内から外へと共にはたらく|「指導」から「見守り」へ
気づけばもう2023も1ヶ月。今年の仕事の方向性と目標を考えるきっかけとなった仕事があったので、そのことについてふりかえります。
2023年明け、最初の大仕事はこちら。
主催は公益財団法人札幌国際プラザ。その伴走役として、一般社団法人サステナビリティダイアログのチームで参加しました。チームの皆さんに心から感謝です。
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今回は、小学校6年生と参加型リーダーシップと、観察に基づく社会デザインについて学びました。また、子どもたちのグループ活動を支える役である、大人や大学生サポーターと「見守り」のトレーニングをしました。
当日の様子は、公式のアーカイブ動画を制作中です。また、テレビにて特集が放送されましたので、ぜひご覧になってください。
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その中では、たぶん取り上げられないであろう、私にとってのハイライトの場面をここに忘れないようにメモしておきたいと思っています。
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私は、ある女の子のことが気になっていました。彼女の目の動きです。なにかものをつかう、声を発する度に、周囲にいる大人の顔色を伺っているように、私には見えました。
ほかにも、彼女は、私から「好きな色のペンをとってね」と言われた時、最初、手がピクリと動いて、その後、同じグループの友達が全てペンをとってから、残り物を取っていました。
そうやって垣間見える彼女のやさしさと同時に、何かが彼女に遠慮をさせていているのではないかと、私は勝手に気になっていたのです。
それは何なのだろうか。私たち、ホスト役は、そのような「集団の中にある規範」や、ある種の思い込みに気づき、グループが限られた時間の中で、より自由に、よりクリエイティブに協働するために、いくつかの話し方や、関わり方、働き方を共に考えて、提案し一緒になって実践していきます。
その後も、何人かの子どもたちから「あれやっていいですか、これやっていいですか」という質問が寄せられたことから、私たちは、いくつかのプリンシパル(行動指針)を提案しました。その一つがこれです。
これはうまく機能したようでした。忖度や遠慮もなく、誰かの許可を得ることも必要ない。気にしていた彼女も、自分の使いたい道具を使い始めました。
その中でも1番大きかったのは、ホワイトボードです。彼女がそれに手をかけた時、私と目が合いました。私が「その調子!どんどんやったれ👏」の気持ちを込めて微笑みました。
すると、彼女はマスクから溢れるほどの満面の笑みを返してくれました。そのあとの彼女のリーダーシップは羽が生えたようで、発表の内容はもちろん、それに向けたモノの準備をどんどん進めていました。もともとそういう力を持っていたんでしょう。
ほかの子どもたちも「水を得た魚」と言うのか、ますます活発に動き始めていたようでした。そのなにか「解き放たれた感じ」というのか。
野生的な力を発揮することで、「自分たちで勝手につながり、新しいものを生み出していく(自己組織化と創発)」をしていくつながりが、そこに生まれているように感じられました。
本番は3日間のワークショップでしたが、そのモードになると子どもたちはもう止まりません。もうアイデアの花火大会、創造性のびっくり箱。
最終日はホスト役は、そのカオスに負けないように、時間や発表の手順などガワを整える以外はもう不要、クビになりました。
その瞬間が今のところ2023年で、私にとって1番嬉しい瞬間でした。
こうした内発性がいかされる環境や関係を育んでいく上で、むずかしいと思うこともあります。それは、子どもではなく、むしろ、大人との関わりです。
最近、何人かと繰り返し話題にあがることがあります。それは、どうしてか大人は子どもに対して「指導か、服従か」の二者択一に陥りがちだというパターンがあるようです。
上から目線か、下から目線か、と言ってもいいかもしれません。これは特定の事業や人のことを言っているわけではないので悪しからず。
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たとえば、「指導」は、こんな状況です。
「進行役の話しているときに、子どもがよそ見している」という様子を目の当たりにした大人は、こんな介入をしがちです。
「ねえねえ、今は、あのひとの話を聞く時間だよね。」
もしかしたら、その子は何か大切なことを考えているかもしれないのに、大人にとって都合によいほうに注意の方向を促してしまう。
実は子どもは聞いていたかもしれないのに、「大人の目からみて、明らかに聞いている態度」を見せることを強要してしまう。
ほかにも、大人から見て子どものワークの進捗が遅いと思った時、手を出して代わりにやってあげてしまうのも、あるあるです。
