私の護身論 私は、1970年頃、20歳台半ばから、技術論の研究を始め、その契機になったのは、マスコミで、スターのように輝いていた星野芳郎さん(技術評論家)の存在であり、私も、かくありたいと思うようになり、星野さんの「著作集」を吟味し、文章の特徴から論理展開まで真似し、売れる文章の書き方、句読点の打ち方まで真似し、28歳の夏、星野さんに弟子入りすべく、比叡山の麓の修学院南代にある自宅を訪問し、技術評論の方法の手ほどきを受け、流行作家並みになり(二代目技術評論家)、襲撃され、各種の護身術を身につけました
私は、1970年頃、日本の高度経済成長期、20歳台半ばから、技術論の研究を始め、その契機になったのは、世の中で、マスコミで、公害問題の追究などで、スターのように輝いていた星野芳郎さん(技術史研究家、技術評論家)の存在であり、私も、かくありたいと思うようになり、星野さんの先生の武谷三男さん(理論物理学者、素粒子論)の「著作集」と「現代論集」を吟味し、つぎに、星野さんの「著作集」を吟味し、文章の特徴から論理展開まで真似し、それどころか、売れる文章の書き方どころか、句読点の打ち方まで真似し、28歳の夏、星野さんに弟子入りすべく、比叡山の麓の修学院南代にある自宅を訪問し、技術評論の方法の手ほどきを受け、結局、30歳台(二代目技術評論家)は、準備期間であり、硬い月刊誌に、特集を中心に、年間数編の論文を執筆つする程度でしたが、1988年4月、月刊誌に執筆した論文が話題になり、新聞の「月間時評」などで取り上げられたことにより、年間100編を執筆する流行作家並みになり、そのまま、10年間も続きました。
私は、流行作家並みになったことにより、自身と家族の安全を守らなければならず、社会背景によっては、家族を水戸市内のホテルに住まわせたり、さまざまな対策を施すだけでなく、自身に対しても、徹底的に気をつけ、山手線に乗る時も、最前列に並ばず、近くの柱の近くにいて、最悪を想定し、自身の安全は、自身で守らなければならないような状況でした。
ところが、そのようなことが10年も続き、もう大丈夫だろうと考えていた頃、虎ノ門の近くのビル内で5時間連続セミナー講演後、近くのレストランで、生ビールを二杯飲み、JR新橋駅に向かおうと、通りに出たとたん、迷彩服の二人の政治右翼に捕まり、路地に連れ込まれ、ボコボコに蹴られ、負傷し、警視庁の近くであったため、被害届を出しましたが、同様の襲撃を受けたのは、その時だけでは、ありませんでした。
それ以降、自身の安全は、自身で守らなければならないと強く決心し、50歳頃、極真空手道場に通うようになり、基本の型のみならず、道場内試合、他流試合、昇級試合などを経験し、ある時、相手がスローモーションのように見えたため、目的を果たしたと判断し、止めましたが、その後も、トレーニング施設で、各種機器を利用したきついトレーニングを継続し、外出する時には、規則性を出さず、完全なランダムスケジュールにするだけでなく、手には、常時、護身用の登山用ステックを持ち、先端のゴムの部品を外せば、尖った金属になり、本気で、突き刺し、新幹線で移動中には、登山用ステックは、三段に短縮できるため、ザックの側面に、収納しており、あくまで、護身用であり、身を守るためです。