「みんなの声を大切にすること」を目的にしていいか
「みんなの声を大切にすること」。
対話、ワークショップ、ファシリテーションなどの手法を使う私たちにとって、それは正義や希望の合言葉に聞こえることがあります。私もその考え方に賛成しますかと聞かれれば、総論として、イエス。
賛同者であるだけではなく、実践者のひとりであると答えます。私は、参加型デザイン、コ・デザインなどと呼ばれる手法の実践者です。
それは、デザイナーであれば、当然のようにやっている「クライアントの思いを何時間も聞いて、その願いや課題の本質をコンセプトとして明らかにしていく」という「対話」のプロセスを、プロデューサーとクライアント、クリエーターと言うよくある三者の輪に閉じずに、ユーザーや多様な害関係者にもひらこうとするものです。特に私たちの場合は、ホールシステムアプローチという、大規模対話の手法を組み合わせて実践しています。
たとえば、私たちが以前にやった愛知県東浦町での市民参加型の防災計画づくりは、これまで聞かれていない声を拾ったことでブレイクスルーがあったと感じます。「つくってあるだけで使われづらい計画」の存在が知られ、市民の手によって、それが「命を守るために使いたくなる」形になったのです(地域防災計画は公助のために市町村がつくるもので、その時作り始めたのは地区防災。共助のために市民が任意で作るものです)。
しかし、見た目には同じような建て付けで、つまり参加型でみんなの話を「聞く」だけではなく、建築物、公共政策、チラシ、ウェブサイトを「共につくる」という経験を実際したことがあれば、すぐにぶち当たる「あるある」があるはずです。
みんなでつくると、なんかよくない。
みんなの思いを全部乗せしたことで、曼荼羅のようなウェブサイトが出来上がった。(ユーザー目線のなさ、専門性のなさ)
駅周辺の観光マップを市民の手で作ったら、住民の「見せたいもの」ばかりで、観光客が「見たいもの」が載っていないかった。(ユーザー目線のなさ、専門性のなさ)
市民の声を集めて、公共施設をデザインした。ダンボールを使ってほぼ実物大の模型まで作って、それに忠実に完成させたら、オフィス内の動線がとても使いづらかった。(部分最適/専門性のなさ)
社員によって研修企画をした。みんなで「それでいーでーす」と明らかに合意したが、結局誰も運営スタッフをやりたがらなかった。参加者も少なかった。(誰もイニシアチブがない)
経験的に思うにここには、専門性の問題と、責任の問題があります
チラシやPR冊子を作るならグラフィックデザイン、PRパーソン/マーケターなどを、建築物を作るなら建築家を。公共政策を作るなら、そのイシューに関する活動家、議員や自治体の人を。そのような専門的な知識がなければ、成果に強度は出づらくなります。
また、ここが私が専門とする領域ですが、参加型の議論のプロセスデザインも、専門性が求められます。一気に全員に開いては混乱しますし、少人数でやりすぎても工数がかかりすぎます。いつ誰に何を開いて、何を開かないか。どのような問いで話すのか。
多様なみんなが安全にやりとりできる環境・制約条件なしには、話し合いは、「目先のボールにみんなで寄ってたかるサッカー」のようになります。また、議論がパーツごとに部分最適化されて、全体として組み合わせて並べてみたときにガタガタになっていることも少なくありません。コードが鳴っても、曲になっていなきゃ聞いてられないという感じです。
もう一つは責任の問題で、シンプルに「無責任な100人で作ったものよりかは、覚悟を持った3人で作ったものほうがいい」ということです。
どのように責任ある人たちで話すようにするかというと、参加型プロセスに入る人たちは、何かの敷居を作るのです。それをまたいだ人たちだけで実施します。敷居というのは、そのプロジェクトに緊急の必要性を感じられていて、自分自身を変容させるように学ぶ知的な挑戦意欲がある、プロセスに貢献する責任を果たす気持ちがあるなど。招待状にチェックボックスを入れてもいいでしょう。
また、プロセスに参加する「みんな」とは誰かを明らかにする必要があります。多くの場合、それは、「今目に前にいるみんな」とイコールではありません。
・このプロジェクトを成功させるために、いて欲しい人は誰か
・ここにいて欲しいけれど、いない人はだれか
・
私にとっては「みんなでやる」ことは手段です。ひとりでできることは、ひとりでやったらいい。もしひとりではできないことがあるならみんなの協力は必要だけれど、目的は、それによって生まれる成果が、長期の活用に耐える強度や信頼性、共感、当事者としての責任感を高めること。
その成果イメージなしに、もし「みんなの声でつくることそのもの」を、妄信的に正しい活動としてしまったなら、それは、不必要な葛藤、時間、エネルギーをみんなに使わせて、成果が脆弱になるどころか、人間関係を悪くさせたりもします。そうやって人々がますますワークショップやアンケートを嫌いになる、信頼が下がる。その意味で盲信は有害であるとすら思います。(特に経営者は、自分の思いに人を「巻き込みたく」なるので注意。「呼びかけ」て、それに応じた人と一緒に進んでいく方が、かえって早いです)
さらに一歩踏み込んで私のスタンスを言えば、「みんなの声を大切にする」という手段は、「価値」を高めるために行われる活動であってほしいと思っています。逆に、その言葉になんとなく「正義」の匂いを感じたとき、それはプロセスが危険なものになりやすいと思った方がいいと思っています。話し合いが「べき論」やクレーム、対決姿勢を招きやすいからです。自分が正しいものになると言うのは、その裏側で「誰かは間違っている」という態度表明であることに気をつけてください。「私たちの声が聞かれないのはおかしい!」よりも、「〇〇のために、私の声も入れてもらえませんか。こうしたらもっといいものになるかもよ♪」。そんな風に誘う練習ができますか。
「聞かれていない声をきく」という大義には私は賛成します。しかし、「声を聞く」ことと「それを反映させてものごとつくる」ことは、かなり違う仕事です。「聞いたけど、制作物には反映しない。でも確かに聞いたよ」ということでも、状況によってはいいはずです。
参加型デザインと言うのは、再配布可能なアウトプットを志向した表現ですが、人の学びや育ち、信頼関係の構築を志向した表現をすれば、組織開発とも言うこともできます。果実に注目するか、土壌に注目するかという違いです。そう見えれば、「今作られようとしている一つの果実にみんなの声が入る」ことに躍起にならなくていいと思えるのではないでしょうか。土が耕されていれば、次の果実であなたの声を入れればいい。その可能性を担保するのは、土中環境、つまり、その組織の人間関係の質ですから、むしろ最初はそちらをターゲットとして開発を進めることが賢いことが多くあります。
果実は、土壌が持っている栄養を吸って太ります。痩せた土壌からは、痩せた果実しか生まれづらいものです。無理をして、一時的にキラキラした果実を生み出して、土が痩せこけたのでは本末転倒です。
最後に、「みんなの声を聞く」活動は、しばしば「わたしの声が聞かれていないかったこと」の投影であったりもします。その場合は、無理に「みんなの声を聞こう」ではなく、まずは友人に対して「私の話を聞いてもらえませんか」とお願いするのが、最も賢く誠実な「参加型デザイン」の一歩かもしれません。
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