ブルーハーツと哲学

もう気づけば1年以上前だが、以前ヒナタヤの「きよとの時間」でも授業をしてくれた 根無一信 さん(大学講師/勝手にヒナタヤ哲学顧問)がめちゃくちゃおもろい論文をだされたのでこちらでもシェアする。

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根無さんのヒナタヤでの授業の様子。
講義タイトル「ありのまま生きる、は正しいのか」


タイトルは「ザ・ブルーハーツと福音
ブルーハーツとは、あのブルーハーツ、岡山出身の偉大なるロックバンドのブルーハーツである。
ぼくがここでなにを言ってもすべてを伝えられる気がしないので、早速ですが、URLをシェアします。(リンク先からPDFをダウンロードしてお読みください)

読みたくなるであろう文言を引用しておきます。

ブルーハーツが問題にしている事柄は、福音書に書かれていること、つまりナザレのイエスが問題にしている事柄と同じだと考えれば、すべてつじつまが合うことに気が付いた
ドブネズミは「劣」の側にいる。だから「誰よりもやさしい」のである。

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学問とは、探究とは

こちらの論文の中身はそれぞれ読んでもらえばいいとして、個人的に感じたのは、「学問/探究とはかくありたいもんやな」ということだった。

この論文は極めて読みやすい。
根無さん自身も書いておられるように、できるだけ前提知識必要なく読めるように、そして読み進めやすいように注釈も最小限に抑えられている。すべての読者を丁寧に拾い上げたいうという意志を感じる論文だ。(とはいえ「読む」という能動的姿勢は当然必要なのだが)
学問を生業にする「学者」の役割のひとつは、多くの人びとが「なんとなく」通り過ぎてしまう、もっというとほとんどの場合はその存在に気づかれることさえない「問い」と真摯に向き合うこと、そしてその結果導き出した「解」を広く、正しく伝えることのなのではないかと思う。それを改めて感じさせる論文だった。

加えて、この文章がとてつもなく読みやすいのは、根無さんがこれまで歩んできた人生が影響しているのではないかと勝手に想像した。まさに根無さん自身が、かつて「劣」に身を置いたからこその文章のような気がしたのである。(根無さんのキャリアはめっちゃおもろい)

そして「探究」の姿勢、意義である。
以前から「いまブルーハーツについての論文を書こうと思っているんや!」とは聞いていたが、そのときはさっぱり想像がつかなかった。しかし探究を、つまり「好きなこと」を突き詰めれば、「社会が気付かない/見つけられない/つくれない、つながり」を生み出すことができる。
この論文ではぼくの頭の中にはまったくなかった「つながり」が紡がれ、表現されていると感じた。
こういう言い方は決して好きではないが、最近(といってももう数年になるけど)よく耳目を集めている「イノベーションの源泉」とはこういうことなんだろうと思った。

ひととひととが、やさしくあれる社会

根無さんはこの論文の中で「栄光」=「人と人とがやさしく生きられる世界」と定義している。この定義、とても素晴らしいと思った。
ぼくは(お前が言うなと言われるだろうが)「ひととひととがやさしくあれる社会」を実現するために教育を行っている、と常々考えている。「ひととひととがやさしくあれる社会」に必要なことのひとつは(ありきたりだが)想像力だろう。

ブルーハーツはドブネズミという「劣」にいるからこそ、「誰よりもやさしい」のだ、と書かれていた。ぼくが運営するヒナタヤにおいては「劣」にいようといなかろうと、その「境界線」を認識して、そして飛び越えるために、学ぶ意欲と想像力を、変わらずに育んでいきたいと思った次第。

がんばりましょうね〜。(沖縄方言風に)