つじゃない。
親に与えられたドライバーだけではない。
後発のドライバー(指針)だって、いくらでもある。
だから、尊敬出来る人やコトと 出会うというのは、
自分が生きる上で、大事なこになるわけです。
しがらみの否定的な影響を受けるより、
尊敬出来る人やコトから、肯定的な影響を受けることの方が、
未来の自分や未来の自分の周りにとっても、幸せなことだと理解できます。
弱い私でも、活かせる私と考えると、
それは、やはり私にとっては、技能やアイデアということで、
それで、経済的に自分を成り立たせることができて、
更に、人の役にたてたら、人と共存共栄していけたら、
たぶん、幸福なんだと思います。
もう一つ、
否定形の関心に疲れて、「透明人間」になりたいと言った時期がありました。
引きこ森の同義づけみたいな感覚です。
今は、すっかり、内面、引きこもり気質。
今も、目立つことや人前にでることには抵抗がある。
でも、今思うのは、「透明人間」でも、
スキルとアイデアを活かすことは出来るし、
それが人の役にたつこともあるかもしれないと思うと、
「透明人間感」(私の中の引きこもり同義)と、
「役に立つ」が、両立することは、可能だと
思える時代になったのかもしれません。
「引きこもりでも、自分を活かして、役に立ちたい!。役に立てる!!。」
(笑)。
時代や事象の変化もあるけど、自分の考え方のシフトも、
最近感じます。
自分のシフトが、一段階変わったような気がしているのです。今年に入って。
自分の中の、感覚と、偶然の一致的に、
コヴィー氏「7つの習慣」や、
中田さんのYouTube大学に出会ったことも、
意味があるのかもしれません。
主体的に言い換えれば、
自分が望んでいた、と、考えると
自分の心に、自分の想いに、重さや、立体感や、
自分自身の存在感も感じることができます。
透明人間なのに(笑)。
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今日、学生の頃、よく話した友人の訃報が届きました。
久々に、泣きました。
優しいあの人は、「自分に優しくできただろうか?」
終焉には若い彼女の人生は、彼女にとってどんな人生だったのだろう。
私の知る限り、多くの人に囲まれた笑顔の人でした。
「あなたと話したことは、今の私の一部です。存在に感謝です!。」
そんなこんなで、最近、いろいろ考える切っ掛けを頂いておりました。
友人の冥福を祈ります。
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