もしかしたら、その人たちは、見た目には手が進んでないけれど、アイデアを練り込んでいる途中だったかもしれないのに。
こうした類の関わり方のメタメッセージは、こんな感じに私には思えます。
「あなたが気にしていることは、大切なことではない。あなたの中に答えはない。あなたには力がない。あなたではなく、大人である私のペースにあわせなさい。」
こういう自分の影響力に気づかないまま、「ふつうはそうでしょ」と、ついやってしまう大人たちは、少なからずいます。
それをする人たちを無防備に子どもたちのワークショップに混ぜてしまうと、その場は「大人を気持ちよくする接待のために、子どもたちが、ソーシャルグッドファッションショーごっこをする」という残念なことになりがちです。
「自分のふるまいの影響力に気づかず、よかれと思って」というのがやっかいで、「指導」は、あらさまな強制や命令よりは見えづらく、粘着質で、じわじわと何度も繰り返されることで刷り込まれ、子ども(だけではなく、実は「指導する側」も含めて)内発性や好奇心を侵食していくものだと私は思います。
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子どもの(というか他者の)内側で起きていることに想像や配慮がなく、しばしば無意識に子どもたちを「自分を満たす道具」として利用する人は、これまでボリュームを占めていた中年層のみならず、最近は、20代前半の人にも増えているように感じます。
そういう人たちが「子どもの支援をしています」などとカッチョイイ名刺を配り歩くために、ワークショップの時間が取られたりなんてことも、油断するとあります。一度や二度ではなく。
私は、そういう大学生や若手社会人が憎くて、これを書いているのではありません。
だってそれって、彼ら彼女らにとっては、世の中を「ちゃんと」生き抜くために、がんばって学んできたことかもしれないからです。
SNSという相互監視、相互承認の装置
いわゆる「SDGsウォッシュ」
コロナの中で、なんらかの社会的に正当な言い訳がないと、飲み会すらできない環境
そんな社会の仕組みや雰囲気に、頑張って適応してきたのではないかと感じます。
彼ら彼女らは、許可と承認を求めていると感じます。親や先生、特にランクの高いおじさんたちに「わたしいい子でしょ」とアピールをして、SNSでつながり、「いいね」をもらう。
そして、自分の人生の決定について責任をとってもらう。
そうやって、保護や生存、あるいは愛情のニーズを満たしているのかもしれません。代わりに、自由、アイデンティティ、創造のニーズを明け渡しているようにも見えます。私はそれを見ていて、つらいです。
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こうした「指導」の逆もあるようです。それが「服従」です。何でもかんでも子どもの言いなりになるということです。
ある学校で、担任の先生に対する悪口の手紙が届いたそうです。そしてそれを書いたのは、ある子どもの保護者であることがわかりました。こうした事態を受けて、学校と保護者を話し合いを持ちました。
そこで保護者が言ったのはこうでした。
「子どもに書けと言われました」。
先生たちは、保護者の内心を想像しました。「そうなんですね。でも、こういう風にご自身で書かれたからには、あなたも学校に対して実は残念に思うことがありますか」。
そう聞いたところ、保護者は
「いえ、私自身はまったく」。
先生方は続けます。「手紙には、先生への悪口だけが書かれています。子どもに、なぜそのようなことを書いたのか、何があったからそのように書いて欲しいのかを聞きましたか」。
「いいえ。そう書け、と子どもに言われて、近くで監視され、書き終わるまで許してもらえませんでした」
学校の先生方は、「じゃあ子どもにあの先生を殺せと言われれば、あなたは殺すのですか」と言いたくなったそうです。でも、それは言わずこう伝えたそうです。
「まずはどうか、ご自身のことを大切にされてください」。
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こういうことって、社会で起きていると思いますか。それとも、私がそういう目で見ているから、勝手にそう感じちゃうだけなのか。
もし上記のようなことが、あなたが生きている社会でも、繰り返し起きているとすれば、このパターンを一緒に変えていけないでしょうか。そういう問題提起のタネとしてこれを書いています。
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人は、もしかしたら「誰かに関わられたようにしか、次の誰かに関われないのかもしれない」と思うことがあります。
納豆を食べたことがない人に、納豆をつくれと言っても難しいように。(いや、食べたことがあっても自分でやってつくるのは難しいのです!)
