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ブルンジ難民の友人の話「たとえどんなに険しい道のりでも」

留学中に出会ったあるブルンジ難民の学生の物語が、スロベニアの研究教育機関であるThe Peace Institute(https://www.mirovni-institut.si/en/about-the-peace-institute/)に掲載されましたので、その訳文を公開します。

私はこの学生と7ヶ月間、寮で一緒に生活しました。実直で平和への静かな熱意を持っている学生でした。ユーモアもあり、夜遅くまで語り明かしたことを覚えています。

ブルンジについて

ブルンジは東アフリカにある小さな国です。ルワンダと同じくツチとフツ、ツワという民族区分を持ち、大規模な虐殺と戦闘に苦しめられてきました。

特に2015年には大規模な争乱が発生。私の友人もこの混乱の中で故郷を逃れざるを得ませんでした。2025年現在、彼は奨学金を得てルワンダ南部にあるルワンダ・プロテスタント大学で学んでいます。

ブルンジの地図(出典:Google Maps)


今回、彼はスロベニアに拠点をおくThe Peace Instituteのインタビューを受け、彼の物語が公開されることになりました。

彼が難民となった経緯、キャンプでの生活、ルワンダでの平和紛争学の学び、個人的な苦しみと平和への希望が綴られています。

話すのは大変だったけれど、できるだけ多くの人に知ってほしいという彼からの頼みを受け、インタビュー文を日本語訳し、こちらに掲載します。

原文(英語)をご覧になりたい方はこちらをご参考ください。出典は末尾にも記載してあります。

―――以下、訳文―――


平和を愛する友人の皆さん、

私はアーノルド・ドゥシムエといいます。今回は私の難民としての物語、そして教育がどのように私を癒やしてくれたかについて話したいと思います。

2015年、私は家族とともに故郷を逃れ、安全を求めてルワンダに行かなければなりませんでした。退役軍人であった父が、武器を隠して反政府勢力に訓練を行っているという偽りの告発があった後のことです。告発は本当ではなかったにも関わらず、生きるために私達は逃げなければなりませんでした。その時、私は中等学校の生徒で、自分の生活がこれほど突然に変わるとは想像もできませんでした。

私はすべてを失いました。馴染みのあった家も、コミュニティも、そして安全も。難民になるということは、家のような物を失うだけではありません。私と家族は、自分のアイデンティティと帰属への感覚をも失ってしまいました。長い間感情を失ったように感じ、その痛みに打ちひしがれました。

難民キャンプでの生活

キャンプでの生活はとても厳しいものでした。環境は悪く、使えるものも限られていました。
私のような若い人々は生きるのにとても苦労し、自分たちの状況に対処するために不法行為を働くものもいました。そのような現状も、私に深い傷を残しました。

物資に関する困難にも直面しました。キャンプに来た時、人道支援の一環として薪をもらえましたが、それは丸一ヶ月の間、家族を支えるにはとても十分ではありませんでした。木炭を買う余裕もない難民の多くは、生き延びるために、密かに近所の農園から木を切っていました。ルワンダ人の農家が難民を捕まえると、殴ったり罵詈雑言を浴びせました。このような状況は2019年になってUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)がガスストーブを支給するまで、4年間も続きました。

もう一つの困難は教育を受けることです。教室は満員で、教員に対する生徒の数はあまりにも多く、きちんと勉強するには教材が十分ではありませんでした。このような環境は学ぶにはあまりに不便で、生徒たちがより良い将来を目指して勉強に集中することが難しい状態でした。

私は怒りに満ちていました。父を告発し、家族にこのような苦しみをもたらした人々への怒りです。また、難民として経験する不条理さにも怒りを覚えていました。憎しみと復讐心に駆られ、前に進むことが出来ずにいました。

