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貧乏性の本末転倒。

 もうやめようと思うあれこれもあるし、もっとこうしなきゃと思うあれこれもある。やめちゃえば?ってのをすっぱりやめて、こうすりゃいいじゃんって方向へすぱっと舵を切ったら楽になるのかな。あれもこれもで疲れているのなら目標や願望に対して不要なモノは放置すればいいんだよな。自分の持ち場でもないし、糧になるわけでもないし、それはそこを主戦場にしている人がすればよくて、手を出したところで誰も得をしないコトなのだから。

 というのも、最近の情報量の多さ煩雑さ多様さその他もろもろから「あれ? 自分はなんでこんなに疲れているんだろう。なんで苛々するんだろう。なんで。なんで?」と、ぐるぐるしてきてしまったのだ。

 爆発的な火力で捻じ伏せられるのは若かったら可能なのだろうけど、身体悪くしたりして生命力のテンションが駄々下がりになってしまうと「変わりたい自分に変えて」みたいな綺麗事はとても難しい話になってしまう。

 たとえば、今までアンテナを10本以上ぐんぐん伸ばして受信できていたモノが、今はその受信量が半分くらいしかなくなっている。10本のアンテナで10ずつ受信して100受信していたモノが、今は受信力も落ちて1本5受信、50受信しか消化できずにいる……ならばそのうちの半分のアンテナに減らしてしまえば、5本のアンテナに絞れば受信量を10受信に戻して、さらに今特化したい方向にアンテナの向きもずらしたら、効率良くなって6本で9受信できるのではないだろうか?

 今までも、たとえばTwitterなどのフォロー、或いはリスト化などを何度か整理整頓してきたし、複数のアカウントにバラして切り分けたりしてもきたけれど、ずいぶん無理が出てきたし、見るのも追いつかなくなってきた。情報収集ツールとして使っていたものの、見た得た情報を消化できない役立てるまでもいかないのでは、本末転倒だ。
 新たに伸ばしたアンテナの方に向いた方がいいんじゃないかと思う時もある。増えるのに減らせない。でも、減らしても構わない気がするアンテナも確かにあるのに減らせない。
 これはもう、ただの貧乏性だ。

 さて、だったらどうしたい?

 そんなことはもっと若い頃に考えるコトだろうけど、そうすべき時に病んでた。
 ネットのようなモノもなくて、世界も視野もとっても狭い、手の届く範囲のうちの更にひと握りだけだった。今さらどうにもこうにもだとは思うが、それはそれで仕方ない。
 火力がないなら、受信しきれないのなら、消化する余裕もないのなら。
 貧乏性ゆえ、捨てるのは怖い。でも、持ちきれない。
 でも取捨選択が下手だし、そもそも、頭が悪いのだ。できるのはこうしてうだうだ迷っているコトだけなのだ。きっと正解なんて舵を切ってみないとわからないのだ。

 ……そういえば、この「どうしたい?」というセリフ、昭和の頃に描いた漫画でも使っていたなぁ。
 もしかしたら、ずっとこうやってうだうだと自問自答するだけの人生なんだろうか。

 あ、なんかちょっとそれもイヤかも。

 うだうだと書いてみるコトは、考えをまとめるのにはとてもいいようだ。
 頭が悪いなりに試せるコトは試してみようという気になってきた。

 ……さて、どうしよう?

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