自分の話をじっと聞かれることが、どんなにうれしく・力強い体験かを、味わったことがない人は、誰かの話を聞き受けようとは思えないのではないでしょうか。
いま、大学生や社会人、保護者をしている人たちも、前は子どもでした。その時に関わられてきたやり方を身に付けてきた。
そして、今度は自分が大人の役割をとるときに、「よかれ」と思って、次の子どもたちにもそう関わる。
こうして、「指導」や「服従」は再生産され続けている。カルマのように、社会的に遺伝し続けているように思えます。
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「指導か、服従か」。それは、コントロールする/されるの関係に入るということでは、実は同じことです。さらに言葉を砕けば、「やらされ」のコミュニケーションやワークショップ。
そういうプロセスによってつくられた成果に対して、参加者が、自分なりの意味づけ(たとえば、愛着や誇り)、また、アイデアを実行する情熱や責任感を持つことは、むずかしいものです。
それが日々、繰り返されていることが、以下のような現実をつくりつづけている大きな要因のひとつではないでしょうか。
仕事においては、やりがいを感じられない仕事
指示待ちの組織
生活においては、自分のものと思えない人生
生きる価値を感じられない社会
もちろん、「指導」が常に悪かというとそうではありません。最適解のある問題を扱うときは、さっさと答えをより知っている専門家に指導を仰いだり、その人たちに解決を委ねたりするのが賢いはずです。
でも、私たちの地域の未来がどうあるか、あなたがどう生きるか、あなたの家族はどうすべきかを誰かの指示に委ねていいでしょうか。
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もし私たちが「指導」にもとづく関係を超えていきたいと思った時、どうすればいいでしょうか。
一人一人が自分らしさ、自分の大切なことを大切にしながら、相手の大切なことを大切にしながら、一緒にはたらける社会の仕組みをどのようにつくるか。
機械のように外部からの入力に従うのではなく、生命として、「内から湧き出る創造的な野性」や好奇心をいかして、いきいきと働き、自己組織と創発を起こしていくチームをどのように育むか。
そのために必要な学びはどのようなものか。そのために必要ならサービスやツールはなんだろうか。
これまでそれはオーダーメイドでやってきましたが、最近はますます上記のような「あるある」を変えていきたいという声を聞くようになりました。
そこで、その第一歩となる入門の取組を仲間とつくり、将来的に安価に提供していきたい。今年は試作品でもアウトプットすることを目標にしようと思いました。
その旗印は、「見守り」という言葉をいま据え置いていますが、届け先によってはそれっぽく「マネジメント型ファシリテーション」から「ホスト型ファシリテーション」への転換を学ぼう、とか言ってもいいかなと。どんな言葉だとより興味が湧きますか。
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そんな宣言だけで終わっても面白くないと思うので、ひとつとっかかりを残すならば、
私たちには、新しいことばが必要だと思います。
私たちが生きている社会では「指導」に関する語彙がとても豊富なことに気づきます。監視、管理、評価、助言、命令、承認、しつけ。
また、インプット、アウトプット、インストール、実装、促進。これらは、人やその集まりを、まるで外から思いのままに操作できるモノや機械のように捉えている言葉です。
では、「見守る」とはなにをすることでしょうか。人間を、生き物として捉えた時に、どう関わることがお互いにとって公平で、効果的でしょうか。
そのときの行為のイメージを思い浮かべて、動詞で表現しようと、どうなるでしょうか。私は、そのために使える言葉が、あまり流通していないように感じます。皆さんはどう思いますか。
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ドイツの詩人ヨハン・ゲーテが言ったとされる言葉があります。
もしそれにピンときた方は、新しい言葉を届ける試みとして、私が関わっているものがありますので、いくつか紹介します。
■Art of hosting
■ていねいな発展
実は、札幌国際プラザと提供したプログラムは、そもそもこの2つの考え方が基盤になって設計しています。もしここまでの内容に興味がある方は、ぜひご覧になってくださいね。
■宇宙船地球号ミッション!
「言葉を知るだけでは飽き足らない、やってみたい」という方は、実際に、私と一緒にはたらいてみませんか。
現在、参加者募集中のワークショップ「宇宙船号地球をミッション!」です。
こちらは今回のnoteで書いたようなことを大人たちが学び、実際に子ども向けのワークショップを運営してみる実践的なプログラムになっています。
様々な形で関わりますので、詳しくは以下をご覧ください。主催している一般社団法人サステナビリティ・ダイアログのページに飛びます。
■workarts
上記のようにプロジェクトベースだけではなく、その基盤となる生態系となる「はたらくコミュニティ」が、ワークアーツ合同会社です。
こちらはまだアンダーグラウンドなチームなのですが、今年はいくつか、「めっちゃ大事だけど誰も読まない研究論文を小分けのストーリー映像にしていく」や「大切な話をはじめるための言い訳になる映画」の公開を控えています。ぜひフォローしてくださいまし。
https://www.facebook.com/workartsinc
また学びの道のりでお会いできるのを楽しみにしています。
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