紛争の感情的な影響

紛争が破壊するものは家だけではありません。紛争は生活そのものを壊すのです。私の家族は他の多くの人々と同様、恐怖と不安の中を生きていました。次に何が起こるのかという恐れ、愛する人をまた失うのではという恐れ、もう二度と安全なところを見つけられないのではないかという恐れが毎日、私達を傷つけていました。故郷を離れたトラウマは私達から離れず、精神的な健康にひどく影響を与えました。

このように、私達の状況はとても困難でしたが、まだ希望を持っていました。教育や出来る仕事を通して、ささやかでもお互いに支え合うことで、生活を立て直そうとしました。

教育と癒しへの道のり

転機が訪れたのは、2022年にルワンダ・プロテスタント大学(PUR)で平和紛争学の学びを始めたときです。ここでの学びが私の人生を変えました。紛争は政治、経済、社会的圧力のような複雑な要素によって引き起こされることを学びました。また私は学びを通して、暴力的な行為に及んだ人々の多くもまた、様々な重圧の犠牲者であったことを理解し始めました。

大学では、様々な背景を持つ人々と出会いました。私よりひどい経験で苦しんでいる人も多く、彼らの話を聞くうちに、怒りに身を委ねることは自分を傷つけることでもあると分かり始めました。私は赦しと和解の力を学びました。学びは、私に非暴力的な方法で紛争を解決する重要さを教えてくれました。
教育は癒しへの道のりでした。教育は、ここまで抱えてきた怒りと痛みを私が手放す助けになりました。平和は戦争がない状態としてではなく、正義と公平と理解のある良い未来の可能性へと目を向けることができるようになりました。
平和について学んだ教訓

私が学んだ中で最も大きな教訓は、平和は自発的に始まるものではないということです。平和には、ひたむきな取り組みとコミットメント、協力が必要です。多くの紛争が起きる理由は、人々が自分の声を聞いてもらえていないと感じたり、阻害され抑圧されていると感じているからです。持続的な平和を作るためには、全員の声が届き、正義が等しく適用されるシステムが必要なのです。

和解はこのプロセスにおいてとても重要な要素でもあります。ルワンダは、1994年のジェノサイドの後、痛みを伴う長い和解のプロセスを経ています。その歩みは、最悪な悲劇の後でも、平和は可能であることを示しています。

しかし、和解には赦しと正直な対話、過去の痛みを癒やすことへのコミットメントを必要とします。それは容易なプロセスではないですが、平和は必ずそこに根を張ります。

平和構築への教育の役割

教育は平和を作る上で不可欠な役割を果たします。教育によって人は互いの理解を深め、暴力ではなく思いやりと知恵で問題を解決するように促します。私にとって、教育は復讐から癒やしへと自分の考えを変える鍵となりました。もっと多くの若者が教育にアクセスできるのであれば、暴力を減らし、もっと平和な世界を作ることができると私は強く信じています。
これまでの話をまとめると、難民になることで私はたくさんの教訓を得ました。紛争はすべてを奪います―家も、家族も、アイデンティティも。でもそれを通して、強靭さ、赦しと希望の力を学ぶことができます。今では私は、最も難しい時にあっても平和は可能であると信じています。
私達全員が、平和を生み出していくための役割を持っています。構成のために働き、互いを理解し、和解への働きに専念することで、誰も恐怖の中で生きたり、居場所を失う痛みに直面しなくても良い世界を作ることができます。私のここまでの話が、復讐ではなく癒しを求め、平和への可能性を信じる励ましになったことを願います。たとえその道のりが、どれほど険しいものであったとしても。
希望と連帯の心をこめて、

アーノルド・ドゥシムエ

出典: Mirovni Institut, Living Peace #6: Letters of Wars and Peace, https://www.mirovni-institut.si/en/living-peace-6-letters-of-wars-and-peace/?utm_medium=email&utm_source=newsletter_61&utm_campaign=living-peace-6&utm_id=61
(最終アクセス日: 2025年02月1日、翻訳は筆者による)


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