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通訳不可能性という問題がいつでもある

 文章で伝えるということはいつでも誤解が生じてしまいます。どんなに丁寧に書いても、どれだけ細かく説明しても(逆にざっくりと説明しても)、書き手と解釈をする側との間にギャップが生まれるからです。

通訳不可能性という言葉をご存知でしょうか。

通約不可能性(つうやくふかのうせい)または共約不可能性(きょうやくふかのうせい)とは、英語 incommensurabilityの訳語で、科学哲学の分野、および価値論の分野で使われる言葉。より有名なのは科学哲学の文脈での使用で、体系、概念、方法論などに違いを持つ異なる体系(パラダイム)同士の間で、概念間の対応付けがうまく出来ない状態のことを指すのに使われる。

wikipedia

 概念の共有が出来ていない状態ですね。なので、文章で書いていると、その差分があるのか無いのか分からないままずっと進んでしまうことになります。だからなんだという話しなのですが、”そういうこともある”という認識があると、いらない行き違いもなくなるかと思います。




要するに通じないことがあるってことです

 先ほどのウィキペディアでは、科学や哲学での異なる体系同士の間で意味が通じないということが起こると書かれています。概念間の対応付けができない状態とも書かれています。

 この、概念の対応付けができないということが、日常の会話でも起こってしまいます。

「なんか、この人言ってることがわからん」、もしくは「こいつには、話が通じないなぁ」って時はありませんか。ありますよね。え、よくありますか?(笑)

 もちろん、論理的に説明が下手とかはありますが、今言っているのは概念の話しです。その会話や文章でお題にあがっている概念、それ自体の話ですね。


ヨガという単語も色々と誤解を生みます

 何を言いたいのかというと、仏教とかヨガとか、そういう言葉を出したときに、その人が考える仏教・ヨガと私の考える仏教・ヨガが異なっているということです。

 このように書くと当たり前のことなのですが、いざ、話をしている最中にはお互いに同じ単語を同じ意味・概念で使っていると思って話をしてしまいます。相手も頷いているし、通じていると思っていた話が「そういう意味で言ってるのではないの!」みたいなことが起きますよね。それですね。

 その時にはお互いに違った意味で、”ヨガ”という言葉を使っています。

 「現代社会では身体を動かさなくなり、身体への意識が希薄になってきているのでヨガの役割は非常に大きい。だから、いきなりハマれとは言わないから、先ずは体験してほしい。身体を動かしていき、さらに呼吸法や瞑想を深めてほしい」
 と、言ったとしても、ヨガに対してオウム真理教のイメージしかない人は、この人怪しいと思うでしょう。

 また、ヨガを女性のエクササイズとしてしか認識していない人は、「この人はヨガという単語を使っているけど、宗教か何かに勧誘しようとしているのでは?」とか考えるかもしれません。


神と聞いて何をイメージするかも、人それぞれ異なる

 話しているテーマに対しての解釈がそもそも異なっていたら、話は平行線を辿りますよね。テーマや言葉の意味そのものが、話している同士で異なっているのですから、かみ合う事はありません。

 ”宗教”という言葉も、子供の頃から仏教に慣れ親しんだ人と、キリスト教の親を持っていた人では、まったくと言っていいほどに違うイメージを持っていることでしょう。”神”という単語に対しても同様です。

 他にも、様々な状況において、通訳不可能性が生じています。


「通訳不可能性がある」を前提に、自分を俯瞰すれば楽しい

 本当に様々な局面で、このように意味の取り違いが生じています。戦争のような争いごともしかりです。

 ちょっとした日常での会話から、政治問題や紛争問題も、結構この通訳不可能性に陥っていたりします。スタートからして異なるという残念な状態です。

 ですので、「通訳不可能性があるんだ」というように、日ごろから自覚しておけばいいのです。そうすれば、いらん言い合いになっても、そもそも意味を取り違えてないか、概念の解釈がそもそも異なっていないか、と俯瞰できるんですね。

 第三者の目線に立つと、結構くだらないことで言い合いをしている人っていますよね。自分もそういうことに陥ってしまわないように、この単語を少しだけ覚えておくと何かと有用だと思います。




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