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【いざ鎌倉:コラム】イイクニは古い?鎌倉幕府成立は何年か?

noteを始めてから、

「イイクニの話書かないんですか?」

と、お会いした読者の方に言われまして、やはりみんな関心あるんだと感じた「イイクニつくろう鎌倉幕府」問題

連載が1192年の解説を終えて、1193年に話が移りますので、今回はこの問題をさくっと解説しようと思います。


いまはイイハコ?

私もかつて歴史教科書に関係する仕事をしていた際は、

「いまってイイクニつくろう鎌倉幕府じゃないんでしょ?」

という質問をされたことがあります。

「こう変わった歴史教科書!」みたいな話は雑誌やテレビで企画されることも多く、かつて「イイクニつくろう鎌倉幕府」のゴロで覚えた鎌倉幕府の成立の年号1192年が、いまの歴史教科書ではどうやら違うらしいという話を聞いたことがある人は少なくないようです。

じゃあ何年なの?という話になりますが、

「いまはイイハコ(1185年)なんですよね」

と返せる人は少数派でしょう。

「鎌倉幕府の成立は、いまの教科書では1185年」

この話は半分正解ですが、半分間違いです。


鎌倉幕府成立についての諸説

実は鎌倉幕府成立については、
「イイクニか?それともイイハコか?」
という単純な話ではなく、それ以外にも説があります。
代表的な説は下記の6つでしょうか。

①1180年-治承4年
②1183年-寿永2年
➂1184年-元暦元年
④1185年-文治元年
➄1190年-建久元年
⑥1192年-建久3年

イイクニで覚えた人にとっては、「いまは違う」と言われた上に他に5つも説が出てくるとか意味不明だと思いますが、それぞれ検討したいと思います。

連載第1回「1192年の源頼朝」も合わせてご確認ください。

まず①1180年。
これは挙兵した源頼朝が南関東を制圧し、鎌倉を本拠とした年。そして御家人を統制する機関としての侍所を設置した年となります。
この時点で頼朝はまだ反乱軍です。最低限の領土と統治機構を整備しただけで、これを鎌倉幕府と呼ぶのは苦しいような……

次に②1183年。
朝廷による「寿永2年10月宣旨」で東国の支配権が認められました。
位階も流罪になる前の従五位下に復位し、木曽義仲追討令も受け取ります。
この年は、頼朝政権がそれまでの反乱軍という立場から、朝廷によって公的な立場を認められた年といえますね。
でも、まだこの年は木曽義仲も平家一門も力を維持しており、内戦状態のままです。

➂1184年はどうか。
この年は頼朝政権に公文所(のちに政所)と問注所が設置され、統治機構の整備が進みました。
木曽義仲は討ちましたが、平家は健在。

そしていよいよイイハコ1185年の④。
この年に頼朝は文治勅許により朝廷から「守護地頭」の設置を許可されます。
これにより軍勢動員と年貢徴収の権限を得たことで軍事を担う国家機関として正式に位置づけられたとされるのがこの年の成立が有力とされる理由です。
平家は討ちましたが、今度は弟義経と対立していた時期。

そして➄1190年。
この年は頼朝が挙兵後はじめて京に上洛し、朝廷より右近衛大将に任じられた年。
奥州藤原氏も滅び、頼朝に軍事的に対抗できる存在はいなくなっていました。
なお、当時は近衛大将の陣営を「幕府」と呼びました。
➄の説は政治的な意味よりも語義と語源を重視した説といえます。

最後にイイクニ1192年の⑥。
説明不要でしょうが頼朝が朝廷より征夷大将軍に任じられた年。
後の室町幕府も江戸幕府もその長は征夷大将軍に任じられており、それぞれの共通点としての将軍就任を重視する説。

どの説がみなさん適当と思いますか?

否定されたイイハコ

そもそもなぜ説が分かれるかといえば、頼朝が「今日から幕府を開きます」と宣言した事実がないからです

1192年に将軍に任じられたとしても、それ以前に組織機構として完成していればそれは幕府では?そしてそれは守護・地頭の設置が認められた1185年では?

ということで1185年が有力視されるようになった……というのは少し前の話でして、実はいまはイイハコ説はほぼ否定されています

かつては、守護と地頭は逃亡中の義経探索を目的として1185年に朝廷から設置することを許可されたと理解されていたんですが、それより以前に源平合戦時の占領地行政として頼朝が独自に守護と地頭を任命している例がわかってきています。

じゃあ、1185年の文治勅許で「守護地頭」の設置を認められたというのは何だったのかというと、どうやらこれはよく知られた「守護」と「地頭」のことではなく、「守護地頭」(歴史用語で「国地頭」ともいう)の設置を認められたということのようです。
ここで詳細は省きますが、名前のとおり守護と地頭を合わせたような強大な権限を持った役職だと考えて下さい。
しかし、この守護地頭(国地頭)は一時的役職として終わり、定着することはありませんでした。

つまり、1185年に守護と地頭が設置されることになった、あるいは設置の権限が認められたという話は完全に事実誤認であり、これを根拠としたイイハコ説は全く成立しないのです。

1185年説が成立しないことの解説は下記の河合康氏の論考が詳細です。ご関心ある方はお読みください。
https://www.jikkyo.co.jp/contents/download/9992656969

じゃあ正解は?

こういった事情から、一時流行った幕府成立を1185年と断定する歴史教科書は減少傾向にあります。
「いまはイイハコ」とも簡単には言い切れないのです。
文科省が、学説が分かれている案件については複数の説を書くことを推奨していることもあり、本文で1185年としていても、注釈で他の説を紹介していたり、逃げ道がある場合がほとんどです。

学界や教科書のトレンドは、鎌倉幕府は「段階的に成立した」であり、「1192年に名実ともに完成した」ということのようですが、それってようするにイイクニ説回帰なのでは……?

「幕府成立を特定の年を指定して論じるのはよくない!」ということで「段階的に成立した」が最近は強調されるのですが、これは正しいことを言っているように見えて「イイクニじゃない」と一度言ってしまった(信じてしまった)から「やっぱりイイクニでした」とは言えない学者の方々のプライドの話のように思えてしまうのは私だけでしょうか。

私は「名実ともに完成した」んだったらイイクニでいいじゃんと思いますけどね。


次回予告

次回は本伝に戻ります。
ようやく1193年の話ができます。
富士の裾野に血の雨が降る!
「曽我の敵討ち」を解説します。

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