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倭の五王とは?古墳時代に存在した5人の王
日本史において、倭の五王はマイナーな存在で知らない人もいると思います。
倭の五王とは、5世紀の古墳時代に中国と国際関係を築こうと尽力した、五代に渡って続いた倭の王(天皇)たちです。
讃、珍、済、興、武と呼ばれた5人です。
外交の基本的な目的と、5人の王たちの詳細を簡潔に紹介していきます。
外交の主な目的
中国と外交をする主な目的は、自国の強化や王の権威を上げるためです。
冊封という君臣関係を結び、官爵という中国から位や称号を授かることが目的です。
強国として君臨していた中国に認められることが、自国強化に繋がりました。
冊封をすることで下記のようなメリットがあります。
・中国に認められた権威のある国だと主張できる
・冊封した国に対して、外敵などから保護してもらえる
・王が国内の人たちに対して力のある者だと示すことが可能
冊封関係には、いくつかの義務を守る必要があります。
定期的に朝貢を行う、出兵の要請に応じる、隣国の外交を妨害しないなどがあります。
朝貢とは、貢物を渡して忠誠心を表すことです。
外交の基本的な目的は、自国の強化や王の権威を上げることです。
讃の時代
1人目は、讃(さん)と呼ばれた王です。
倭の五王は天皇のことであり、当時は天皇ではなく王と表記されていました。
413年に倭国が晋に使節を送り始めたのが、倭の五王の時代の始まりです。
邪馬台国が晋に使節を派遣して以来であり、約150年ぶりの外交です。
中国の歴史書である晋書には下記のように書かれており、413年に外交を始
めていることが分かります。
「義熈(ぎく)九年(413)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」
413年の外交では倭国と書いているが、王が誰なのか分かりません。
後に書かれた梁書では、413年の外交の内容が書かれています。
「晋安帝のときに、倭王賛がいた」
安帝は晋の皇帝であり、この時代に外交をしたのは413年だけなので、賛と文字は違うが、この時の王は讃と考えられます。
次に使者を送ったのは421年であり、このときは晋は滅び、宋が建国されたときです。
宋書には、下記のように外交の内容が書かれています。
「和讃は万里の遠くから貢物を修めた。その真心を褒めたたえるべきである。よって官爵を授ける。」
讃が421年に外交をした理由としては、当時の朝鮮半島に存在した高句麗と百済が、宋と外交をしていることに対して刺激を受けたと思われます。
倭国は冊封を受け、讃は倭国の王として認められ官爵を授かりました。
具体的な官爵は書かれてないのでハッキリしないが、倭国王と安東将軍の称号は授かっている可能性があります。
次の425年の派遣のときに、使者として「司馬曹達」という人物名が記されており、これは司馬という役職についている曹達という役人のことです。
司馬は軍官としての意味もあり、421年の外交で安東将軍の官爵を授かり、宋のための軍府を設置したからです。
ですので、安東将軍の称号も得ている可能性があります。
讃と呼ばれる王から、倭の五王の時代が始まりました。
珍の時代
2人目は、讃の弟の珍(ちん)という王が即位しました。
438年4月の外交で、讃が死亡したことを伝え、もう一つは官爵を授かりたいということを要求しました。
新しく珍が即位したことで、自分の権威を高めるために官爵を要求したものと考えられます。
使物節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王という官爵を要求しました。
讃以上の官爵を求めているのが見えます。
高句麗は征東大将軍、百済は鎮東大将軍を授かっており、倭国は大将軍ではなく将軍です。
他国よりも劣っていることに焦りを感じ、匹敵する官爵が必要だと判断したと思われます。
しかし、珍の要求は認められず、讃と同じで安東将軍と倭国王に留まりました。
済の時代
3人目は、済(せい)という王です。
443年の外交からは済であり、宋書には下記のように記されています。
「元嘉20年(443年)倭王済、使いを遣わして奉献す。復以て安東将軍・倭国王と為す」
すぐに外交を行ったのは、恐らく珍と同じで自分の権威を高めるためでしょう。
このときの外交で、どれくらいの官爵を求めたかは記されていませんが、無茶な要求はしなかったと考えられます。
讃と珍は兄弟であり同じ血族が続いたが、済は違う派閥と言われています。
讃と珍が兄弟なのは宋書に記されているが、済との繋がりは書かれてないです。
倭の姓を名乗っているので、同じ王族の可能性があります。
諸説あるが、珍に子供がいなかった、珍の派閥が何らかの原因で衰退したなどで、違う派閥が継承したと考えられます。
451年に再び外交を行い、宋書に記されている外交の内容は下記です。
「元嘉28年(451年)に使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍は故(もと)の如し。并(ならび)に上がる所の二十三人を軍郡に除す」
讃と珍にはなかった、使物節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事に任命されています。
この官爵は、宋から軍権の承認を得た証であり、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓という6国に対して、軍において一定の権限が持てることです。
興の時代
4人目は、興(こう)という王です。
興は済の子供です。
最後の五王である武は、上表文で興の弟、済のことを亡考(亡父)と記していることから、興と武は兄弟で済の子供と考えられます。
462年の外交において、興は世子という立場であることを伝えています。
世子とは天皇や大名などの跡継ぎのことであり、今までと違い正式な王に即位してから外交をしていないです。
即位が認められない状況、冊封によって状況を変える意味があったのだと思われます。
結果、安東将軍・倭国王の官爵を授かりました。
武の時代
5人目で最後の倭の五王は、武(ぶ)という王です。
済の子供であり、興の弟です。
478年の外交からは武が即位しており、外交の内容は宋書に記されています。
「興死して弟武立つ。自ら使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す」
興の死と武の即位の報告、官爵を求める内容です。
倭国王は今までと同じだが、安東大将軍と使持節はより上の位を要求しています。
結果として、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王の官爵を授かりました。
使持節は百済を除く六国と要求通りではなかったが、安東大将軍と、倭国王ではなく倭王という過去の王が得られなかった官爵を得ました。
倭国王と倭王では、倭王の方が中国にとって利用価値があり、より認められたという意味があります。
過去の王に比べて、確実に進歩した結果だと言えます。
その後479年に宋は滅び、斉という国が建国されました。
建国時の479年から482年の間に武が使者を派遣した可能性があり、それを機に五王による外交は途絶えました。
外交を止めた理由は諸説あります。
宋に行くためのルートが、北魏という別の中華の国の領土となり、派遣することが困難になったこと。
宋から斉に変わり、宋と違い斉と外交する価値がないと判断した説もあります。
倭国が十分に強化されたことで、中国に頼る必要がなくなったと判断した可能性もあります。
これで倭の五王の時代は終わり、次に中国と外交が行われたのは、約1世紀後の遣隋使です。
まとめ
・倭の五王とは、5世紀の古墳時代に中国と国際関係を築こうと尽力した、五代に渡って続いた倭の王(天皇)たちである
・五人の王は、讃、珍、済、興、武という名で記されていた
・讃が兄、珍が弟の兄弟であり、済は興と武の親であり、興が兄であり武が弟である
・中国と外交をする主な目的は、自国の強化や王の権威を上げるためである